第二章金色の雨に出会った日

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第二章金色の雨に出会った日

1  ある酷寒に包まれた春の朝。  灰色の桜が空の左右を覆っていた。風は鋭く肌を刺し、白い髪を揺らした。  校門まで寒い想いをしながら、僕は歩いた。  きっと、本当はとても暖かいのだと思う。 どういうわけか、僕はどんな時も雪原にいるように寒かった。医者はどうやら心因性のものであるらしい、と言葉を濁していた。  何だって良い。  治そうとも思わないから。  腕に立つ鳥肌をさすりながら、僕は他の生徒たちが賑やかに話す中、一人、学校へと入っていった。 靴箱に外履を突っ込み、内履を引っ張り出すと、地面に放る。  両足を靴に入れ、僕は教室へと向かった。  二階にある一年生用の教室、特に僕の所属する教室は甲高い笑い声に包まれていた。  僕は知っている。笑いの渦中にいるのは、金峰雨子という女子生徒だ。 春の日光のように明るい人で、よく通る声、耳障りでない、心地いい笑い声をしている。  不思議に人を惹きつけ、人に優しく、平等に接する人だ。  顔の血色も良いし、長い黒髪はつやつやとして鼻は高く、唇は薄い。  本当に綺麗な人だ。  僕は少しだけ躊躇いながら、教室の引扉に手を掛け、ゆっくりと開けた。  全員が笑顔でこちらを見て、すぐに凍りついた。  僕が来ると、いつもそうだ。 「須藤君、おはよう!」  金峰さんが、小鳥のように首を傾げて僕へ挨拶をした。  僕は頭を下げて、目も合わせず、自分の席へと歩いた。  彼女が僕の世界を照らす光なら、僕はその光を閉ざしてしまう闇なのだろう。  それが証拠に、みんな、不快そうに顔をしかめている。  僕は全国的に名が知られてしまっているから無理もない。  妹を見殺しにした最低の兄として、みんな知っていて、僕を忌み嫌うのは当たり前だ。 金峰さんは、僕のしたことを知らないから、あんな風に接してくれているのだろうか。  どちらにせよ、底抜けに良い人なのは確かだ。  僕は教科書を広げながら、金峰さんの後ろ姿を見つめた。  金峰さんは僕の妹に似ているような気がする。 笑うと僕の心が華やぎ、声を上げると満ち足りた気分になる。  あまりにも眩しい人だ。  僕の人生とは無縁で、僕とは対極的な人生を今まで送ってきたのかもしれない。  まだ、会って数日だけど、金峰さんの後ろ姿を見るのは、僕にとって、悪くない時間だった。  人はきっと、自分に無いものを求めてさまよう。  僕は空っぽだから、何でも持っている金峰さんをきっと、うらやましく思う。  眩しいほどに魅力的な人だが話したいとは思わない。  こうして、金峰さんと妹を重ね合わせて、妹が生きているように錯覚しているだけで、僕は満たされる。  それでも、空っぽになってしまった心は復讐を求めていた。  僕は国語の教科書を見下ろした。  今日は朗読をさせられる日だ。 教科書を前にするだけで力が抜けそうになる。  朗読なんて、みんな、嫌がるものだけど、僕は、今日の日を嫌がるどころか恐れていた。  読まなければならないのは、ある男がある男に復讐の心を語るシーンだった。 僕は教科書に書かれたシーンに感情移入する自分に前々から気づいていた。  読み出せば、僕の意思に関係なく感情の全てをさらけ出してしまうかも知れない。  僕の復讐心に誰かが気づいて、僕の周りをうろつき始めたりしたら?  僕の目的の成功は遠くなる。  それだけは、ごめんだ。  ならば、読まないのが一番良いかも知れない。 しかし、こうも思う。  理由を聴かれたらどうする?  聴かれても、無視をすれば良い。  無視をしたら、反抗的な生徒だとみなされ、やっぱり窮屈(きゅうくつ)になるのではないか。 心臓が早鐘を打つのが分かった。 胸の辺りが圧迫されている気分だ。  僕は急に嫌になって、保健室に行こうかと考えた。  駄目だ、保健室には校医兼任のカウンセラーが常駐している。  僕をカウンセリングの第一候補に設定している人物は多い。  どうせ、壊れてしまった心を修復することで達成感を得たいだけだ。 僕は自己満足なカウンセラーに随分出会ってきたから、もう御免だった。  とにかく教室を離れて隠れるべきだ。  僕は思い立ち、準備していた教科書をバッグに詰めて急いで立ち上がった。  同時、チャイムが鳴り響き、現代国語の教師が入ってきた。  僕は鞄を持ったまま間抜けに突っ立っていた。  すぐに鞄を机の上に戻し、教科書を引っ張り出した。僕は心臓が高鳴るのを感じながら必死に何か方法は無いかと考えた。  教科書を今しがた用意したばかりだから、怪しまれているかも。 僕は教師をちらりと見た。 他の生徒も概ね僕とペースが変わらなかったようで、特別怪しんだりはしていない。  僕は金峰さんを見た。  さっきまで賑やかに話していたのに、もう既に、教科書を用意して姿勢を正していた。  僕は教科書に目を落とし、じっと表紙を睨みつけた。 「じゃあ、今日も朗読から。仁藤腎の『凍土』からかな、じゃあ、須藤」  僕は心臓が暴れ回る生き物のように脈打つのを感じながら、教科書をめくり、立ち上がった。 「『僕に生きる意味がないだって? 君は随分と可笑しなことを指摘するんだなあ。僕はいつも生きる意味を胸に描いて生きているとも。それは、僕の顔をこんなにした父親を殺すことさ』 木島は、顔の横にある陥没した箇所を指差しながら、にっと歯を出して笑った。 僕は言い知れない不安を感じながら、冗談じゃないよ。と突っぱねた。 『冗談? 冗談に思えるのかい?』」  僕は努めて平静に読んでいたのだけれど、クラスの空気が張り詰めていくのを感じて、言葉を切った。 先生が続けるように言った。  僕は逆らわなかった。 「『付けられた傷は一生消えないんだ。一生だ。もしかすると、来世でも消えないかも知れないじゃないか。そう考えると、僕はやり切れなくなるのさ。顔の傷は魂に刻まれた傷なんだよ。いわば刻印だ。僕の心は刻印がある限りは、永遠に凍土にあるのさ。ああ、イヤダイヤダ本当に厭だ』 木島は嘯いているけれど、もう彼の本気を疑うものはどこにも無いと、僕には思えた」  僕はさらに声を低めて読んだが、逆効果のようだった。 「そこまででいいよ、ありがとう」  先生は頃合いと見たのか、僕を遮った。 「いやあ、冷や汗掻いた。須藤は朗読が上手いなあ」  先生は労うように手を打ち、誤魔化すように僕をおだてた。  本気にはしなかった。  教師が自信のなさそうな生徒をおだてるのはよくある事だ。  さして特別な事だとは思わない。  僕は頭を下げて、教科書へと視線を落とす。落とすと同時、食い入るような視線が僕の額にぶつかるのに気づいた。  僕を脅かす気配に皮膚がそそけ立った。身の危険すら感じて、僕は視線の根元を見た。  金峰さんが、僕を見て、目尻を下げていた。  唇は引き結ばれ、今にも泣きそうな表情をしているように見えた。  何かの勘違いか、でなければ、僕以外の誰かを見たのだろうと考え、僕はすぐに金峰さんと目が合ったことを忘れることにした。 「寂しい人」  同時、僕の耳朶に、低く、哀調を帯びた声が響き渡る。  本当に注意していなければ、金峰さんに注意を向けていなければ、きっと聞こえない程に小さい声だ。  僕はもう一度だけ金峰さんを見た。  もう、前を向いて、シャーペンで板書をしているところだった。 手の動きに澱みは無く、いつものように振舞っていると感じた。  聞き間違えだったのだろう。  僕は安堵しながら、空っぽのノートに視線を落とした。  たまには、真面目に板書でもしようかと考えたけれど、やっぱり、何も手に付かなかった。国語は、勉強しなくても点数が取れるので、あまり真面目にやっていない。  他の教科も真面目にやっているかと言うと微妙だが、あまりにも点数が悪いと義母からの干渉が入るので、それは御免だった。 2  放課後の事だった。 クラスメイトが騒がしく教室を出て行き、部活の話やゲームの話をしながら遠ざかっていく。 金峰さんは、机の椅子に座って手早く鞄を整理していた。 教科書を綺麗に揃え、筆箱を入れると、金峰さんは急いで教室を後にした。 しばらくすると、知らない女性がクラスを見渡しているのに気付いた。 不思議に思いながらも僕は無関係を決め込んだ。 「須藤君! ちょっと来て!」  教科書をまとめて帰ろうとしていた僕は見も知らないその女性から手招きされた。  そもそも女性、だろうか。  中性的な男性のようにも見える。 髪は短く、顔は細く、目は切れ長。 着ている服は、パリッとしたズボンタイプのスーツだった。  人違いかと思ったけれど、須藤君なんて、僕以外にいない。  僕は教科書をちょうど詰め込み終わった所だったので、女性だか男性だか判らない人に手招きされるまま近づいた。 「突然、びっくりしたよね。私、絢瀬と言います。養護教諭でカウンセラーです。 少しお話ししたいなと。今、お時間大丈夫ですか」 絢瀬と名乗った(どうやら)女性はテキパキと尋ねた。  僕はとても帰りたかったけれど断る理由も思いつかなかったので、頷いた。 「じゃあ、保健室まで来て欲しいかな。会わせたい人もいるので」  絢瀬さんは、溌剌とした表情で笑い、颯爽と僕の前を歩き出した。 僕は絢瀬さんの後を追って、歩くことにした。 「僕、怒られるんでしょうか」 「逆だよ、逆。……逆ってこともないか。とにかく、怒ったりはしません」  僕が出来る限り抑揚なく尋ねると、絢瀬さんはちょっと心外そうに首を振った。 「私って、すぐに怒りそうに見える? 大学の先生が怒りっぽい人だったから、怒りっぽい人にならないように、自分を律して生きているんだけどなあ」 「僕がカウンセラーに呼ばれると、決まって最終的には怒られます」  僕は純然たる事実を述べた。 「多分、怒ってるんじゃなくて、諭しているんだと思うよ」  絢瀬さんはよく判らないことを僕に語りかけ、微笑んだ。  僕を安心させて、胸の内を明かさせようとしている。  警戒しなければならない。  僕は、絢瀬さんと一定の距離を取りながら、慎重に後ろを歩いた。 「諭すって、何が違うんですか。どちらにせよ、僕には不快だった」  カウンセラーたちの数々の安易な言葉を思い出して、胸の中で黒いものが渦を巻いた。 「カウンセラーの仕事は共感だから。 君みたいに共感のしようもない程に傷ついた人には、カウンセリングって逆効果なんだよね。 だから、私は君にカウンセリングはしません」  絢瀬さんはウインクしながら、声を弾ませる。 カウンセリングをしないカウンセラーは初めてだ。 「カウンセリングしないのなら、何をするんですか」  僕は僅かに身体を引きながら、絢瀬さんに尋ねた。警戒心に声が尖っているのが自分でもよく判った。  絢瀬さんは微笑んだ。 「会わせたい人がいるから」  優しい声音で僕に教えた後、絢瀬さんは歩調を速めた。  僕は絢瀬さんの不可解な言葉や行動にまたも猜疑心が滾るのを感じた。 踵を返して、逃げてしまいたい気分だった。  絢瀬さんは怒るだろうけれど、僕の心の平穏には代えられない。 「逃げないで」  僕が身体を後ろに向けようとすると、絢瀬さんは鋭い言葉で釘を刺した。  僕は足が釘付けになり、振り返ることができなかった。 僕はしばらくの後、絢瀬さんを見つめた。 「悪いようにはしないつもりだから」  柔らかな言葉に、僕はゆっくり頷いた。  もうなんとでもなれ。  頭の中で吐き捨てながら、僕は絢瀬さんの後を追った。  絢瀬さんは、吹き抜ける涼風のような人に思えた。  涼風を心地いいと感じる人も多いのだろう。 残念なことに僕に吹き付ける風はみんな、刺すような寒風に変わる。  絢瀬さんから吹く風は、僕の身体を蝕む。  腕を見下ろすと、峙つように鳥肌が立っていた。  僕は唇を噛み締め、寒さと戦った。  戦っている内に、二階を降り、一階の正面玄関にたどり着いた。 灰色の校舎の灰色の廊下に足音を響かせながら、僕たちは体育館近くの保健室にたどり着いた。  バスケットボールの音や、バレーボールの音が賑やかに鼓膜を揺らす。  保健室の扉を開けた瞬間、暖かい空気と僅かな薬品の匂いが漂ってきた。  保健室の生徒用の椅子に女の子が座っていた。  黒く長い髪を肩の上に乗せて佇むのは金峰さんだった。 「須藤君、また会いましたな」  金峰さんは、わざと戯けているのか、ざっくばらんな口調だ。  僕は状況がよく判らなかったので、絢瀬さんに視線を向けた。 「雨子にはいくつか特殊能力があるんだよね」  絢瀬さんが、なぜか得意げに嘯いた。  僕は突っ立ちながら、二人の顔を交互に見た。 「私、人の心象風景が見えるの」  金峰さんは優しく微笑み説明を加えた。  ますます判らなくなったけれど、僕は取り敢えず、話を聴くことにした。 「心象風景っていうのはね、人の内的な精神世界を具象化したもので」  金峰さんは一生懸命に説明をしてくれているのだが、僕にはやっぱり、ちょっと判らなかった。  金峰さんは、全然ついていけない僕に気づいて、咳払いをする。 「とにかく、百聞は一見に如かずだよ。絢瀬さん、例のものを須藤君に見せてあげて!」  金峰さんがやっぱり、少し戯けて頼むと、絢瀬さんは「はいはい」と返事をした。 絢瀬さんは直ぐに保健室の本棚に向かった。 「ジャジャーン、これなあんだ?」  やがて、本棚から一枚の絵画を引っ張り出した絢瀬さんは、明るく尋(たず)ねた。 「これが、心象風景ってことですか」  何となく理解が及び、僕は金峰さんに尋ねた。 「つまり、人の心を形にする絵、ってこと?」  僕は絵画を指差した。  絵画は、明るい色で彩(いろど)られた花園だった。お日様もぽかぽかと花達を照らし、蝶々が行き交っている。中心を絢瀬さんらしき人物が歩いていた。 「私の絵には、セラピーの効果があるって、大学の先生が言っていたんだ。 だから、須藤君の心象風景を描かせて欲しいの。 もしかすると、須藤君の悩みの原因を突き止められるかもしれないから」 「悩んでなんかいません。今、僕が抱えている問題がもし仮に悩みだったとしても、誰かに力を借りる気はありません」  僕は鞄を掴んで、二人に背を向けた。 「お心遣い、ありがとうございます。でも、結構ですから」  心の底から二人にお礼を述べ、心の中で謝罪しながら、僕は保健室を飛び出した。 3  誰一人、解っていない。  僕の問題は僕だけの物で、誰かに肩代わりさせるものじゃないのに。  胸に巣食う御しきれない想いを、他人が抱えられるとも思えない。 僕だからこそ、どうにか心へと仕舞い込み、耐えきることができた。 心が狂わずに済んだ。  靴箱に上履きを突っ込み、下履きに足を突っ込むと、僕は大急ぎで校門まで走った。 校門には灰色の桜がはらはらと落ちてくる。石造りの門と、金属製の仕切りが見事にアンバランスだ。 石造りの門は江戸時代から引っ張ってきたような印象を受けるのに対して、金属製の仕切りは未来から取り寄せたように感じられる。 酷く、ちぐはぐで、僕は初めてみた時に失笑したのを思い出した。  同校の生徒達が校門を後にする中、黒い車が門の前で停まっているのに気づいた。  車の扉にもたれかかり、男性がタバコを吸っていた。  男性はこちらを見るなり、にっこり笑って右手を挙げた。 「田辺さん!」  僕は思わず声が弾むのを感じながら、田辺さんに向かって歩いた。 「和馬、乗ってけよ。ファミレスかどっかで肉でも食おうぜ」  側に駆け寄ると、田辺さんは僕の肩を軽く叩いた。 「遅くなったけど、入学祝いにプレゼントも用意しているからな」  田辺さんは、僕の耳元で声を潜め、告げる。  胸が高鳴り田辺さんの顔から目を背けられなかった。 「ま、渡してからのお楽しみってな。行くぞ」  田辺さんは、僕の耳元で囁いた。かなり羽振りが良いのか、良いスーツを着ているのに、間近で見て気づいた。  景気良くステーキを奢ってくれるのも金持ちだからだろう。  田辺さんに勧められるまま、僕は助手席に座った。 車は黒いセダンで、太陽の光に照り返っていた。黒い車体のフレームは銀色で、高級感を演出している。  運転席は左にあった。 つまり、外国の車だ。ボタンの位置やハンドブレーキの形状もあまり見かけないもの。 車の中からは、品の良いハーブ系の香りが漂う。 座席に身を預けると僅かに全体が沈んでマッサージをされているような気分だ。 「良い車に乗っていますね」 「お前も働けば乗れるって。お前の目的を果たしたら、俺の仕事手伝わせるからな」  田辺さんは笑って、僕に無糖の缶コーヒーを渡した。  僕は笑顔で受け取った。 「和馬はおかしい奴だよな。無糖のコーヒーなんて、普通、飲めたもんじゃないのによ」 「美味しいですよ、無糖。あんまり濃い味付けしてあると、僕の場合は気分が悪くなるし」 「和馬ぁ、ちょっと饒舌になったな。なんか良いことでもあったか?」  田辺さんは薄く微笑んで、僕の顔をちらりと見た。  片手間に車のキーを鍵穴に突っ込み、エンジンを入れる田辺さんを見て、僕はしばし考えた。  良い事なんて、多分無かった。 「むしろ、今日は最悪な日でした。朗読しなくちゃならなかったし、お節介なカウンセラーが来るし」 「お前がああいう体験をした以上、カウンセラーはわらわら寄って来るもんなんだよ。誰だって、手柄が欲しいからな」  田辺さんは何でもない事のように持論を述べ、ハンドルをくるりと回転させた。 「っつうか、ファミレスでいいか? なんなら寿司にするか?」 「流石に、そこまでは」  僕は慌てて固辞した。 「ん、まあ、そうだな。ちょっと、奮発し過ぎか、こいつもやる事だし」  田辺さんは、声を低め、親指を後部座席に向けた。  黒いリボンで包装された白い箱が、座席の上に載っていた。 「今すぐ渡してもいいんだけど、使い方を教えないと危険だからな」  食い入るように箱を見ていたせいか、田辺さんは諭すような口調で僕を押し留めてきた。 「バレずに殺す算段はあるのか」  田辺さんは、また声を低めた。  車は信号待ちで止まり、田辺さんは人差し指でハンドルをコツコツと叩いていた。 「バレてもいいんです。未成年法に守られて死ぬことはないし。 最悪、死んだって構わない」 「お前のためなら、いくらでも骨を折るし、保釈金だって出してやる」  バックミラーに映る田辺さんの真剣な顔には一つの偽りも感じられなかった。 「俺は、お前の闇に惹かれた。ガキの頃の俺とそっくりな目をしている」  田辺さんは自分の右目を指差した。瞳は吸い込まれそうな漆黒に彩られている。 「何としてでも殺せ。 バレないのが一番だけど、中途半端に犯行を隠そうとすると、出て来るのに時間が掛かるかもだからな。 好きなようにやってみろ。俺だけは、お前の味方だ」  言葉の一つ一つに力を載せるように、田辺さんは語り掛けてくる。  そうだ、味方は田辺さんだけだ。  けれど、絶望の荒野を歩くのはたった一人でなければならない。 「さ、着いたぞ。ファミレスだ」  僕が考えていると、田辺さんは殊更に優しく教えてくれた。  車は駐車場を滑らかに進み、停車した。  僕は優雅に立ち上がる田辺さんに続き、ファミレスの入り口に向かった。 4 ファミレスは、全体的に焦げ茶色で統一されていた。 相当量のテーブルと椅子が立ち並び、ガラス張りの窓に囲まれている。 一つ一つのテーブルの上にはベルとメニューが置かれ、何人かのお客が手に取って眺めていた。 田辺さんもその一人だった。 「肉のメニューってたくさんあるんだなあ。 どれも美味そうじゃん。 ほれ、和馬、どんどん頼めよ。 遠慮すんな。男はステーキくらい二、三枚くらい軽く食べらんないとロクな大人にならねえんだよ。 まあ、俺はロクな大人じゃねえけどな」  メニューを見下ろしていたら、田辺さんがカラカラと笑った。 「僕の胃袋の容積を越えるから三枚は食べません」  僕は嘯きながら、メニューの一つを指差した。 「一番安いステーキで」 「遠慮なんかすんなよ。そんな安い肉喰ったって、力は付かねえからな。ま、頼めるだけ頼むか!」  田辺さんは僕を諭した後、ベルを鳴らした。  店員さんがやって来て、オーダーを聴く。  田辺さんはステーキを山ほど頼み、食後にパフェを追加した。  僕が呆気に取られていると、田辺さんはニヤッと笑って、おしぼりを転がした。 「お前が俺の右腕になったら、返してもらうからな」 「自分で頼んだくせに」 「違いねえ」  軽口を叩き合ってしばらく、ステーキが山程テーブルに並べられた。  田辺さんは、早速フォークとナイフを取って、ガツガツと食べ出した。  僕もナイフを取り、ステーキを切り分けていく。 「で、和馬、お前、大学には行くつもりか? 行くつもりなら、バレないやり方のほうがいいと思うけどな。学費は出世払いで俺が出すしよ」 「大学は興味ありません」 「でもなあ、大学って結構楽しいんだぜ」  田辺さんらしからぬ発言だとは思ったけれど、言い方からして、大学にはちゃんと通っていたらしい。 「あの、大変ありがたいのですけど、そこまでして頂ける理由が解りません」  僕は手を止め、田辺さんを真っ直ぐに見た。  田辺さんは肉を口に運ぼうとする動作で固まり、やがてフォークとナイフを皿の上に置いた。 「良いか、和馬、お前には親と呼べるような存在はいねえ。お前の両親はお前を売って、自分たちの保身に努めた。そんな境遇のお前を放っておけると思うか?」  田辺さんはギリギリと拳を握りしめ、吐き捨てた。 「本当なら、お前の義母はヤク漬けにしてどっかに売り飛ばしたいくらいだが、それはお前の裁量に任すべきだ。 お前は自分で殺したいと決意しているからな。なら、俺が直接に手を下すのは筋違いだ。 と言うわけで、俺は精一杯の支えになってやろうと思ったわけだ」  田辺さんは、フォークを取り、肉を突き刺すと、一気に口に入れ頬張った。 口元から、肉汁が垂れている。  十回くらい噛んだ後、田辺さんは肉を飲み込んだ。 「食え食え、冷めちまう」  何事も無かったように田辺さんは優しい口調で僕を急かした。  僕は田辺さんに従って、肉を口に入れた。  田辺さんは肉がなくなった頃合いに、僕の目の前へ箱を置いた。 「和馬、チャンスはいくらでもある。例え失敗したとしても、諦めるな」  田辺さんは、慎重に声を低めた後、箱を取ろうとする僕の手を掴んだ。 「セーフティとかの知識はあるな?」 「あります」 「よし、銃弾も十分ある。どこか人気のない場所で練習しても良い、十発までなら練習に使える計算だ。 サイレンサーも入ってる。付け忘れるなよ?」 「もちろん、判っています」  僕は口酸っぱく心配してくれる田辺さんに微笑みを向けた。 「高校入学おめでとう。これは、お前へのプレゼントだ」  田辺さんは、親戚の叔父さんか何かのように、僕の両肩を叩くと、鍵と財布をポケットから出して立ち上がった。  僕は箱を大事に抱えながら、田辺さんの後ろを歩く。 「いつ決行するのが良いだろう」 「決意が最高潮になった時だ。 決意に対して迷いが少しでもあると、手心を加えちまう。 そうなると、成功率が下がる、必ず後悔する」  田辺さんはまた声を落とし、僕の右手に目を落とした。右手には箱がある。 「プレゼントは有効に使え」  田辺さんは、僕の肩に手を置き、会計に向かった。 「げえ! こんなに高いの!」  料金を見た瞬間、田辺さんは声を上げたが、すぐに財布から紙幣を山程に出したのには安心した。  店を出ると、僕は田辺さんに頭を下げた。 「今日は、ここから歩いて帰るので」 「悪くない判断だ。 お前の義母、あのクソ女に俺の存在がバレるのは少しまずいからな。だけどまあ、途中まで送らせろよ」 「いいえ、今は、一人になって、決意を固めたいんです」  僕が首を振り、出来る限り静かに告げると、田辺さんは僕の肩に手を置き、僕から離れた。  ひらひらと手を振る。 「幸運を祈る。少年!」  まるで、明るい未来に突き進む少年を祝福するようなセリフと共に、田辺さんは離れていく。  僕はすぐに頷いて、田辺さんに背を向けた。  心の中に、不安と期待が渦巻いている。灰色の道を進みながら、僕は二つの感情を制御しようと試みた。  指の先まで不安が這い回り、心臓は期待に脈打っている。  僕は、あの二人を殺さなければならない。  箱の中に入った拳銃を使えば、容易に殺せるだろう。  とは言え使用は最低限にとどめなければならない。 安易に使えば田辺さんだって怪しまれる。 今日、こうして、僕は田辺さんと会い、話す姿を多くの人に見られているからだ。  であれば、田辺さんを守るためにも、犯行は完璧でなければならない。  田辺さんなら、人を殺しても、金を積んで出て来られるのかもしれないが……。  僕は深く考え込みながら、帰り道をダラダラと歩き続けた。 ファミレスのある大通りから道を逸れると、住宅街に入った。 夕闇に包まれて、街は少しだけ不気味だ。 建物が四角四面に切り取られた土地の中にひしめいているのは何だか、ぞっとする。 街はどこまでも静かで、晩御飯の匂いが漂って来た。 静寂を破る者がいた。 「あー! 見つけた、不良少年!」  突然、背後から勢い余ったような声が襲いかかってきた。 後頭部を殴られたような錯覚が僕を支配した。  警戒心で意識を張り詰めながら、僕は振り返った。  不良少年? 拳銃を持っているのがバレた?  誰だ、僕に声をかけたのは誰だ?  僕は喉がからからに乾くのを感じながら、声の主を睨んだ。  金峰さんが仏頂面で僕を睨み返した。  塀と塀の間で腰に手を当て、頰を膨らませていた。 「本当に、探したんだからね! いきなり帰るなんて、酷いにも程があるよ」  金峰さんは、いつの間にか僕の隣を歩いて、つっけんどんに苦言を述べた。 「元はと言えば、そっちがお節介だから。僕は苦しんでなんかいないし」 「苦しんでない人が、あんな苦しそうに朗読ができるもんですか」  僕の控えめな言葉を、金峰さんは撥ね付けた。 「須藤君が劇団に入っているなら別だけど」 「入ってない、けど。誰でも、あれくらい、情感を込めて読めば、きっと」  僕は必死で否定しようとした。声が震えているのが判る。  黙ってしまうと金峰さんに心を見透かされる。  僕の心は弦のように張りつめていた。 「須藤君、私、いくつか特殊能力を持っていてね。人の心象風景をスケッチすることの他に、人が自殺しようとしたり、他人を殺そうとしたりする予兆がすぐに判っちゃうの。 それに、貴方が怪しい男の人から何かをもらうの、見ちゃったの。 中身を見せてくれない?」  金峰さんは、しかめっ面で僕を見て、箱をもぎり取ろうとした。  箱を取られれば、中に拳銃が入っていることがバレる。  金峰さんの身体を押しのけようとしたが、理性が許さなかった。  躊躇している間に箱は手に渡っている。  僕は訳も分からず動いていた。  プレゼント箱を引き裂いて、拳銃を取り出し、金峰さんに突きつける。  自分でも、何をしているか解らなかった。  だけど、判る。  金峰さんは知っている。僕の殺意に気づいている。  消さないと行けない。  引き金に手を置くけれど、腕が震えて、狙いも付けられない。 「須藤君、それ、それ……本物?」  金峰さんは、恐怖に顔と声を引きつらせながら僕に尋ねた。 僕は答えず、トリガーに掛かった指を引こうと構えた。  次の瞬間には、手を降ろしていた。  僕は箱を拾い上げ、銃を鞄に仕舞い込むと、金峰さんの脇を通り過ぎて走り出した。  終わった。  何もかも……。  今にも警察が来るかもしれない。  今すぐ両親を殺さなければ、永遠にチャンスは訪れないかもしれない。  帰って、あの二人を殺さなければならない。  僕はぐるぐると同じことを考えながら、自分の家を目指して走った。  ある時点で、僕は気づいた。  僕の右手を何かが引っ張っている。  ギョッとして振り返ると、金峰さんが、僕の手を取って、息も絶え絶えに、首を振っていた。 「わ、私、足も速いんだよ」  切れ切れの言葉で教えてくれた後、旭日のように笑う。  僕の右手に触れた手は、久しく忘れていた人の温もりを思い出させた。  まるで、それは妹の手のように思えた。 「に、にせ、ものでしょ? 本物だとしても、須藤君は、最後の最後で思いとどまると思うな。優しい人だから」  金峰さんは、なおも息を切らし、僕に語りかける。  僕は金峰さんを見つめた。 「大丈夫、誰にも言ったりしない。須藤君がいなくなったら、嫌だもの。 だから、そんな悲しい顔をしないで、怖がらないで」  金峰さんは微笑み、僕の身体を自分の身体に引き寄せた。  僕の顔を抱きしめた金峰さんに、僕は必死で首を振る。 「怖がってなんか、いない」  僕は必死で否定し、金峰さんを振りほどこうとした。  草原に吹く春風のような匂いがする。  僕は金峰さんから離れていたくないと考えた。  けれど、僕は腕を振り解いた。  金峰さんは空っぽになった両腕を力なく降ろして、僕に微笑んだ。 「誰にも言わないから、今日だけはやめて。お願い、一生のお願い」  金峰さんは僕に向かって深く頭を下げた。  僕はもう、目の前で起こっている現象が一体なんなのか、少しも理解することができなかった。金峰さんのつむじを見詰めながら、僕は後ずさった。 「絶対に、言いません。それと……」  金峰さんは顔を上げ、僕の顔を真っ直ぐに見詰めた。 「心の中を土足で踏みにじってしまって、申し訳ありません。だから、今日だけは、私の絵が完成するまでは、思い止まって欲しいんです。絶対に、誰も殺さないで」  今にも泣き崩れそうな声で、金峰さんは懇願した。  金峰さんは顔を上げた。  涙で頰は、びしょ濡れで、目は充血して、唇は固く引き結ばれていた。僕は目の前の信じられない光景に呆気にとられた。  金峰さんは顔を拭ったかと思うと、踵を返して走り出した。  僕は何が起きたのか未だに理解できず、金峰さんと逆方向に走り出した。 5 相変わらず趣味の悪いピンク色の家に、一刻も早く帰りたいと思ったのは初めてだ。僕は、ゴシック装飾のされた白い門を潜り抜け、義母や父への挨拶もそこそこに家に飛び込んだ。  扉を開け放つと、義母の文句も聴かず部屋に向かった。 部屋には机とベッド以外何も無く、音を立てるものもない。義母が時々振りかけていく趣味の悪い香料の匂いがする。 僕はすぐさま布団に包まって、頭を抱えた。  金峰さんの言葉が、僕に殺されないための嘘だとしたら?  いや、そんな訳が無い。逃げれば、それでよかった話だ。だがもしかすると、後日僕に殺されるのを恐れただけではないか。  思考の泥沼に沈む中、家の前を車輪が回転する音がした。 僕は心臓を吐き出しそうになるほどの嘔吐を感じて咳を繰り返した。  車輪の音は遠ざかって行く。  僕は、心の底から安堵したが、車が通る音がする度、幻覚と妄想に心は苛まれた。  空が紺色になり始めるとき、義母の声がした。僕は風邪の振りをして、食事を断った。 義母は僕に何も言わず、部屋を出た。  父と義母が食事をする音が聞こえてくる。  本当なら今頃、二人は骸となっていた。  けれど、僕の決意を暖かい向かい風が阻んでいる。  鞄の中には拳銃が入っている。  今からなら殺せる。  金峰さんは、今日だけは殺さないでと言った。  殺す以外に、もう道はない。  僕は、布団から顔を出し、天井を見つめた。  信じよう。  凍えた両手に残る温もりと、彼女の言葉を。  だが、彼女は光で僕は闇。だから、一緒にいることはできない。仲良くすることはできない。永遠に交わることはない。  僕は、両手に残る温もりを額に乗せて、目を閉じた。 決別は自ら彼女に告げなければならない。  もう、何も考えられないほどクタクタで、僕は深海のように久遠な眠りに誘われていった。 6  翌日、僕はありったけの決意を振り絞って通学した。  いつもと変わらない灰色の道を歩き、いつもと変わらない光景に自分の姿を刻む。 生徒たちは疎らに僕の前や後ろを歩き、談笑していた。 僕はやや、固める前のコンクリートの匂いがする昇降口に辿り着き、靴を脱いだ。  靴箱に外履きを突っ込み、内履きに両足を突っ込んだ。  教室に向かうまでの道のりは果てしなく遠かった。  それでも、僕は慎重に歩き続けた。  いつものように笑い声の絶えない教室の扉を開く。  笑いの渦中には金峰さんがいて、僕を見て「おはよう、須藤君!」と顔を輝かせて挨拶した。  他の生徒達はいつもと同じように顔を顰めて、やがて視線を逸らしてしまう。  僕は自分の席に着き、いつものように教科書を鞄から引っ張り出した。  と、腹が何か未知の感触にぶつかった。慌てて視線を下に向けると、額縁のような厚さの封筒が机に入れられているのに気づいた。  封筒を取り出して、差出人の名前はないかと確認した。あるのは綺麗なメッセージだけだった。 『放課後になったら、開けてください。それと、放課後保健室に来てください』  一体なんの冗談なのかと、僕は金峰さんの後ろ姿に視線を送った。 金峰さんとは限らない、もしかすると絢瀬さんかもしれないが、僕は直感していた。 封筒の差出人は絶対に金峰さんだ。  僕がいくら視線を送っても、金峰さんは友達と話すばかりである。  一体、僕に何をさせようと言う。  放課後に行く約束なんて破ったほうがいい。  いや、金峰さんには釘を刺す必要がある。 場合によっては、金峰さんの望みを叶える代わりに、僕の行いに目を瞑ってもらう必要がある。  僕は教科書を睨みつけながら、考えをまとめた。 7  授業は、まるで早回しのように終わり、外を見ると、太陽の光が移ろい始めていた。  僕はゆっくりと立ち上がり、いつの間にか机から居なくなった金峰さんの姿を探す。完全に教室から消えていた。  チャイムが鳴ってから、そう長い時間が経った訳ではないから、あまりに素早かったのだろう。 他のクラスメイトはまだ準備を終えていない。  僕は教科書を鞄に纏め、肩に背負った。  鞄はいつもよりずっと重い。  底の方に板を入れ、板と底の間に拳銃が挟まっている。  色々と隠し場所を考えたが、結局、目前にあったほうが一番に安心ができると僕は考えた。  僕は鞄の重みをしっかりと感じながら、一階の保健室へと向かった。  僕の周りを学生達が行き交う。  走っている者もいる。そう云う輩は僕を見ると足を止め、身体を遠ざけていく。  僕には確認しようもないが、僕の表情は余程に血走っているのか。  呼吸が定まらないのに気づいた、息切れしていた。  体の隅々までを倦怠感が支配している。  僕は、喉を脈打たせた後、深呼吸をした。  恐れるものは何もないはずだ。  相手は只の女の子と只のカウンセラーだ。僕をいくら否定し、押し留めようとしたとしても、僕は折れることはない。  僕は、階段に差し掛かり、階下を睨みつけた。  一歩一歩が重いのは、果たして、疲れているだけか。  怖がっているのではないか。  怖がる必要はないと云うのに。  僕はゆっくりと視線を上げた。  金峰さんを前にすると、僕は大事なことを忘れそうになる。憎悪とか、絶望とかが、金峰さんの笑顔を見るだけで氷解する。  理由は判らない。  考えていると、足が一階の床に付いていた。関節に負担がかかる足の突き方になって、僕は膝を抱えた。  そんな僕の前方に影が差す。 金峰さんが灰色の廊下に立ち、夕焼けの光をスポットライトに微笑んでいる。 「金峰は、逃げないように、待ち伏せしていたのでありました!」  小鳥の鳴き声のような澄声が、僕を金縛りにした。僕は視線を前に向け、今しがた僕に言葉を放った女の子を見る。 「須藤君、今日は逃がさないからね! 貴方の動きは既に見切った!」 「逃げないよ。君から逃げる理由を思いつかない」  僕は戯ける金峰さんを真っ直ぐに見据えて、言い放った。  金峰さんは瞬きをした後、やはり小鳥のように笑う。 「良かった。じゃあ、絢瀬さんに習った十手術を使う必要もないね!」  金峰さんは明らかな嘘を吐いた。 「十手も何も、君は今、何も持ってないだろ」  僕は頭痛を感じながら、否定した。  鞄まで持っていない、完全な手ぶらだ。 「十手というのは、素手の技もあるのだよ。ほらほら、それより行こ?」  金峰さんは支離滅裂に嘯いて、僕の右手を取った。肩が脱臼しそうになる程、強く僕の右手を引く金峰さんは確かに足が速いようだった。  僕は足を前に進めながら、金峰さんのペースに呑まれないよう警戒心をたぎらせた。  妹に手を引かれて歩く光景が今、脳裏に過ぎっていた。  金峰さんは、僕の妹じゃない。  こんな思考は押し付けでしかない。  僕は脳裏の映像を消し去りながら、金峰さんを必死で追った。 「須藤君、あんまりご飯食べてないでしょ。ご飯食べないから体力がつかないんだよ」  僕が息を切らしていると、金峰さんは振り返って忠告した。  僕は「気をつける」と返して、膝に手を置いた。  本当に、金峰さんは足が速い。  保健室が割合と近い所にあって助かった。  僕がやっと足を止められたのは、保健室の扉の手前だった。 「あーっ!」  奇声を上げるや否や、金峰さんがしかめっ面で僕の両手へと指を差す。 「私の絵、持ってこなかったでしょ!」 「あ、ごめん」  すっかり忘れていた。  渡された随分と大きな封筒は持ち運びやすいとは言えないから、無意識に避けていたのかもしれない。 「女の子からの手紙は大事にしろっ!」  金峰さんは僕の鼻をつまみながら、赤い頰を膨らませた。 「て、手紙? 絵画なんでしょ?」 「言葉の綾だ! 誤魔化そうとしない! ダッシュで取ってくる!」  僕の弱々しい言葉を跳ね返すように捲し立てた後、金峰さんは保健室とは反対方向へと指を向けた。  僕は渋々、金峰さんの言葉に従い、教室へと引き返すことにした。 8  戻って来た頃にはもう随分と息が切れていた。  金峰さんは、僕が戻って来ると満足げに微笑み、保健室の扉を開いた。 「今から、心理分析をします。保健室へ入ってください」  金峰さんは、一方的に告げた後、僕の腕をまた引っ張って、保健室へと放り込んだ。  保健室の中には、絢瀬さんがいて僕に向かって手を挙げた。  部屋の中央には、テーブルがあり、手前に一つ、奥に二つ、椅子が置いてあった。 奥の一つに絢瀬さんが座っている。 保健室は部活の音に包まれてはいるものの、どこか静かだった。 僅かに漂う消毒液の匂いや、絆創膏の匂いが、不思議と心を落ち着かせる。 僕が保健室を眺めていると、絢瀬さんは手前の席を指し示した。  僕は机の前に置かれた椅子に座らせられ、しばらく金峰さんに目配せをしていた。 金峰さんは、僕に対して説明をしないまま、僕の向かい側に座った。 「じゃあ、絵を出してください」  僕は机の上に置いた封筒を開いて、中から額縁に収まった絵を見た。  見た瞬間から、封筒から出した絵に釘付けになった。  それは、確かに僕の心象風景だ。 絶望の荒野、灰色の雪、赤い花弁に変わった少女の躯を抱き歩き続ける少年。 少年の首には赤いマフラーが巻き付いていた。  僕はゆっくりと絵から視線を外し、二人を交互に見た。 「なんで、知っているんです。僕は誰にも話したことはないはずだ。僕を監視していたんですか?」  僕の声は明らかに上ずっていた。  絢瀬さんは微笑みを浮かべ、首を振った。 「雨子の特殊能力、前にも説明したでしょう? どういう理屈かは判らないのだけれど。雨子には見えるの。深い心の傷を負った人の心象風景がね」  説明されたところで到底、納得ができるものではない。  僕はまだ、二人が嘘を吐いている可能性を探っていたが、金峰さんも絢瀬さんも、本気の表情を浮かべていた。 「どちらにしたって。僕の心を覗き込まれて、いい気分はしないことぐらい、判りますよね」  僕は金峰さんと絢瀬さんを交互に見た後、声に苛立ちを閉じ込めて尋ねた。  金峰さんはたじろいだように見えたが、すぐに強く僕を見返した。 「見えてしまうんだもの。須藤君は傷ついているって判ったからには、救わないと」 「余計なお世話ですよ。僕と金峰さんには、信頼関係もへったくれもないのに。どうして、救われなければならないんですか」  僕は憎悪を言葉に滲ませようとしながら低い声で尋ねた。  金峰さんは、唇をひくつかせたけれど、すぐに肩を聳やかした。 「信頼関係を築けなくたって、須藤君の心が少しでも軽くなったらそれでいいもの」  頑固に、どこか大人気なく、金峰さんは駄々を捏ねた。  僕は首の後ろを掻きながら、浅く椅子に座り直した。 「信頼関係がないのに、どうやってカウンセリングするんです」 「カウンセリングじゃありません。心理分析です」 「何が違うんだ。どっちもカウンセラーのお遊びじゃないか」 「カウンセリングと心理分析は真逆なの! 何も解ってないのに、遊びとか言わないで!」  金峰さんは、頰をリンゴのように赤くしながら、僕に詰め寄った。 「喧嘩しない」  絢瀬さんは、金峰さんをなだめながら、くすくすと笑った。  僕は絢瀬さんの表情を見ながら、彼女は僕が拳銃を持っていることを知っているのかと、心配になった。 もしも、知っていれば引き渡すように、要求されるかもしれない。 「カウンセリングは、共感、相手に信頼を示すことで、心の傷をケアするもの。 精神分析は、人の心の裏にある暗い病理を抉り出すものなの。 だから、患者は全部、嘘を言っているっていう前提で話すものなのね。 だから、本質的には信頼関係なんかないんだよね」  絢瀬さんは丁寧に説明して、僕に向かって微笑んだ。 「カウンセリングが嫌なら、精神分析はどうかと思ったけど、お気に召さないかな?」 「話は終わりです。じゃあ、僕はこれで」  僕は絢瀬さんの言葉を無視して、煩わしく言い放った。  去り際、僕は振り返った。 「人が人を救うことはできない。人の心の傷が軽くなったとしても、救った気がするだけ、救われた気がするだけ、たったそれだけのことでしょう」  絢瀬さんと金峰さんに言葉を叩きつけ、僕はまた踵を返した。  出口の扉を開け放ち僕は絵を置いたまま走り出した。  絢瀬さんは追おうとしたようだったけれど、金峰さんが身じろぎをするとすぐにやめた。  遠ざかっていく保健室から、泣き噦るような声がした。  僕は、足を止めかけたが、すぐにまた走り出した。  金峰さんは妹でも何でもない、なら、気に掛ける必要はないはずだ。 9  人が他人の心を救えると思うなんて馬鹿げてる。  他人の心は、所詮、他人の心でしかないのだから、果たして本気で他人の心と向き合うことができるだろうか。  僕には、途方も無く難しいことのように思える。  金峰さんの言葉も、絢瀬さんの心配も、空虚に胸へと響くだけ。  的外れでないだけ、他のカウンセラーよりマシだけれど。マシなだけだ。  それにしても不思議なことに二人は遂には拳銃のことへ触れなかった。  金峰さんは絢瀬さんに対して何も教えていなかったのか。  今日の態度を見て、僕はますます二人が理解できなくなった。  拳銃が奥深くに眠った鞄を抱きかかえ、僕は考えを巡らせた。  これからも、二人は介入してくる、容易に義母と父を殺すことはできなくなるかもしれない。  今すぐにでも、殺すべきだろうか。  武器はある。  覚悟もある。  にも関わらず数ヶ月の間、一度も実行に移していない僕に、本当にできるのだろうか。  バレなければいいのか。  警察に捕まったりしなければ、僕は殺人を是とすることができるのか。  そんな問題じゃないのは判っている。  心に引っかかっているのも確かではある。 捕まりたくはない。  ならば、トリックを考えなければならない。  いや、もうトリックは思い描けていた。  義母は、アロマキャンドルを趣味にしている。  父と一緒の寝室で、廊下に甘ったるい不快な匂いを漂わせ、媚態を晒している。  アロマキャンドルを利用する手はないか。  それと、義母は、くだらない飾りを寝室に溢れさせている。 造花、犬の方や猫に形に変形させた風船、パステルカラーの壁紙などだ。  義母が大事にしているそれらを利用して、殺す方法はないだろうか。  しかも、誰にもバレないように……。 10  放課後、金峰さんは決まって僕を追って来るようになった。 それでいて、僕が何のつもりか訊いても、答えるどころか目も合わせようとしなかった。 金峰さんの苛立ちも僕には理解できたが、僕にだって苛立ちはあった。  放課後に準備したいことは山程ある。  僕はあるトリックを思い付いていたが、金峰さんが付いていては、トリックに必要な素材を集めることは出来ない。  三日も四日もそんなことが続くと、流石に焦りを感じ始めた。  僕は仕方なく絢瀬さんに会いに行くことにした。  例え、金峰さんから逃げようとした所で僕よりずっと足が速いから追いつかれる。 逃げられないのならば、絢瀬さんに頼んで金峰さんに僕を追わないように言ってもらおうと思った。  僕は灰色の光に包まれた教室を歩き、保健室へと向かった。金峰さんは当然のように僕の数歩後ろを歩いて来る。 僕と金峰さんの足音は廊下に反響し、折り重なっている。 「暇なの?」  僕は足を止め、嫌味たっぷりに尋ねた。 僕と金峰さんの足音が一斉に止まった。 「暇じゃありません」  金峰さんは流石に頭に来たのか僕を睨んで言い返した。  僕は金峰さんから視線を逸らし、階下へと降りるために階段を降りた。金峰さんは尚も僕を追う。 「逃げないよ」 「嘘」  僕の偽りのない言葉を、金峰さんは無碍に振り払い、肩をそびやかした。 「そろそろ、教えて欲しい。どうして、拳銃の事を誰にも言わないんだ」  僕は何となく焦れったくなって尋ねた。 「オモチャの拳銃で須藤君に脅された事を全校生徒にふれ回っていいの?」  金峰さんは、僕を睨んで質問に質問で返した。  オモチャじゃない、と言いかけて、僕は口を閉ざした。 「オモチャの拳銃に驚いて子犬みたいに震えていた癖に」 「震えていません。幼稚な遊びに笑いを堪えていたんです」  金峰さんは突っぱねた後、舌を出して、僕の横まで移動した。 「一瞬は本物だと思ったけど、今、思えば只のエアガンに決まっているもの。 親戚のおじさんに本物みたいなエアガンをプレゼントされるなんて、果報者だね。 私、お母さんに、教育に悪いからって、あんなもの買ってもらえなかったよ」 「そもそも、欲しかったの?」 「ぜーんぜん、拳銃なんて大っ嫌い。世界から無くなっちゃえばいいのに」 「じゃあ、君に文句を言う筋合いはないと思うけど」  あしらうように言葉をぶつけると、金峰さんは僕の肩を軽く殴って、また舌を出した。 「私、絶対に須藤君を救って、カウンセリングの素晴らしさと世界の美しさを教えてやるんだから。それで、『時よ止まれ、汝は如何にも美しい』って、言わせるんだ」 「金峰さんは悪魔だったんだ。知らなかった」 「意外、ゲーテのファウストを読んだことがあるの?」 「言葉だけは知っている」  叙事詩、ファウストで、ファウスト博士が悪魔との契約の完了を告げた時の言葉だ。 「天使だって、人間と契約くらいするんじゃないかな」  金峰さんは、もう怒りを全て忘れてしまったのか、生き生きとした笑顔で僕に語りかけた。  金峰さんは長く細い腕をゆっくりと伸ばし、息を吸い込んだ。 「うーん、そっかあ、文学に興味を示さない絶望的な体質だと勘違いしていたけど、これなら、更正にも希望が見えてきたかな」  気持ち良さそうに目を細めて呟いた後、金峰さんは僕の横顔を見て微笑んだ。 「僕は更正なんてする必要はない。ずっと、このままで生きていくつもりだ」 「生きていくつもりなら、死んだような顔をしてちゃダメだよ」  金峰さんは、僕の動揺を悟ったのか『生きていくつもり』、をやけに強調して、僕を諭した。復讐さえ遂げればいつ死んだっていいと思っているのに、僕は生きたいようなことを嘯いてしまった。  矛盾した自分の言葉に気づいた。 「死んだような顔をしているのは、僕の責任じゃない。整形でもしろって言うのか」 「顔貌じゃなくて、表情のことを言っているのだよ、ワトソン君」  金峰さんは、勿体つけた後、髭を撫で付けるような仕草をした。 「表情なら、もっと無理だ」  僕は心底嫌になって、吐き捨てた。 「まるで自分には表情筋が無いようなことを言うんだね」 「うん、無いよ」 「嘘ばっかり」  言葉でじゃれ合うと、金峰さんはやっぱり小鳥の囀りのように笑って、くるりと身体を回した。回した姿勢のまま、僕の目の前に身体を踊り出すと、じっと瞳を見つめてくる。 「えい!」  金峰さんは悪戯っぽい声をあげた。挙句、僕の両頬を柔らかな手で包み込み、マッサージをしてきた。 「うーん、こんな可愛い女の子に頰を触られてもにこりともしないとは、確かに重症ですなあ」  不満げな声で、金峰さんは尚も続ける。 「でも、表情筋が無かったら、多分、こんなに滑らかに手は動かないと思うし……」  金峰さんは僕の頰をつねり、横に引っ張って、一人ぶつぶつと分析した。 「大丈夫、表情筋はきっとあるから、これから一緒に直していこうね!」 「表情筋が無いなんて、嘘に決まっているだろ」  僕は怒るべきなのか、呆れるべきなのか判断も付かなくなりながら、言葉を撥ねつけた。 「なあんだ、冗談か。良かった! じゃあ、ちゃんと笑えるはずだね」  金峰さんは僕の両頬から手を離すと、腰の後ろで手を組んでにっこり笑った。 「これが、ノーベル賞受を賞者するほどの笑顔だよ。君もここを目指しなさい」 「ノーベルスマイル賞?」 「残念、ノーベル平和賞でした」 「君の笑顔は世界を救ったんだ?」 「今はまだだけど、いずれ!」  金峰さんは、至って本気の表情で、力説した。  僕は、自分の唇がひくりと動くのに気づいた。 「お、いま、笑いかけましたな?」  金峰さんは、僕の顔を見上げながら、ノーベル平和賞ものの笑顔を向けてきた。 「笑ってないし、笑ったとしても、冷笑だ」  僕は皮肉で返しながら、金峰さんから視線を逸らし、保健室へと早歩きした。 「保健室に行くの? やっと、精神分析を受けてくれるんだ?」 「違う、金峰さんがあまりにもしつこいから、絢瀬さんに自重させるように頼みに行くところなんだよ」 「うー、それは、まあ、謝るけど」  金峰さんは、反省の色を僅かに滲ませながら言葉を濁した。  僕は、また、唇がひくりと動きそうになったので、慌てて金峰さんから顔を背けた。  金峰さんは僕の仕草を見逃さずに、僕の顔を猫のような仕草で見上げた。 「また笑いそうになったでしょ。うんうん、いいんだよいいんだよ。少しずつ須藤君が人間に近づいてくのが実感できて、わたしゃ嬉しいよ」  老婆のような口調で戯けた後、金峰さんは、またノーベル賞の笑顔を浮かべた。 「近づくも何も、人間だ」 「今の須藤君は死神に見えるよ」  金峰さんは何の気なしに嘯いたように見えた。  僕は突然、心臓を鷲掴みにされたような気がした。  脳裏に浮かぶのは、死神のように頰のこけた顔と、灰色の髪、つまり自分の顔だった。 「君に何が解るんだよ」  僕は声を落とし、唸った。  金峰さんは自分がどれほど気に触ることを言ったのか、直後に悟ったらしく、『ごめん』の『ご』の口の形で固まった。  僕は止まらなかった。 「僕は、確かに死神だ。君の考えている通り、両親を殺そうとしている」 「私、そんなこと……」  泥を啜るような気持ちで尚も唸ると、金峰さんは怯えきったように首を振った。 「正直に言えよ。判るんだろ。人が人を殺す予兆が見えるんだろ。なら、間違いじゃない。拳銃だって本物だ」  僕は鞄を強く握りしめた。 「気に障ったのなら、謝るから。ダメだね、私、人の心に勝手に立ち入って」  金峰さんは今にも泣き崩れそうな表情を浮かべて、僕から後ずさった。 「もう、追わないから。絢瀬さんの所に行かなくても大丈夫だよ。私、それじゃあ、帰るから。須藤君、また、明日」  言葉をぽつぽつと切りながら、金峰さんは踵を返し、走り出した。  僕は、これで漸く、準備ができると安堵する一方で、苦い後悔が胸に押し寄せるのを感じた。  胸の奥に焼け付くような痛みが這い回る。  今からでも追いかけようか。  金峰さんは、足が速いから、もう靴箱の場所にたどり着いていた。  僕は気付かずに、後を追っていた。  廊下を突っ切り、靴箱の所まで歩くと、外履きを引っ張り出した。  内履きを乱暴に靴箱に突っ込み外履きに足を突っ込むと、外へ走る。  金峰さんが、校門近くを走っているのが見えた。  僕はすぐに追おうとしたが、どう考えても追いつけない。  校門の所まで行った頃には、息も絶え絶えだった。 「和馬、お前、何グロッキーになってんだよ」  かと思えば、僕に問いを投げかける声がする。  顔を上げると、田辺さんが立っていて、タバコを口に咥えたまま、瞬きしていた。 「田辺さん。僕、バイトを探してるんですけど……」  誤魔化すために繰り出された僕の言葉に、田辺さんはまた瞬きをした。 「金が必要なら多少は工面できるけどなあ」 「いえ、それは悪いですから」 「とりあえず詳しく聴かせろ」  田辺さんは、声を低め、僕を車まで誘導した。  僕は僕が考えたトリックを説明し始めた。 10  田辺さんの対応は迅速で、夕方にはすでに準備は整っていた。  夕暮れの街で、僕は風船を手に、子供から大人まで色々な人に風船を配っていた。  ビルの形をした氷山が僕の前後に聳え、車がゆっくりと行き交う。  幻想の雪が道路に積もり、底冷えするように寒かった。  風船配りは田辺さんが紹介してくれたアルバイトで、時給千円越え。 地方の学生アルバイトとしては、そんなに悪いものではなかった。  お金が必要だったし、他にも目的があったので、田辺さんに相談してよかった。  僕は子供に風船を渡しながら、心の中で田辺さんにお礼を言う。 「あれ、須藤君?」  子供の母親にも風船を手渡していると、背後から不思議そうな声が掛かった。 「須藤君、だよね?」  尚も、思案深げな声がした。  僕は背後の声を無視して、別人を装うことにした。 「無視しないでよー。風船くださーい」  振り返るまでもなく、金峰さんだった。  金峰さんは僕の肩に手を置いて、ゆらゆらと揺さぶった。  僕は手を振り解き、走り出した。 「ちょっと! 仕事中でしょ? いいの?」  金峰さんは、慌てた口調で僕に呼びかけ、追いかけてきた。  僕は尚も逃げ続けたが、僕はこれまで金峰さんに追いついたり、逃げ切れた試しがないことを重々承知していた。  身体が折れるような衝撃を腰に感じて、僕はうつ伏せに倒れ込んだ。  胸に鈍い痛みを感じながら、僕は振り返った。  僕の身体にしなだれかかっているのは、確認するまでもなく金峰さんだった。  金峰さんは僕の顔を真っ直ぐに見て、華やぐような微笑みを浮かべた。 「須藤君、風船ちょうだい!」  僕は真上を指差した。  風船が宙へと高く飛び上がって行くところだった。  金峰さんは、僕の顔を踏んづけながら飛び上がり、風船の紐を掴み取った。  ふわりと着地すると、僕に風船を手渡した。 「一個、もらうね」  金峰さんは風船を一個手に取ると、僕に向かってまた微笑みかけた。 「金峰さん、なんで、あんなに酷いことを君に言ったのに近づいてくるんだ」  僕は自分の声が低くくぐもるのに気付きながら、金峰さんの顔を見上げる。 「酷いことを言ったのは私だよ。ごめんなさい!」  金峰さんは少しだけ泣きそうな声で僕に謝罪すると、手を差し伸べた。  まだ倒れ込んだままの僕は金峰さんの手を取らずに、立ち上がった。 「悪いけど、どこかへ行ってくれないだろうか」 「ううん! 仕事邪魔しちゃったから手伝うね! それ、全部、配るんでしょ?」 「ただ働きだからね」 「もちろん! むしろ、須藤君と一緒に居られるのが報酬だよ」 「言ってろ」  僕が幾ら突っぱねても、金峰さんは聴く様子すら無い。  おまけに、心にも無いことまで嘯いてくる。  本当に、判らない女の子だ。  僕は心の中で嘆息しながら金峰さんを見つめ、目を疑った。  彼女の背に広がる世界が金色に輝いていた。今まで、灰色の世界しか見えなかった僕の世界が。  金峰さんを中心に、世界が塗り替えられていた。  首を振り、もう一度見ると、金峰さんの背後は灰色に戻っていた。  僕は金峰さんに風船をいくつか渡した。 「じゃあ、頼む」 「むふふー、まっかせなさい」  金峰さんは、僕から風船を受け取ると。 「ふーせんー、ふーせんは要らんかねー」  と人々に呼び掛け始めた。  僕は寒気がするような、心が華やぐような可笑しな気分にさせられた。 「須藤君、ほらほら、君もふーせんーって、呼び掛けないと。誰も貰ってくれないよ」 「誰が言うか」  僕は金峰さんの言葉を跳ね除け、普通に風船配りを再開した。  灰色の世界に、一輪の花が咲いているような、不思議な光景が脳裏によぎる。  一輪の花は、灰色の闇を吸い込み、片端から景色を金色に変えて行くような錯覚を僕に与える。 「ね、須藤君。君が誰かを殺そうとしているのは確かに判ってる」  風船を配りながら、金峰さんは悲しそうに語りかけてくる。  僕は無視して風船を与える相手を探した。 「怒らないで聴いて? 須藤君はさ、自分の生き方が侘しいものだって思わない?」 「なんで、侘しいんだよ。君に何が判るんだ」  金峰さんの抑制の利いた悲しい声に、僕は苛立ちながら反発した。 「人が人を殺そうとしている時の目は、とても悲しい光を帯びるの。私には判るんだよね。須藤君の目の中に、悲しい光を見たんだ」  金峰さんは訥々と語りつつ、風船をまた別の子供にあげた。 「確信が深まったのは、須藤君が朗読をしている時。『寂しい人』だと思った。 すごく、深い悲しみを、須藤君は心に宿しているんだって、すぐに判った。 だから、絶対に、実行させたくないって思った」  僕は金峰さんの言葉を聴きながら、一人の女性に目をつけて、すぐさま風船を手渡した。女性は、微笑み手に取った。 僕へと軽く頭を下げ、醜悪な笑みを浮かべながら僕の前から去った。  と、同時だった。  金峰さんが頭を抱えるのが判った。  僕は金峰さんを振り返り、慌てて駆け寄る。 「須藤君、今の女の人……あっ!」  金峰さんは急に何かを悟ったらしく、僕から後ずさった。 「うそ、うそ。そんな、ことって……。でも、どうやって?」  金峰さんは苦しそうに呼吸しながら、必死で考えを整理している様子だった。  僕は喉がからからに乾くのを感じた。  金峰さんは何か、悟ったのだろうか。  たった、これだけのことで、僕が考えたトリックを見破ったとでも。  いや、トリック自体が見破られた訳ではない。  金峰さんには、結果が見えた。  僕が行動を起こした事によって、金峰さんははっきりと、僕が義母と父親を殺す光景を見た。  僕は声を上げて笑った。 だとしたら、成功したのだ! 「もう遅いよ、金峰さん。もう、義母も父も僕の罠に嵌ったんだ」  金峰さんは遠ざかる女性の背中に視線を向け、走り出そうとした。  僕は金峰さんを後ろから羽交い締めにして、追跡を阻止した。  かと思うと、金峰さんは腕を振りほどき、僕の首を両手で締めた。次の瞬間、僕は宙を一回転していた。  頭が地面にぶつかり、僕は急に視界が薄らぐのを自覚する。  次の瞬間にはもう目を開けていることもできなくなり、気絶しそうになった。  それだけはまずい! 必死で意識を現実に留め、僕は金峰さんの足を引っ張った。  金峰さんはひっくり返りそうになりながらも、両手を地面についてバランスを取った。  僕の両腕を優しく解こうとするも、所詮、優しい力では解けはしなかった。  金峰さんは僕の両腕を引っ張って、立たせると、今まで僕がしていた被り物を取り払った。  僕は、ウサギの着ぐるみを着ていた。  義母に、僕の姿を気取らせないために。 「私に見えたのは、アロマキャンドルと、風船と、爆発……。ねえ、須藤君、教えて? どんな手口を使えば、アロマキャンドルと風船で大爆発を起こせるの?」  金峰さんは、僕の胸ぐらを締め上げながら、鋭く尋ねた。  僕は立ち上がり、金峰さんの両腕を取って、路地裏に引っ張っていった。 「こんな所で、僕の計画をバラされちゃ、たまったもんじゃない」  僕は嫌がる金峰さんを必死で引っ張り、ビルとビルの合間まで歩いた。  暗い路地の中では排気口がごうごうと音を立てていた。僕は金峰さんの身体を壁に押し付け綺麗な瞳を睨み付けた。 「義母は、風船アートに嵌っている。 風船を捩って犬の形にしたりするやつさ。義母はそういうのが好きな割に手先が不器用でね。 よく、風船を割るんだよ。 今日の風船は特別破れやすいものを使っている。 中には、小麦粉が入っていて、風船が破裂すると、粉が撒き散らされる。 粉がアロマキャンドルの炎に触れた瞬間、粉塵爆発を起こして、寝室の義母と父は爆死するって、寸法だよ」  僕は声が上ずっていくのを感じながらも、恍惚と説明した。  誰も、風船と爆発を関連付けて考えたりはしない。  小麦粉も燃え尽きて、警察が来る頃には証拠にはなり得ない。 誰も、今日、突如として現れた風船配りの着ぐるみと、爆発を関連づけようとはしないだろう。 「……須藤君、離して」  僕に両腕を掴まれた金峰さんは、鋭い声で 僕に頼む。 「離してたまるか! もうすぐ、もうすぐなんだ! 妹を殺したあいつらに復讐できるんだ! それでこそ、妹の命が浮かばれるんだ!」  僕が必死で主張すると、金峰さんは目を丸くした。 「須藤君自身の痛みは? マスコミにあんなに叩かれて……」 「そんなこと、どうでもいい」  金峰さんの戸惑いのこもった言葉を僕は本当に無関心に撥ね付けた。 「僕は、僕が傷つくことなんか、どうでも良かった! でも、妹が死んだのを僕のせいにして、のうのうと生きるあいつらは許せない。許してたまるものか!」 「……良かった」  僕の咆哮を聴き終わるや否や、金峰さんは柔らかく微笑んだ。 「須藤君は、復讐なんてしたくないんじゃない」  金峰さんは心の底から安堵したように呟いて、更に柔らかく微笑んだ。 「僕の話をちゃんと聴いていたのか?」  僕が怪訝にすら思いながらたずねると、金峰さんはゆっくりと首を縦に振った。 「うん、聴いていたよ。聴いた上で、私は確信したのです。須藤君は、ただ、妹と一緒にいてあげたかった、ちょっとシスコンなお兄ちゃんってだけなんだ」  金峰さんは訥々と僕を描写していく。 僕はいっそ呆気に取られながら、金峰さんの顔を見つめた。  金峰さんは「フッフーン」と笑いながら、僕の胸に顔を埋めた。 「須藤君の鼓動、聴こえるよ。妹さんは須藤君の命を感じたくて、こうやって、顔を埋めたんだね」  春の日差しのような言葉が、胸に入り込んできた。  自転車で妹を運んだ時、妹は僕の背中に顔を埋めた。  埋めた瞬間に、妹は僕の命を感じようとしていたのだろうか。 「大丈夫、大丈夫、妹さんはね、須藤君の背中にいつもいるんだよ。目を閉じてご覧、感じられるはずだよ」  金峰さんは、尚も僕に優しく語りかける。 まるで、鎮魂歌のように、僕の心の闇を洗い流していく。  僕は目を閉じかけて、すぐに首を振った。  これは、異世界の、理解し難い言葉に過ぎない。 「君と僕は違う世界の住人だ。君が天上の世界の天使なのなら、僕は地底に住まう悪魔なんだ。 君みたいに透き通った翼を持っている人間が、翼すらない僕に近づいていい筈がない」  僕は金峰さんの肩を両腕で押し返し、光から目を背けた。  金峰さんは、光そのものだった。  僕の行く手を照らす、光だった。 「ふっふん、君があくまでも地底の世界の住人だとするなら、私が引っ張り上げてやりますとも。 私が助けないと君は永遠に深淵から這い上がれないだろうから。私は、今から、須藤君を止めないとだね」  金峰さんは言うが早いか、路地の出口へと走った。 「そうは行くか」  誰か他人の低い声が路地に響き渡る。  かと思えば、金峰さんの身体は弾き飛ばされた。  金峰さんは地面に仰向けに倒れ込んだ。転がりながら受け身を取り、金峰さんは声の主を見た。 「和馬、惑わされんな。 嬢ちゃんは確かに正しくて建設的なことを言っているかもしれないが、お前の強い意志がそれで折れるわけがない。 折れたような気がするだけだ。 もう、後は、待つだけでいいんだろう? なら、俺が後押しててやる」  金峰さんを弾き飛ばしたのは田辺さんだった。決然とした口調で言い放ち、金峰さんを押さえつける。  ひゅうう、と息を吸い込む音がした。  金峰さんは立ち上がり、拳を握った。  次の瞬間、バネのように身体が跳ね上がる。  金峰さんは田辺さんの顔に強かな頭突きを食らわせたかと思うと、絶叫した。 「どーいーてーーーっっっ!」  田辺さんは、流石に気勢が削がれたらしく後ずさる。  金峰さんは田辺さんの横を擦り抜け、砲弾のように走り出した。 「めちゃくちゃな奴だなあ! 頭も固いし!」  田辺さんも叫んだかと思うと、金峰さんを追いかけた。  僕は何が起きたのか考え付くのに数秒を要した。やっと立ち上がったのは、二人の背中が随分と小さくなった時だった。  二人は何も考えずに義母を追ったが、路地を反対に突っ切る方が、家には近いはずだ。  僕は二人とは反対方向に向けて走り出した。  必死で心臓を抑え、僕は自分の心を確かめた。  胸に金峰さんの温もりがまだ残っていた。  止めたいのか、それとも、遂げたいのか。  僕には判らない。  どちらにせよ、家に向かわなければならない。  僕は腕がちぎれそうになる程、必死で走った。  金峰さんは、本当に足が速いが、義母は恐らくもう既に家への一本道を歩くところだ。  二人とも、義母に追いつきそうになる所だろうか。  僕は、考えならが、路地を抜けた。  灰色の光が左右から射す。  ここから家までは、徒歩五分。 道路を三つ横切り、住宅街に差し掛かれば、すぐに家だ。 住むことすら屈辱に思えるような、義母の家がある。 父は怠惰に無気力に、寝室で寝込んでいることだろう。  僕は殆ど信号を無視しながら、一つ目の道路を横切った。  背後からクラクションが鳴っても御構い無しだった。  それからも、同じようなことを二度繰り返すと住宅街が見えてきた。  コンビニなどが立ち並ぶ場所から一転、静かな街並みに入り込み、僕は金峰さんと田辺さんの姿を探しながら、自宅に向かった。  十字路に差し掛かり、前方後方左右を窺うと、真後ろから、何かが襲いかかってきた。 動物にでも襲われたのかと思ったが、春風のような匂いに気づき、それが金峰さんだと判った。 「捕まえたぞよ、須藤何某」 「……苦しい」  戯けた言葉と同時に、首を締られる。僕は必死で金峰さんの腕を叩き、降参の意を示したけれど、手は緩まなかった。  代わりに、啜り哭くような声が聞こえた。 一瞬、何が起きたか理解に及ばず、気づけば金峰さんの両手を取っていた。 「ばかやろー、ばかやろー、コンニャロー」  金峰さんは、僕の首筋に顔をこすりつけながら、意味不明なことを叫んだ。 「文句があるなら、なんで文句があるのか、言って欲しい」 「ここに来たってことは、私を邪魔しに来たんでしょーが! 義母さんを殺しに来たんでしょーが! そんなの許さないからね! 私にあそこまでさせておいて、このやろー!」  僕が苦言を呈すると、金峰さんはいきり勃ったように言葉を返した。 かと思えば僕の身体へと更に強く伸し掛かり、首筋に額を擦り付けてくる。 「僕に、構っていると、田辺さんが行っちゃうよ」 「田辺って誰?」  僕が毒気を抜かれたような気分で教えると、金峰さんは瞬きをした。 「君を止めようとした、スーツの男」 「あーっ!」  僕が説明を加えると、金峰さんはさっと立ち上がったが、すぐに僕を振り返る。 金峰さんはもしかすると鳥頭なのかもしれない。 「おっと、そうは問屋が卸さないよ、須藤君」  金峰さんは、何かを悟ったように微笑み、外連味たっぷりに指を振った。 「君の家が判らない私を孤立させて、田辺さんとやらと二人でことに当たろうとしているんでしょう」  金峰さんは、訳知り顔で的外れな言葉を吐いたかと思うと、右手を拳銃の形にした。 金峰さんは僕へと銃口を向ける。 「さあ、立ってもらおう。そして、須藤君の家の場所を教えてもらおうか」  本人は脅しつけるように言っている積りなのだと思うけれど、子供がはしゃいでいるようにしか見えなかった。 僕は泣いていいのか、笑っていいのか判らないまま、金峰さんを見つめた。 「なぜ、僕にそこまでしてくれるんだ?」  立ち上がり、俯き、僕は金峰さんに襲い掛かった。  両腕を掴み、地面に引き倒すと、僕は金峰さんを見下ろした。 金峰さんは流石に身の危険を感じたらしく、小さな悲鳴を上げた。  雫が二つ、怯える金峰さんの顔の側に落ちた。 金峰さんは涙を見るや、怯えが消えのか唇を少し緩めた。  金峰さんの顔はほんのりと白い肌色で、頰は赤かった。瞳の中には星が煌めき、唇は桜色だ。 色彩を忘れてしまったはずの僕の目に、彩も豊かな光景が広がるのは何の皮肉だろうか。 「僕は、君が憎い!」  僕はありったけの憎しみを込めて絶叫する。 「僕は、君が眩しい」  ありったけの慈愛を込めて語り掛ける。 「君を見ていると、僕にとって一番大事な復讐心が移ろっていくのが判るんだ!  灰色の世界が金色に輝いてしまうんだ。 君の笑顔も、君の言葉も、全部、僕の心を喜びで波うたせる。 君を見てさえいれば、生きていけるような気すらする!」  僕は腕を戦慄かせながら、言葉をぶつける。 「そんな君がとても憎いんだ!」  僕は強く言葉を発して、金峰さんをまた見つめた。  僕はいつの間にか手を離し、金峰さんを抱きしめていた。 振り解かれると思った。けれど、金峰さんは僕の抱擁を難なく受け入れた。 春風のような匂いが再び僕の鼻腔を駆け巡った。 春風の匂いに続き、柔らかな言葉が紡がれる。 「須藤君、辛かったね。よしよし」  金峰さんは僕の背中を撫でると、抱きしめ返してきた。 「僕は、君を行かせない」  優しく腕を解こうとした金峰さんに、僕は決然と言い放つ。  金峰さんは、僕の腕の中で、じっと身じろぎもしなかった。 「私も、君に殺させない」  金峰さんは言い放つが速いか、僕の顎に頭突きを食らわせた。  僕が怯んで後ずさっている内に、金峰さんは僕の家の方へと迷いなく走り出してしまった。  金峰さんには、今の一瞬、何かが見えたのかもしれない。  僕も止めなければならない。  直感に突き動かされるまま、僕は金峰さんを追った。  金峰さんは僕を振り返ることもなく、十字路を真っ直ぐ突っ切り、今にも僕の家へと差しかかろうとしていた。  僕は自分の望みと、金峰さんの望みが心の中で渦巻くのを感じながら、何かに祈りを捧げた。  金峰さんは、義母の家にもう踏み入っている。  綺麗にガーデニングされた庭と、甘ったるいピンク色の家屋。 庭の側に大きなガラス張りの引き戸があって、戸の側で日向ぼっこなどをするのが、義母と父の習慣だった。  金峰さんは引き戸に頭突きを食らわせた。  ガラスは脆く崩れて、金峰さんは家の中に転がり込んだ。 「警察です! 爆発物を処理に来ました!」  家の中から、弾んだ声が襲い掛かってきた。 支離滅裂な訴えに、僕は呆気にとられそうになった。今の金峰さんを警察だと思う人間はどこを探してもいないことだろう。 僕の思考をよそに陶器か何かが叩き割られる破砕音が響いた。  続いて義母が悲鳴を上げた。  僕はこれ以上ないくらい必死に走り、家の中に転がり込んだ。  寝室に、下着姿の義母と裸の父がいて、金峰さんを見て凍りついていた。 父は、引き戸に近い場所に設置されたベッドに深く身体を沈めていた。 ベッドの足がわにある椅子に座った義母は風船を弄っていた。  金峰さんは、消火器を持っており、義母の手元を照らすアロマキャンドルに狙いを定めていた。 義母は一応、アロマキャンドルの火が燃え移った時のことを考えて消火器を準備していたらしい。部屋の隅に消火器を固定する金具があり、余程の力で引っ張られたのか捩れていた。 「喰らえ!」  金峰さんがとんでもない台詞を言い放つと同時、白い霧状のものが噴射された。  義母は悲鳴を上げ、父は頭を抱えた。  金峰さんは続けて部屋中にあるアロマキャンドルに消火器を向けた。  炎が消えて行き、部屋の光度が落ちて行く。  義母が立ち上がり、喚いた。 「落ち着いてください。落ち着いて。爆発物は、これで正常に処理されました」  金峰さんは白々しく説明したが、義母は納得するはずもなかった。 「あなたねえ! 本当に! どこの子なの!」 ヒステリーの限りを尽くして、義母は喚いている。 「金峰と言います! 須藤君のお友達です。須藤君にはお世話になっておりまして、今日はお礼がてら、爆発物を処理しにきたという次第です」 「警察を呼ぶわ! そこで正座してなさい!」  義母は机の上から携帯電話を取り出したが、消火器の霧を浴びたせいか、正常に動かない様子だった。  僕は金峰さんの腕を引き、入ってきた引き戸を通って連れ出した。 金峰さんは案外しおらしく僕の誘導に従い、顔を赤らめた。 どうやら我に返ったらしい。 「本当に、君は意味が分からない!」  言葉をぶつけ、金峰さんを睨む。  僕は金峰さんの腕を引きながら、必死で走った。 「須藤君、顔も服も真っ白だよ?」 「誰のせいだ! 僕は悪くない! 君こそ真っ白だ!」  比較的狭い部屋で消火器を使ったせいか、僕たちの身体には白い粉が付着している。  早く洗わないとかぶれてくるかもしれない。  シャワーで洗い流す必要があるが、義母が家の設備の使用を許すはずがない。 「金峰さんの家はどこなの」 「心斎町辺り」 「随分遠いな……」  金峰さんが沈んだ声音で答えるので、僕は少しだけ声のトーンを柔らかくして呟いた。  僕は顔を上げ、街並みを見た。  絶望の荒野に、淡い金色が覆いかぶさっていた。  僕は今、天使と一緒に歩いている。  絶望に沈んだ心が揺さぶられ、瞳は比較的、正常に世界を見ていた。 「僕の家に行こう。シャワーを貸すから」 「ん、ありがとう」  僕が振り返り、提案すると、金峰さんは恥ずかしそうに頷いた。 「俺を忘れんな青春野郎ども」  僕たちの背へと呆れ果てたような声が投げられた。  振り返ると、田辺さんが息を切らせて立っていた。 「嬢ちゃんにはしてやられたな」  髪をくしゃくしゃにしながら、田辺さんは吐き捨てた。 「和馬、来い。お前はこっち側の人間だ」  田辺さんは僕に向かって無表情に手を差し伸べる。 僕は迷い、たじろぎ、田辺さんの手を見つめた。 「そうは行きますか! 田辺さんと言いましたね。須藤君は渡すものですか! 須藤君は、今漸く、改心の道へと向かっているんですよ」 「そうか、まあ、確かにそう見えるな」  金峰さんが捲し立てるのに、田辺さんは頭の後ろを掻いて頷いた。 「なら、少し悪い知らせがある。和馬、俺はお前とお前の妹が住んでいた部屋を少し覗かせて貰ったんだ」  田辺さんは声を低めた後、僕の顔を真っ直ぐに見つめた。 「それで、判ったことがある。お前の妹は、多分、タミフルの副作用で飛び降りたわけじゃない」  田辺さんの静かな言葉に、僕は息が止まりそうになった。 「これから、お前の住んでいた家に行くんだろ? そしたら、部屋の鍵をよく見てみな。脳症を起こした人間に開けられるようなタイプのものじゃないはずだ」  田辺さんは口の端に、少しだけ笑みを浮かべ、手をひらひら振った。  木枯らしのように踵を返し、灰色の闇を纏い、去る。 僕は田辺さんの背中を見ながら、今の発言の意味を考えた。 妹は殺された可能性があるということだろうか。 僕は、唇が乾くのを感じて、下唇を噛んだ、 「行こう」  僕は短く告げて金峰さんの手を引いた。  目指すのは、妹と僕の家の方角だ。  金峰さんは首を振る。想像以上の力で、僕の手を引き返す。 「行こう」  僕は尚も抑揚の無い声で繰り返した。 「須藤君の顔、また『寂しい人』に戻っちゃった、そんなの嫌だよ! 真実がどうであっても、いいじゃない! 折角、幸福な顔をしていたのに、また、須藤君、変になっちゃった!」 「田辺さんの言葉通りなら、僕は誰か別の人か、それとも義母を殺す必要がある」  金峰さんの訴えに、僕は首を振り、呪詛を吐く。  義母は妹が死んだ日、僕と入れ違いで家を出ていた。もしも、それが妹を殺すためだったとしたら、辻褄は合う。 「私、須藤君が何を考えているのか、なんとなく判る。だから、ダメ!」  金峰さんは僕の手を強く引っ張った。  肩が脱臼しそうになったが、僕は構わず金峰さんを引っ張った。 「とにかく、僕の家に行って粉を洗い流そう。僕は、今日、あそこ以外に住む場所が無いんだ」 「じゃあ、ずっと須藤君の側にいて、馬鹿なことをしないように見張るからね」  金峰さんは決然と言い放つと、僕の腕を両手で包み込んだ。 「お好きなように」  僕は妹の手を引くように金峰さんの手を引き、妹に話すように金峰さんに話した。 「金峰さん、ありがとう。今日、久しぶりに幸福な時間を過ごせた」 「幸福にさせるようなこと、私やったかなあ?」 金峰さんは僕の言葉にいまいちピンとこないようで、首を傾げた。 「義母があんなに慌てるのを見られただけで幸せだよ」 本当は、幸福の理由は他にあるけれど、僕は秘密にしておくことにした。 「幸福って、こんな程度のものじゃないよ」  金峰さんは僕の手を強く握り首を振った。 「いつか、須藤君に本当の幸せを教えてあげるからね」 金峰さんはとうとう僕の手を離して、舌を出した。 子供のような仕草に、思わず口の端が緩むのを感じた。 街が闇に包まれて、住宅の灯りがちらほらと点き始めた。高い塀が僕たちの歩く道を決め、僕たちは逆らわなかった。時折猫が僕たちの前を横切っては消えていく。 シュルシュルと風が鳴り、それ以外は至って静かだった。 11 薄い黄色の家屋は、数ヶ月前とほとんど変わらずに存在していた。ただ、庭の草がかなり伸び、何種類もの花や雑草が生え盛っていた。  妹と僕が暮らしていた家にたどり着くと、僕は階段を駆け上がった。金峰さんは僕の後ろにぴったりと付いてくる。  埃が溜まった階段を歩き、二階の妹が使っていた部屋にたどり着く。扉をゆっくりと開き、部屋に入っていった。  数ヶ月前のまま、部屋が残されていた。  違うのは、窓が閉まっている所だけ。  僕はゆっくりと扉に近づき、鍵の形状を見た。  すっかり忘れていたが、田辺さんの言う通り単純な鍵ではなかった。  ネジのようなものが、金色のフレームに突き刺さったような形状で、鍵を回す必要があった。さらに、経年劣化で錆び、結果、鍵を動かす角度も場所に応じて変えなければならない。  僕は鍵をこねくり回したが、随分時間が掛かった。脳症を起こした人間が開けられるとは思えなかった。  僕は鍵を戻し、床に座り込んだ。 「誰かが、妹を殺したんだ……」  僕は呟き、天井を見た。  だとすれば、やはり義母か……。  しかし、殺しまでする理由が判らない。 「殺意に負けちゃダメだよ。須藤君」  僕が呆けていると、金峰さんが低い声音で釘を刺した。 「金峰さん、シャワーを浴びていて欲しい。僕はしばらくここに居るから」  僕は自分の声のトーンが明らかに低いのを感じながらも、口角を上げた。  金峰さんは躊躇いを見せたが静かに頷いて、一階に降りた。足跡の遠ざかる方向から、しっかりシャワールームへと向かっているのが判る。  僕は妹のベッドに顔を預け、目から流れ落ちる雫を頰に伝うままにしていた。  喉の奥から嗚咽が漏れた。  もし、突き落とされたのだとすれば、どれだけの苦しみだっただろう? どれだけの恐怖だっただろう。  僕は、君の苦痛や恐怖を知らずに、希望を掴み取ろうとしたのか。  そんなことは許されるはずがない。  僕は再び死神へと戻らなければならない。  この世界は絶望の荒野だ。  荒野に終わりなどあってはならなかった。  一時、見えた希望も、ここで断ち切らなければならない。  君が受けた苦しみと、絶望を清算し、君の奪われた人生を自らの手で取り戻すために。  決意は今、定まった。  何としてでも真実を暴き出す。  真相と真実の果てに、血で血を洗う結果が待っていたとしても。 僕はもう、迷ったりしない。
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