第四章 絶望が終わった日

1/1
37人が本棚に入れています
本棚に追加
/5ページ

第四章 絶望が終わった日

1 ファミレスの窓際、入り口と正反対に僕たちは居座った。大きなテーブルの上にはまだメニューとベルしか置かれていない。 田辺さんは窓際に座り、僕たちはその反対側に座った。 店内にはファミレスのテーマソングが流れ、色々な食べ物の匂いが綯い交ぜになって漂う。 「指紋は絢瀬のものと一致した。おまけに絢瀬は、光ちゃんの通っていた小学校でカウンセラーをやっていたようだ」 翌日の夕方、いつものファミレスで落ち合った僕らに、田辺さんは開口一番、かなり重たい事実を教えてくれた。 田辺さんはミルクのたっぷり入ったコーヒーを飲みながら、僕たちの様子を伺った。 唇が乾いて上手く言葉を発せられない。 僕は、唇を湿らせた後、口を開く。 「絢瀬さんと光の接点はどれくらいのものだったんでしょうか?」 「光ちゃんは絢瀬とかなり接していたみたいだな。色んな目撃証言がある。光ちゃんが絢瀬が学校に来る日には決まって放課後、カウンセリングルームに行っていた、とかな」 「光が、カウンセリングを受けていたなんて……」 淡々とした事実の羅列にショックを受けていると、田辺さんは首を振った。 「カウンセリングとは限らない。年頃の児童が若い学校カウンセラーに好感を持つなんてのは、ありふれたことだ。ただ単に、会いに行っていただけかもしれない。二人にはどうやら接点があったってのは確かだがな」 田辺さんは首の後ろで手を組み、虚空を見つめた。 「考えられることは……いくつか」 僕の瞳をちらりと見た後、田辺さんは急に黙りこくった。 「いくつか、あるんだが」 コーヒーでもう一度、喉を潤した後、田辺さんは言葉を紡いだ。 「例えば、光ちゃんは絢瀬に母親からの虐待を相談していた、とかな」 「でも、相談していたとして、妹が死んだ夜に絢瀬さんが僕たちの家に来る意味が理解できません」 「カウンセリングの一環だったんだよ、きっと……」 顔を見合わせる僕たちに、金峰さんは拳を握りしめながら呟いた。 「そうだな、それが一番妥当だが、部屋の窓に指紋が付いていたのにはどう説明を付ける?」 田辺さんの口調から、できる限りに憶測を拒もうとしているのが伝わってくる。 金峰さんは、そんな田辺さんに食って掛かる気力がないようだった。 「それに、絢瀬はどうして、そんな大事なことを和馬や嬢ちゃんに黙っていた? おかしくはないか? 絢瀬は確実に何かを隠している。それだけは確かだ」 田辺さんは結論づけつつ、コーヒーを再び飲んだ。 「とりあえず、カウンセリングの一環だったとしてのシミュレーションをしてみようか。 絢瀬は日常的に光ちゃんと接する中で、光ちゃんが虐待を受けていたことを知っていた。 そこで、兄と二人きりという状態を危惧し、光ちゃんへと会いにいく。 世間話をして家を離れる訳だが、空気が淀んでいるのを心配して、換気のために窓を開いておいた。 運悪く、絢瀬が帰った後に、光ちゃんは脳症を起こし、開けっ放しのドアから転落した、と……」 田辺さんは、朗々と語り、首を振った。 「一見、妥当なんだが、そんな訳ないんだ。 絢瀬はかなり頭のいい女で、慎重な性格だった。 だから、プレパラートに触ろうとしなかったんだ。 咄嗟にそこまで頭が回る女が子供がタミフルを服用した後に、窓を開けっぱなしにして帰る訳がない。 換気だって一瞬でいい、窓を開けたまま帰る必要がない」 田辺さんは唇を噛んだ。 「何かが致命的にチグハグなんだよ」 額に手を当て、田辺さんは眠そうにあくびを噛み殺した。 「それから偶然、警察関係者から聴いた話なんだが。 事件が起きた夜にな、辺りの喫茶店で口論する二人の女性がいたみたいだ。 片方はしきりに「だから貴女はだめなのよ」と繰り返していたらしい」 「それ、義母の口癖ですよ」 僕は妹のことで義母から電話された時のことを思い起こした。 義母は電話口で、「だから貴方はダメなのよ」と言っていた。 田辺さんはすぐに頷き、更に続けた。 「それで、『だから貴女はダメなのよ』と繰り返した女は、警察に言うべきとか、最低の行いだとか言っていたらしい」 田辺さんはコーヒーカップをテーブルに置き、腕を組んだ。 「ここで、俺はますます分からなくなっちまった。 上部だけを見れば、絢瀬が光ちゃんをなにかの過失か故意で転落死させ、それを糾弾されていると取ってもいいのかもしれないが。 過失も故意も微塵も有り得ない。 そもそも過失でも故意でも事件に気づいた人間がいるなら糾弾だけで済むはずがない」 田辺さんは頭をカリカリと搔き、背凭れに身体を預けた。 「やっぱり、犯人はお前の義母だと思う。絢瀬の訳がない」 期待を込めるように、田辺さんは僕の顔を真っ直ぐに見つめた。 「はいはい、うちの和馬を誘惑しないでください」 金峰さんは僕の前に身体を乗り出し、田辺さんに向かって舌を出した。 田辺さんは肩を竦め、椅子に座り直した。 「嬢ちゃんだって、絢瀬が犯人じゃない方が助かるんだろ?」 「それはそうですけど……」 田辺さんの欠伸混じりの言葉に金峰さんは口を尖らせて、そっぽを向いた。 「なら、由利恵の身辺を探った方が早く真相にたどり着けると思うがな」 「残念ながら、由利恵さんは犯人ではないのです」 田辺さんの核心を突く言葉に、金峰さんは得意そうに胸を張る。 「絢瀬さんが由利恵さんは犯人じゃないって言っていますから! 確実に違うんです!」 「でも、俺たちは絢瀬が少しばかり信用ならない人物だと考え始めているよな」 田辺さんは意地悪く唇を歪めて、追及を始めた。 「私は絢瀬さんも信じていますから!」 「だけどなあ」 尚も胸を張る金峰さんに、田辺さんは口元を緩めながら追及を続ける。 「信用ならない絢瀬の信用ならない言葉で、信用ならない由利恵の信用ならない言葉を信じるのか? 矛盾していないか?」 「私を混乱させようとしていますね? 多少、言葉をこんがらがらせたって、私には通用しませんから! 私は信用ならなくても絢瀬さんを信用するんです!」 「ま、こんな子供騙しは通用しないか」 田辺さんは得意そうな金峰さんを横目で見ながら肩をすくめた。 「なんか頼むかい」と言って、田辺さんはメニューを僕たちに渡してきた。金峰さんは すぐにメニューを眺め、悩ましげにした。 僕は金峰さんを横目で見た後、メニューを畳んだ。 「田辺さん、なぜ、この期に及んで協力してくれるんですか」 僕が尋ねると、田辺さんは泥沼のように暗い瞳を僕に向け、子供のように微笑んだ。 「復讐とか関係なく、お前のことは放っておけねえんだよ。 お前の好きなようにやって欲しい。まあ、子供を早くに失った親戚のおじちゃんみたいな心情なのかな。 だから、気にする必要はない。もちろん復讐を遂げて俺の右腕になるなら、それが一番だけど。好きにやってみろ」 田辺さんは口元を綻ばせ、僕の右肩に手を置いた。 「そんな、憐れむように見るなって、お前と出会ってから、俺の人生は色めき立ったんだ。 今は、親戚の兄妹をまとめて面倒見ているような、そんな感覚に浸れているんだ。俺は幸せな奴だと思うぜ」 田辺さんは、いつかのようにヘラリと笑った。 僕は目尻が濡れるのを感じて直ぐに拭い、頭を下げた。 「田辺さん、ありがとうございます。たくさん、お金を使わせてしまいましたし、お手間も取らせました」 「良いってことよ。ま、いつか、普通に就職したりしたら、何か奢ってくれれば良い」 田辺さんも顔を背けながら、ちょっとだけ目元を拭った。 「田辺さん、私、アイス食べたいです」 しんみりとした空気を消し去るように、金峰さんが手を挙げた。 「おー、好きに頼みな」 田辺さんは唇を緩め、金峰さんへと笑いかけた。 僕もメニューを決め、ベルを鳴らした。 しばらくして店員がやって来ると、僕たちは順番にメニューを言い始めた。 金峰さんのやけに長いメニューの申告に、店員さんはやや面食らったように見えたが、すぐに僕たちの前から去っていった。 「俺が調査できたことはここまでだ。後は食え、食って寝ろ」 「残念ですが、今日は宿題があるのでまだ寝ません」 「口の減らないお嬢ちゃんだな」 田辺さんと金峰さんは軽くじゃれあい、歯を剥き出しにして笑った。 僕は何となく疲れた頭で、今日の宿題のことを考えて憂鬱になった。 考えなければならないことが多すぎる気がした。 2 演劇か何かのヒロインのように、金峰さんは塀の上に登って歩いていた。 住宅街の路地、暗い闇に、スポットライトのように電灯が光を下ろしている。 家々の窓からは、光が漏れ出てくるが、光の無い窓も多かった。 すでに眠りについている人もいるのかもしれない。 どこまでも静かで、少しだけ土の匂いがする。 「怖いなあ」 星空に向かって身体を舞わせながら、金峰さんは呟いた。 流れ星が一つ消えた時、金峰さんは久しく閉ざしていた口を開いた。 「怖いって何が?」 僕は塀の上を平然と歩いていく金峰さんに呼び掛けた。 「絢瀬さんが犯人だったら、須藤君は絢瀬さんを殺すんだよね?」 「誰が邪魔しようとね」 「うん、だよね。だからさ、私そうなった時、どっちの味方になってあげれば良いのからなくなっちゃったの。少し前なら、絢瀬さんの味方に着くのが当たり前だと思っていたけど、今はどうだろう」 金峰さんは、突然、母体から切り離された赤ん坊のように寂しげだった。 「絢瀬さんを信じてるんじゃなかったのかよ」 「ん、まあ、そうだけどさ」 金峰さんは口を尖らせて、意地悪を言った僕を睨みつけた。 「でも、のっぴきならないことって沢山あるよね。私、須藤君が人を殺そうとしたなんて、こんなに近くで見ていても未だに信じられないし。だから、絢瀬さんも、案外とそういうものだったりするのかなって、ちょっと怖くなっちゃった」 金峰さんは両腕で自分の身体を抱きしめ、身震いした。 「田辺さんには強がって見せたけど、私、すごく不安だった。不安になる自分が、私はすごく嫌いだなって思っちゃうんだ」 「いつもの明るい金峰さんでいてくれよ。せめて、真実が明らかになる時までは。じゃないと僕、今にも義母を殺しに行っちゃいそうだ」 「嘘ばっかり」 金峰さんは少しだけ身体を震わせて、僕をやや嘲笑った。 「須藤君の心にまた、光が灯ってるもの。嘘に決まってる。優しい光だね、須藤君」 柄にもなく励ましの言葉を送った僕に、金峰さんは優しく微笑みかけた。 「よし! 私は、今日悪い子になる! 宿題なんかやめだやめ! 須藤君と一緒にゲームセンターで豪遊だ!」 やがて、微笑みを夜空に向け、金峰さんは両手を振り上げた。 僕は、思わず喉の奥から笑いを漏らした。 「ゲームセンターなんて、もう閉まってるって。条例が出たの知らないの?」 「え、……じゃあ」 金峰さんは呆気に取られて、僕の顔を見る。 綺麗な眼が二つ、まん丸くなってこちらを見ている。 「公園で、朝まで語り明かそうよ。この世の真理とか、太陽が朝上る理由とか。星が輝く理由とか」 「この世の真理なんて誰も解らないし、太陽が昇るのは地球が公転しているからで、星が輝くのは太陽の光を反射しているから」 「そうじゃないよ、須藤君。この世の真理は誰もが知ってるし、太陽が昇るのは私に言わせれば、人が朝を望むからで、星が輝くのはどんなに真っ暗な闇の中でも希望を、光を忘れないためだよ」 金峰さんは、僕のひねくれた理屈に対して、本当に素直で美しいアンチテーゼを述べてくれた。 「じゃあ、金峰さんにとってのこの世の真理は?」 僕は子供のように無邪気な気持ちで尋ねた。 「生きていること、それだけかな」 金峰さんは僕と同じく無邪気に答えて微笑むと、僕の前方へと飛び降りた。 「死んでしまったら真理はもう解らなくなるの。 だから、死んじゃだめだし、殺してもだめ。 命の意味とかそんな大層な理屈を探さなくても、心臓は今も生きたい生きたいって、言っているじゃない。 だから、心臓がひとりでに動かなくなるまで、生きる理由なんてなくても人は生きなきゃダメなんだよ。 だから、殺しちゃダメ、死んでもダメ。約束だよ?」 摂理を解く金峰さんは、美しかった。 やはり、金峰さんは世界を金色に輝かせてくれる。 それでも、僕の心臓の中には灰色の雪が敷き詰められ、心は今も怒りに彩られている。 「君が生きることを真理だと言うなら、僕は死を真理だと定義しよう。 妹が死んだ時から、僕の見ている世界は絶望の荒野だった。 僕は妹が死んだことに意味を見出すことで、辛うじて、生きる意味を得た。 この意味を、使命を全うできたなら、僕の命は始めて意味を持つ。 それがたとえ、血塗られた意味だとしても。僕は迷わない。 いや、迷わないつもりだった」 僕は胸の中で相克する二つの感情に引き裂かれそうになりながら、必死で言葉を紡いだ。 「君を見ていると、怒りを持つのが時々だけど馬鹿馬鹿しくなる。 君は本当に変な人だよ。僕は間違いなく迷っている。 君が紡ぐ言葉の一つ一つが、僕を縛る糸になる。 もう何本も何本も糸が絡まっているから、僕にはどうすればいいのか、判らなくなった」 僕が心の底を曝け出すと、金峰さんは悲しげに微笑んだ。 「須藤君の背中を押すのに必要なのは、真実だけってことだね。妹さんが、本当はどうして死んだのか」 「絢瀬さんに聴こう、明日。きっと、教えてくれると思うから」 「そうだね。私も、もう迷わないから」 僕と金峰さんは手を握り合った。 星々の下を歩きながら、僕たちは本当に、この世の真理とか、太陽が上る理由とか、星が輝く理由を文学的に、恣意的に、悲劇的に、喜劇的に話し合った。 夜が白むまで、話し続けた。 気づけば、丘の上にある公園のベンチに座って、話していた。 「だから、確かに人々が望むだけで太陽が上るってのは変かもしれないけどさ」 「そうだよ、望まない人だっている。僕なんてずっと夜だったらいいのにって思うのに。それなのに太陽が上るのは理不尽じゃないかな」 「うー、屁理屈ばっかり! でもねでもね、永遠に夜のままだったら永遠に寝たきりだよ? 寝たきり老人!」 「散歩すればいいじゃん」 「ますます老人くさい!」 「働いたり、学校に行ったりするよりはましだよ」 「夜なら夜なりに、学校とかないのかな」 「君の理屈の文脈に則ったら、ないでしょ。明日を望む、つまり、日中働いたり勉強することに希望を持つから朝が来るっていうことなんでしょう?」 「ま、まあ、そうなんだけどさ。そうだよ! やっぱり、学校って楽しいものだと思う」 「全然、楽しくないね。みんな僕の頭をジロジロ見て来るし。教師は染めろとか、無神経なこと言って来るし。 これ以上、髪に負担を掛けたら僕の髪も老い先短くなっちゃうよ」 「須藤君がハゲチョロになるのは嫌だね」 「全くだ。僕の頭皮に優しい学校になってほしいね」 「ふっふふー、でも、気づいてる?」 「何が?」 「須藤君の髪、ちょっとずつ黒くなり始めているの」 「全然気づかなかったよ」 「ストレスが心から段々と消え始めているのかもね」 「だとしたら、まあ、君のお陰なのかもね」 「おー、素直になったねえ、わたしゃ嬉しいよ」 「そんなババくさい喋り方をすると今度は金峰さんが老いて白髪になるよ」 「なりませんー。私まだまだ若いし、ストレスフリーだもん!」 「あれ、頭の横に白い毛が見える気が」 「不安になること言うなよー! まだ、そんな歳なわけないもの!」 「僕という前例がいるからね」 「例はあくまで例だもん! ふんだ、知らない。須藤君なんてハゲチョロになっちゃえ!」 「それより、太陽が上る云々の話をしようよ。 僕が今、思ったのは太陽が上るのは、きっと、ある人が世界にいるからなんだなって」 「えー、誰だろ? 天照かな、ラーかな?」 「そんなに凄い人たちじゃないよ。もっと、ちっぽけで、でも多分、天照やラーよりは僕にとって、ずっと大事な人、かな」 「えー、誰だよー?」 「絶対に言えない秘密だから、墓まで持って行こうかなって」 「気になるだろー! 意地悪するなよー!」 「ちょっと、気になることがあると服の袖を引っ張るのをやめてよ」 「なら、教えてよー。破くぞー、破いちゃうぞー!」 「じゃあ、ヒントをあげよう」 「お、いいねー、謎解きっぽいじゃないか、ワトソン君」 「僕にとって一番近くて一番遠くて、金峰さんにとって一番近くて一番遠い人」 「んー? 絢瀬さん? 田辺さんかなあ。いや、でも違うような……」 「さ、君と話していたお陰で太陽が上ったよ」 僕は長い長い会話を締めくくって、金峰さんの手を取った。 丘から望む山脈の上に太陽がゆっくりと上っていく。 仄白んだ空が紺色の空を吹き飛ばし、星が一斉に眠りに着いた。 「家に帰って身支度して、絢瀬さんの所に行こう」 「むむー、まだ、解らないけど。ま、いっか!」 金峰さんは両腕を広げて伸びをすると、僕に微笑み掛けた。 僕たちは手を振り別れ、それぞれの家へと向かった。 3 金峰さんと校門前で落ち合うと、明らかに顔色が良くなかった。 と言うより、緊張で強張っていた。 早朝の校舎は朝日を浴びていつもと違って見えた。 いつもより、小さく、中が息苦しそうに見えた。 灰色の葉を付けた木の下で、金峰さんは自分の髪に幾度となく手櫛を入れ、不安を紛らわせようとしているようだった。 僕は、ゆっくりと、金峰さんの方へと歩き、手を差し伸べた。 「行こう、まだ、クラスのみんなは来てないけど、絢瀬さんは来ていると思うから」 「うん、分かってる」 金峰さんは僕の手を取り、腰の下まで下ろした。 二人で並び歩き、昇降口へと向かった。 ガラス扉を開け、一旦、別れ、それぞれの靴へと足を入れた。 出口のところでまた顔を合わせると、また手を繋いで廊下を歩いた。 金峰さんは明らかに腰が引けていたが、気丈に着いて来る。 僕は、金峰さんの方を向き、息を吸い込んだ。 「大丈夫だよ。もし、絢瀬さんが犯人だったとしても、すぐに襲いかかったりはしないし、絢瀬さんがそんなことをするような人じゃないのは僕も解ってる積りだ」 「心配なんて、してないよ。私は二人とも信じているから!」 金峰さんは僕の慰めに、尚も気丈に答えてみせた。 僕は金峰さんの前を歩き、引っ張ることを決めた。 いつもは、引っ張られる僕が、今度は引っ張ってあげなければと思う。 静寂に包まれる校舎を僕たちの足音だけが響いていく。 あと、十歩。 保健室の白い扉が見えてきた。 あと、五歩。 扉の取っ手が見えてくる。 あと、一歩。 取っ手を手に取れる。 僕は銀色のくぼみに指を掛け、ゆっくりと扉を開いた。 保健室はいつものように整然と整理され、机もベッドも綺麗に掃除されている。 学生の殆どがまだ訪れていないので静まり返り、反比例するように薬品の匂いが強く漂った。 しかし、違うことが一つあった。 見慣れない男性が絢瀬さんと斜向かいで話をしていた。 スーツ姿で、小太り、髪は七三に分けていて、とても頭の良さそうな顔をしていた。 絢瀬さんは僕たちを見るなり、目を丸くしたが「いらっしゃい」と微笑んだ。 「お聴きしたいことがあります」 僕が口を開くと同時、男性が立ち上がった。 「きっと、妹さんのことでしょうね。絢瀬くん、最初から最後まで丁寧に話しておやりなさいよ」 男性は振り返り、絢瀬さんに釘を刺した。 「判っていますよ武原教授。やっと言うべき時が来たのですから」 絢瀬さんは武原教授と呼んだ男性へと頷き、手前の二つの席を指し示した。 「武原教授もいらっしゃっていたんですか」 金峰さんが、少しだけ親しそうな表情で武原教授に近寄った。 金峰さんの顔は、まだ多少は引きつっていたが竹原教授に会えたのが嬉しいのか華やいだ。 「久しぶりだね、雨子ちゃん。さあ、座りなさい。私にも説明責任がある」 僕たちは武原教授の声に顔を見合わせたが、すぐに席に着いた。 「聴きたいことっていうのは、光ちゃんと和馬君の家に、私がどうして訪れたのか、ということね」 絢瀬さんは単刀直入に尋ねた。 僕が軽く頷くと、絢瀬さんは両手を握りしめ、目を閉じた。 「まずは、光ちゃんと私がどういう関係だったかを教えないといけないわね」 絢瀬さんは立ち上がり、椅子の背凭れを握りしめて、話し出した。 「光ちゃんは、水曜日と金曜日に小学校にカウンセリングに訪れる私の常連さんだったわ。 とても、人懐っこい子だったと思ったけど、学校における評価では、地味な子だったみたいね。 光ちゃんは、最初、兄の自慢を私にしてくるだけの子だったわ」 絢瀬さんは僕に向かって優しく瞳を煌めかせた。 「とても、優しいとか、かっこいいとか、自分が困っているとすぐに助けてくれるヒーローだとか。 でも、長くは続かなかった。出会ってから、多分、三ヶ月くらい。 父親や義母のことが槍玉にあがるようになっていった。二人が怖いとか、恐ろしいとか、ね」 言葉を切り、絢瀬さんは僕たちを見つめた。 知らなかった。 妹が僕をそんなに慕っていてくれたことも、学校での評価も。 義母と父を嫌がっていたのは知っていたが、怖い、恐ろしい、とまで言わせるほどのものだとは知らなかった。 「私は虐待をされているのかと尋ねたわ」 「妹は、なんて?」 僕は遂に、核心に触れたのだと思った。 「暴力を振るわれたりはしていない。 でも、兄が帰ってこないとご飯も食べられない。 洗濯も上手くできないから、それで怒られる。三日も着替えられなかった時があって、クラスのみんなにからかわれた。 心当たり、ある?」 「勉強合宿のようなものを、中学三年の最後辺りにやりました」 「そっか、まあ、それが引き金になってしまったのかな。 ちょっとずつ、光ちゃんの周囲の環境が望ましくないものに変わっちゃったのよ」 僕は机に手を置き、頭を抱えた。 そんなことにも気づいてあげられなかったのか。勉強合宿の前に、衣服を用意してやることすら考えに及ばないなんて。 「そんなに自分を責めないでね。 光ちゃんは、和馬君に悟らせまいと頑張っていたみたいだから」 絢瀬さんは僕の右手を握りしめ、優しく首を振った。 「責めないのは無理だけど、今は心の隅に置きます」 僕は落ち込んだ心を何とか奮い立たせながら頷き、絢瀬さんの言葉を促した。 絢瀬さんはゆっくりと頷いた。 「光ちゃんは学校の男の子に暴力を振るわれるようになった。 現場を抑えることができなかったし、暴力が起きた段になると、常駐的に学校にいることのできない私は、担任の先生に注意を訴えかけることしか……できなかった」 絢瀬さんは身震いするように自分の両肘を握り締めた。 「担任の先生は話半分に聞いていて、そんなに深刻なことだと受け止めなかったみたいなの。 とても明るくて楽観的な人でね。呑気といってもいいかもしれない。 ちょっとトラブルが起きて、少し小競り合いがあった、程度の認識だったんだと思う」 懺悔するように頭を垂れる絢瀬さんの肩を、武原教授が握り締めた。 励ますのかと思ったが、武原教授は顔を厳しくした。 「一番辛いのは君ですか、絢瀬さん。 違いますよ、今、一番辛いのは須藤君なんです。 自分の苦しみは少しも見せてはいけません」 「……申し訳ありません、教授」 武原教授の叱咤に、絢瀬さんは顔を引き締めた。 絢瀬さんの表情を確認し終わると、武原教授は机の側に佇んだ。 「光ちゃんの身体に傷があったことは、私も知っていたわ。 でも、家庭の問題なのか、クラスの問題なのか、はっきりとしなかったの。 対処は常に後手後手に回ってしまって、光ちゃんの心が擦り減っていくのが判ったわ」 絢瀬さんは必死で悲しみを覆い隠そうとするように唇を引き結んだ。 「私は、どうしたらいいのか判らなかった。 光ちゃんはいつからか、当たり障りの無いことしか言わないようになったし。 それでも、私のカウンセリングルームを心の拠り所にして頑張ってくれるのはとても嬉しかった。 私はその感覚に甘えていた」 絢瀬さんは目を閉じた。 「ある日、そう、多分、事件の起きる一ヶ月前、私はようやく聞き出すことができた。辛いことをお兄ちゃんに相談したりはしないの? と、他力本願に尋ねた時」 絢瀬さんは啜り上げ、首を振った。 直ぐに真顔に戻ったかと思うと、回想を続ける。 「光ちゃんは笑いながら、 お兄ちゃんは今、とっても大事な時期だから私は邪魔しちゃいけないの。 ここで、クラスのみんなに虐められてることとか、新しいお母さんのこととかを言ったらね。お兄ちゃん大変になっちゃう。 私は今、とっても大変だから、大変なのすごく分かるの。 って」 笑いながら、言ったのか。 泣きながらではなく、あくまで、自分の苦しみより、僕の苦しみを心配して、笑ってくれたのか。 自己犠牲ではなく、僕に幸せに生きて欲しい、それが、自分の幸福でもあるのだと、光はきっと考えていた。 「光ちゃんは、少しずつ胸の底の苦しみを言ってくれるようになった。誰にも、絶対に言わない事を条件に」 絢瀬さんは目を閉じた。 きっと、絢瀬さんは言わなかったのだろう、誰にも。 言わなかった事を後悔しているのではないか。 誰かに言っておけば、悲劇は食い止められたのではないかと、今も後悔しているのではないか。 「ある男の子に殴られた事、女の子に靴を隠された事、靴が出てきたかと思えば、臭いって、書かれてたりね。 幼稚な悪意が光ちゃんの心を侵していた。でも、光ちゃんは和馬君の受験が終わったら、きっと幸福になるって信じていたみたい。 今は、世界が灰色にしか見えないけれど、お兄ちゃんがいるだけで金色に輝くんだって、そう言っていたわ」 瞳の下に涙が伝う、絢瀬さんは必死で覆い隠し、俯いた。 「全てを明かすのは、和馬君の受験が終わってからにしよう。私は心に決め、目の前の今も傷ついている少女を放置することを決めた。最悪なカウンセラーだった」 絢瀬さんは唇を歪め、自虐的に拳を握り締めた。 「そして、事件が起きた。 光ちゃんが熱を出して寝込んだ日。ちょうど金曜日だった。 私は光ちゃんが来ないのにまず、不安になり、担任の先生に尋ねた。 風邪で休んでいると聞いて、仕事が終わったらすぐに会いに行こうと決めた。 でも、夜もいい時間になってしまって、徒歩で通勤したから、タクシーを取ったわ」 「それで、タクシーの運転手が覚えていたのですね」 「田辺さんあたりが調べたのでしょうけれど、間違っていないわ」 僕の質問に、絢瀬さんは直ぐに頷いた。 正確な事実では無かったが、訂正する暇が惜しかった。 早く、絢瀬さんの言葉を聞きたかった。 「インターホンを押したけど、返事がなかった。二階に明かりがあったから光ちゃんが寝ているんだと思って、私は心配に負け、家の中へと勝手に入ったわ」 「じゃあ、なんで私達に言わなかったの? 絢瀬さん!」 金峰さんが憤慨を露わにして尋ねた。 すると、絢瀬さんは「言葉もない」と、頭を下げた。 「理由は次の話が終わったらするね。とても、失礼な話になるけれど」 絢瀬さんはここで言葉を切り、もう一度、口を開いた。 「私は無断で二階に上がり、光ちゃんの部屋にノックをして入った。 光ちゃんはちゃんとお布団に入って休んでいた。意外と元気そうにしていたので、私はすごく安心した。 いくつか話をして、空気が淀んでいたので、換気をしてあげた。 それで、タミフルの副作用の心配があったから、窓をしっかりと閉め、鍵をかけた後、お母さんとお父さんのことを訊いた」 「光は、なんて言ったんですか? 父母は最悪なことをしているとでも……」 「そう、最悪だったわ。でも、光ちゃんは最悪だなんて思っていなかったようだわ」 そうだ、光は多分、僕と一緒に居られるだけで良かったのだろう。 「光ちゃんは、お父さんの治療のために、場所を変えたこと、三万円も、置いて言ってくれたことを説明してくれた。 光ちゃん自身は異常なことだとは思わなかったみたい。 でも、これってただの放任じゃない」 絢瀬さんは『三万円も』の『も』を皮肉げに強調して、歯を食いしばった。 「私は、すぐに貴方達のお義母さん、由利恵に電話をしたわ。 喫茶店で話をしましょうって。それで、私は由利恵を手酷く責めた」 「『だから貴方はダメなのよ』と言ったのは絢瀬さんだったのですか?」 僕が呆気にとられながら尋ねると、絢瀬さんは頷いた。 「驚いている様子だと、由利恵は貴方に私の口癖を使っていたんでしょうね。 よくあることよ。 自分が人に言われて嫌だった言葉を他人に言うことって。 由利恵には私の言葉が随分と心に深く刺さったんでしょう」 絢瀬さんは両手の指を組んだ。 「由利恵は聞く耳を持たず、私達は喧嘩別れをしたようになった。 まあ、元々さして仲がいいわけではなかったから、仕方がないけれど」 絢瀬さんは息を深く吸い込んだ。 「翌日、光ちゃんが死んだとニュースを見て知った」 言い放つと、絢瀬さんは放心したように虚空を見た。 「そこからは、私に説明責任がある」 武原教授が褒め称えるように絢瀬さんの肩を叩き、僕を真っ直ぐに見つめた。 「まずは、謝罪しなくてはならない。前途ある君の将来を踏みにじってしまったことを」 僕はようやく、武原教授のことを思い出した。 僕を悪者に仕立て上げたニュースで一人、果敢に僕を擁護していた人物だ。 「そんな、貴方は僕を助けようと……」 「それはそうだが救えなかった。 君を傷つけたニュース番組は、国会議員である由利恵の父親が娘を世論の槍玉に挙げるのを防ぐために仕組んだものだ。 由利恵の恩師である私を出せばきっと擁護してくれるだろうと、由利恵の父は考えていたらしい。が、私は明らかに非の無い人間を批判するなどできない。 だから、一人戦った」 武原教授は瞳に怒りの炎を燃やしながら、拳を握り締めた。 机が吹き飛ぶような力で殴りつけ、武原教授は我に返ったように話し出す。 「多勢に無勢だった。 私の主張はあたかも少数派の意見のように取り扱われ、偏向報道は成立してしまった。 本当に済まないと思っている。 日本人の大多数は、自分で正しい主張を導き出すことができない。 結果、君をゴシップの餌食にしてしまった。 我々大人の義務を全うできなかった」 武原教授は、今、恐らく僕に殴られたっていいと思っている。 「僕は、それについては少しも怒っていません」 僕は心底から首を振った。 武原教授は僕の顔をまじまじと見つめた。 「就職活動をしようにも、ネットで君の名前を検索すれば、事件が明るみに出て、落とされるかもしれない」 「それは、きっと僕の上部しか見ない人だけです。それなら落としてもらったほうがいい」 「ネットでも随分と叩かれた」 「それだって、上部のことでしかない」 本当にどうでもいいことだ。 武原教授の謝罪も、僕にはさして関係のないことだ。 「それより、絢瀬さん。まだ、僕に妹のことをもっと早く僕たちに教えてくれなかった理由を教えてもらえていません」 僕は、絢瀬さんに視線を移し、できる限り抑制した声音で尋ねた。 絢瀬さんは一瞬の逡巡(しゅんじゅん)の後、震える唇で言葉を紡ぐ。 「怖かった。私の言葉を聴いて、君の殺意が私に向くんじゃないかって。 本当は、貴方を保健室に呼んだ日に全てを明かすつもりではあったの。 でも、貴方の氷のように冷たい瞳を見て、後回し、後回し、と今までずるずる来ちゃったの。 それに、私の言葉を貴方が信じてくれる確証も持てなかった。ごめんなさい」 絢瀬さんは僕に深く頭を下げ、金峰さんに視線を向けた。 「ごめんね、雨子、失望したでしょう。私は貴方が思うほどちゃんとした大人じゃないの。 言うべきことも言うべき時に言えない、どうしようもない女なのよ」 「私、それでも、絢瀬さんは間違ったことをしていなくて、安心したよ」 絢瀬さんの謝罪に、金峰さんは声を僅かに弾ませ首を振った。 「つまりは、こういうこと、ただの行き違いだったのだ!」 「たった一言で片付けられてもな!」 僕は金峰さんの言葉に、我慢できなくなって笑い出した。 絢瀬さんも武原教授も虚を突かれたように僕を見つめた。 僕を空中を見ながら、嗚咽がわずかに混じった深呼吸をした。 「金峰さんの大事な人を殺す必要が無くなって、ほっとしてます、よかった。 もう、いいですよ、絢瀬さん。ありがとうございました。 辛いことを訊ねてしまいました」 僕は心の底の猜疑心がすっかり消えて無くなるのを感じながら、絢瀬さんに頭を下げた。 「少しも、怒っていないの?」 絢瀬さんは虚を突かれた顔のまま、僕を見つめた。 「絢瀬さんは、妹を助けようと頑張ってくれたんじゃないですか。 僕はそこまで、見境なしに誰も彼もを悪いと思いはしませんよ」 僕は本心から告げた。 絢瀬さんは泣きそうな顔で「ありがとう」と身震いすると、 「……最後になるけど、これを須藤君に」 テーブルから立ち上がり、デスクに向かった。 白衣を揺らめかせながら引き出しから何枚かの便箋を取り出し、僕の方へとやって来る。 「光ちゃんからのお手紙、私も中を確認したわけではないけれど、貴方にとっては辛いことも沢山書いてあるかもしれないわ」 「ありがとうございます」 僕は便箋を受け取り、絢瀬さんに頭を下げると、金峰さんに視線を送った。 「授業まで時間がある。一緒に読もう」 「私も読んでいいの?」 僕の提案に、金峰さんは目を丸くした。 「ここまで、散々引っ掻き回したくせに、最後に手を引くのはあり得ないだろ」 「引っ掻き回したって、人をトリックスターか何かと勘違いしてない?」 「いいから、行こう、屋上」 「ふっふーん、いいでしょう、須藤君にそう言われて、悪い気はしない私なのでした」 金峰さんは冗談めかして言ったが、瞳の端に透明な液体が伝っていった。 「おや、おやおや? あれ、涙が止まんない。おっかしーなー、もう、須藤君のせいだからね!」 金峰さんは啜り上げながら僕の胸を叩いた。 「ごめんね、金峰さん。沢山、心配させちゃったな」 「ほんと、もう、心配で。心配、で」 「妹が死んだ理由、手紙で判るかもしれない、悪いけどすぐに行こう」 僕は金峰さんの手を取り、返事を待たないまま、歩き出した。 金峰さんは「うえーん」と号泣しながら僕に引きずられていく。 僕はありったけの体力を使いながら、金峰さんと一緒に屋上へと向かった。 4 灰色の街が、眼前に広がっている。 君が赤い花弁に変わった時から、未だに世界は絶望の荒野だ。 けれど、君の優しさと君の勇気が僕をここに立たせている。 終わりの見えなかった荒野を、今、閉じるために戦おう。 ありったけの覚悟を身体に滾らせながら僕は金峰さんを振り返った。 金峰さんは頷き、僕の背後に座り込んだ。僕も地べたに座り、金峰さんに見せるようにしながら、一枚目の便箋を開封した。 ピンク色の紙に、綺麗な字が並んでいる。 十月九日、『お兄ちゃんへ』 今日から時々、自分の胸におさえきれなくて、あふれた感情をここに書いておくね。 今日はね、クラスの男の子にくさいっていわれちゃった。 すごく悲しかったけど、つらくはないよ。 だって、お兄ちゃんのじゅけんべんきょうが終われば、くさくなくなるし、私だっておせんたく練習すれば、うまくなると思うし。 それよりきいてきいて! 算数で百点とれたの! すごいでしょー。 わたしだってお兄ちゃんの妹だし、きっと頭がいいんだよね。 だから、じゅけんべんきょうが終わったら、みせびらかすんだ 便箋には、百点の算数のテスト用紙が何枚か折り畳まれて入っていた。 「う、うぅー!」 金峰さんが耐え切れなくなったのか、変な唸り声を上げた。 「僕より先に泣くなよな」 揶揄う僕の声も震えていた。 十一月九日、『お兄ちゃんへ』 今日、誕生日のプレゼントに、赤いマフラーありがとう。 お礼におてがみを書きます。 今日はクラスの男の子に殴られちゃった。青くなってるけど、誰にも言わない。 お兄ちゃんが心配してべんきょうできなくなったら、いやだもの。 それよりね、今日は絵をかいたの。 先生にとってもきれいねってほめられたんだよ? お兄ちゃんは絵がへただったけど、私がしょうらい教えてあげるから、安心してね! 便箋には、妹と僕と思われる兄妹が仲良く遊ぶ絵が同封されていた。 「う、う、う、うぅー」 金峰さんが、原始人のような声で唸る。 「そんなに、泣か、ないでよ。金、峰、さん。どっちの、妹だか判らなくなる」 僕は僕にすがりついてくる金峰さんの頭を摩った。 金峰さんは僕の腕を取って、手の甲に涙を塗りつけた。 十二月九日、『お兄ちゃんへ』 あれから、一ヶ月おきに、てがみをかくことにしました。 前のてがみもちょうど一ヶ月おきだったので。お兄ちゃん、きいてください。 わたし詩もうまいみたいだよ。先生にたくさんほめられたの。今日はお手紙にかくことにするね。 タイトル『希望のみち』 朝、いつもあるくみちが希望のみち。 金色のみち。 きみといっしょにあるきたい。 わたしもそこであるきたい。 灰色にかわりそうなそんな時でも。 わたしはやっぱり金色がいい。 とても辛い、いやな道より。 わたしはきれいなみちがいい。 あなたもきれいなみちをあるいてください。 希望のみちをあるいてください。 「すん、すん」 金峰さんは必死で啜り上げながら、僕の肩に抱きついた。 「金峰さん、苦しい」 「いいだろー、少しくらいー」 金峰さんはようやく言葉らしい言葉を出して、僕の首筋に鼻を擦り付けた。 一月九日『お兄ちゃんへ』 さいきん、あんまりいいことなかったから、今日はグチをいいます。 先生はわからずやだし、ダイキくんはいじわるだし、アヤナちゃんもいじわるです。 給食のおやさいがニンジンばっかりだったよ。 わたし、ニンジンだいっきらい。おにいちゃんも、ときどきごはんにニンジンいれるけど、やめてほしいです。 でも、おにいちゃんの入れるニンジンはみんながいれるニンジンよりおもいやりがあるから、ときどきは、いいよ? 「私も、ニンジン大っ嫌いぃー!」 「泣き止まなかったら、後で沢山食べてもらうからね」 「うえーん、いやぁー」 金峰さんはまた、僕の背中に抱きつき、頭を擦り付けてきた。 二月九日『お兄ちゃんへ』 今日は、お願いがあって、筆を執りました。図書館の手紙の書き方の本と、辞書を沢山使って書いているので、ちゃんとしていると思います。 お兄ちゃんの受験が終わったら、今までのお手紙を見せるつもりです。虐められたことや辛いことを全部打ち明けるつもりです。 お兄ちゃんが真実を聴いて怒りに苛まれるようなことがあったら、私は悲しいです。お兄ちゃんは優しい人で、とても頭が良くて、自慢のお兄ちゃんです。 一つだけ不満があるとすれば、お兄ちゃんが怒った時、特に私のことで怒った時、とても怖いです。 昔からそうでした、私が傷ついたり、バカにされたりすると、相手を謝らせるまで、それが上級生でも向かっていく。 そんなお兄ちゃんが好きで、でも、とっても怖いです。 お兄ちゃんは、私やお母さんのためなら、きっとどんなことだってしてくれるんだよね。 でもね、今の私のことを知ったら、お兄ちゃんは先生もタイキくんもアヤナちゃんも敵に回して、一人で戦っちゃうかもしれないでしょう。そんなの私は嫌です。 私はお兄ちゃんの笑顔だけをみていたいのです。 一生が終わって、それがどんなに短い時でも、最後に見たお兄ちゃんの顔が笑顔なら、それが一番の幸福です。 だから、お兄ちゃん、幸福に、笑顔で生きてください。 私がどんなに不幸でも、お兄ちゃんが幸福なら全てが幸福になるからね。 希望の道を歩いてください。 須藤光より 「須藤君」 金峰さんは泣くのを止め、僕に語りかけた。 「生前、光ちゃんに笑顔を見せてあげられた?」 「見せた。笑顔でお別れを言ったんだ」 僕は頰が濡れそぼっているのを感じながら、何度も頷いた。 「じゃあ、光ちゃんの人生を取り戻す必要なんてないんだね。 光ちゃんは短いけど、最高の一生を手に入れてたんじゃない。 復讐も、哀悼も多分、光ちゃんには不要だったんだよね」 「うん、必要なかったんだ。僕が光にしてあげられることは、もう何もないんだ」 僕は立ち上がり、街並みを見つめた。 「時よ止まれ、汝は如何にも美しい」 僕が告げると同時に、世界が色づいた。 金色の光が街並みを照らし、屋根はそれぞれの色を写し、窓は光を反射して、きらきらと輝いていた。 透明な風が光を受けて、虹色に煌めき、熱を持った頬を撫でていく。 様々な匂いが鼻腔を通して、胸に押し寄せ、心が満たされていく。 人々の足音や、風の音、車の行き交う音、雑多で不合理だけれど、生きていることを証明する音が、愛おしい。 身体に押し寄せる喜びの波や悲しみの波に、なぶられて後ずさりしそうだけれど、僕は息を吸い込んで前に進んだ。 「忘れてた。世界はこんなに綺麗なものだったんだ。 どんなに、辛いことや惨めなことがあっても、それは決して世界の美しさを本質的に壊したりしない。 ただ単に、僕の心にフィルターを掛けるだけだったんだ。 だから、世界は本質的に美しいんだ」 「須藤君、見える? 多分、これが光ちゃんがずっと見ていた世界だったんだよ。 君の瞳の中にある世界こそが、光ちゃんが君に見せたかった世界なんだよ。 さあ、もう、いいよね。 君の怒りは……」 「無くなった。完全に、どこにも、心のどこにもありはしないんだ」 僕は振り返り、金峰さんと向かい合った。 目の前に、本当に美しい、金色の少女がいる。 僕は少女に傅いた。 「ありがとう。君のお陰だ。でも、妹はなんで死んだのか。それが、まだ……」 「わたしには手紙を通して、光ちゃんの死に際が見えたんだ。こんなに鮮明に見えたのは初めてで、正直、自分でも驚いているけれど」 僕の疑問に、金峰さんは少しだけ解せないように眉根を寄せた。 「悪いけど、今日は一限目サボろう!」 「またサボりか」 「我々にはもっと大事なことがあるのです!」 金峰さんはきっぱりと言い切って、僕の手を引いた。 僕たちは旋風となって、閉鎖された空間を切り裂き、希望の道を歩き始めた。 5 僕たちがやって来たのは、始まりの場所。 僕と光が過ごした家だ。 金峰さんは家の周囲を目を凝らしながら確認している。 淡い黄色の壁に、赤いトタン屋根、緑色の庭に風が吹き付け、窓には光の粒が揺蕩っていた。 庭は緑一色で、空は青一色。 乾いた朝の空気が肺を駆け巡り、心臓が高鳴る。 僕の脳裏には、妹が赤い花弁に変わった時のことがありありと浮かんだ。 僕の思考を他所に金峰さんはしばらく目を細めていた。 金峰さんはしばらくして、ようやく「あっ」と声を上げた。 金峰さんが差す指の方向を見ると、屋根の突起の部分に赤い布がはためているのが見えていた。 「あれが、光ちゃん殺害の犯人だよ」 「あんな赤い布の切れ端が?」 「切れ端だから、意味があるのだよ、ワトソン君」 金峰さんは謎めいたことを言って、屋根のそばに駆け、布を取ろうと飛んだ。 当然、腕は空振り、金峰さんはおでこを壁にぶつけた。 「いや、そうなるに決まってるだろ」 僕は金峰さんの側に駆け寄り、おでこを摩ってあげた。 「ぶー、いたいー」 「ちょっと待ってて。脚立か何か、持ってくるから」 僕はこれ以上金峰さんが無茶をしないように制止をかけながら、物置へと走った。 しばらくして、脚立を持って戻ってきた。 金峰さんは脚立をひったくるようにしながら、ほとんど無心で赤い布まで突き進んだ。 危なっかしい手つきで赤い布を取り上げ、金峰さんは危なっかしい足取りで戻ってきた。 「これ、見覚えある?」 金峰さんは、目を細めながら尋ねた。 赤い布は、僕が誕生日に光にあげたマフラーだ。 「でも、これが犯人ってどういうこと?」 僕は困惑して金峰さんの顔を窺った。 「私に見えたのは……」 金峰さんは僕の疑問に答えようと言葉を探したが、見つからなかったらしい。 金峰さんは、床に膝を突いて、激しい動きで砂や埃を集めだした。 僕は慌てて止めようとしたが、金峰さんが何をするか直後に悟って、手を止めた。 金峰さんは、絵を描いていた。 驚くべきことに、砂と埃と土の色合いだけで、見事な絵を完成させていた。 絵が物語っているのは、花弁のようにゆらめくマフラーと、それを追う小さな手、マフラーと手の先には、僕らしき人物の顔が浮かんでいた。 僕にもようやく、理解できた。 「光は、窓を開けて、僕を待っていた。でも、マフラーが風に揺られてどこかに行きそうになり、必死で掴もうと手を伸ばして……」 「誤って転落死しちゃったんだね。このマフラーは屋根に引っかかって、引き裂かれたんだと思う。 光ちゃんはマフラーの切れ端、赤い花弁を抱いて死んでいたんでしょう?」 僕が言葉に詰まっていると、金峰さんが言葉を引き継いでくれた。 「本当に、誰も悪くないんだ」 僕は胸に残る最後の痛みだけは抱えていこうと、金峰さんの絵をまぶたの裏にくっきりと写した。 「さ、学校に行かないと」 金峰さんが少し億劫そうに呟いた。 「それともゲームセンターで豪遊する?」 直後、悪戯っぽく僕に提案する。 「良いのかよ、優等生」 「優等生じゃないもん。私は、ちょっと明るいだけの普通の女の子だよ」 「そうかい、僕はちょっと明るいだけの普通の女の子に救われたわけだ」 「ふっふん、まあ、そこが金峰さんの凄いところなのでした」 「言ってろよ」 「あー、ひどいよ……」 「ごめん……」 「もう……」 僕たちの声は美しい世界に呑まれて、消えていった。 未だ残る胸のしこりを抱えながら、僕と金峰さんは、一日、勉強に没頭した。
/5ページ

最初のコメントを投稿しよう!