第一章 赤い花弁が咲いた日

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第一章 赤い花弁が咲いた日

金色の雨は鎮魂歌を歌う 灰色の雪は音色に溶ける 1 僕、須藤和馬は今日を忘れない。  街灯の真下で妹の須藤光が横たわり、血の花弁を掻き抱きながら死んだ今日を。  君が赤い花弁に変わった時から、僕の世界は絶望の荒野だった。  果てしなく続く荒野の果てに君の骸が横たわっていた。僕は悴んだ足で君の骸へと歩いた。  灰色の雪がモノクロの景色へと突き刺さり染み込んでいく。君はもやもやとした僕の視界に明瞭と浮かび上がり、信じたくないと叫ぶ脳に対して現実逃避を許さなかった。  喉の奥から、呻き声が漏れた。 風が僕の行く手を阻む。身体が風に煽られて、壁にぶつかるような錯覚がする。 僕は歩くのを止め、走った。 あと少し、あと少しで手が触れる。 指先が、妹の手に触れる。 冷たい……。 氷のように冷たい。 僕は膝を突き、妹の手を握り締めた。 やはり冷たかった。 「光! 光ぃ!」  横たわる妹の身体を抱きかかえながら、僕は声の限りに叫んだ。  神様がもし居るのなら、僕の叫び声を聞いて、妹を救ってくれればいい。  代わりに僕を地獄に落としたって構わないから。 妹の苦しみを僕に移して欲しい  きっと苦しかっただろう。  僕が妹から目を離して、自転車を引いているうちに、妹はきっと苦しみ抜いていたんだろう。  どれほどの激痛だっただろうか。  一人、孤独に死を迎えた妹はどんなに苦しかっただろうか。  妹には、僕以外いなかった。僕は側についていてあげなければならなかったのに。  誰か、妹の受けた苦しみだけを消す術をせめて僕に教えてくれないだろうか。 妹は無慈悲に動かない。赤い花弁を掻き抱いたまま、目を閉じている。  僕の心を無視して赤い花弁は無慈悲に広がる。  僕の両手に花弁の一部が触れ、冷たく僕の腕を刺した。  何故、妹でなければいけなかったんだろう。  運命か何かだったんだろうか。  じゃあ、なんで僕じゃなくって、妹なんだ。  教えて欲しい。  神様がいるなら、せめてそれだけを教えて欲しい。  念じながら、呻き声をあげ続けていると、誰かがやって来た。僕の細い肩を優しく引き剥がして、「大丈夫かい」と語りかけた。  大丈夫なものか、妹はもう死んだ。大丈夫なわけがない。  身体を支える誰かに食ってかかろうとしたが、言葉も涙も枯れ果てて、絶望の荒野に僕は一人、座り込んでいた。  まるで、僕は駄々っ子のようだった。  荒野の中で置き去りにされた赤ん坊だった。  僕は、やがて目を閉じた。  荒野に夜が訪れる。  僕の心が平穏になる方法はたった一つ。深い深い、海の底のような眠りに落ちることだけだった。 眠りの果てに、まだ大きな絶望があるとしても、僕は眠りに落ちるしかなかった。 2  絶望なんてとっくに通り越した生活を送っていると、僕は確信していた。 大好きな母が死に、父は心の病を患い、新しく来た義母は冷たい。 これ以上の苦痛はないと思っていた。  そんなことはなかった。 結局、僕よりも不幸な人はこの世に沢山いるのだろう。 その沢山の人達は絶望に片足を突っ込んで、それでも生きている。  絶望は深い沼で、深い沼は、地底の更に奥深くまで続いている。潜り込んだら最期、地獄に堕ちるまで沈み続ける。  僕は絶望の泥沼に片足を突っ込み、絶望の荒野へと沈んだ。  荒野には黒い太陽が鎮座して、灰色の雪が絶え間なく降り注ぐ。凍えるような冷気に、肺が刺すように痛む。  例え僕が荒野にいても、妹が居てくれれば何とかなる気がしていた。  実際、何とかなっていた。 空虚な気持ちを鎮めるために妹が死んだ理由を紐解かねばならない。  死別の日、妹はインフルエンザに罹っていた。 妹の部屋は薄桃色の壁紙に包まれていて、白い棚や黄色い本棚が綺麗に並べられている。 棚の上にはぬいぐるみがいくつも置かれ、本棚はボロボロな児童書で溢れかえっていた。  ここ数日、父親からも義母からも連絡はなく、二人は町を一つ二つ離れた場所で呑気に生活していた。  父は統合失調に罹っていて、義母は父の病気を治すために静かな環境が必要だと主張した。  隔離は三ヶ月に及んだ。  義母は三万円をテーブルに置き、連絡先を教えた上で、僕たちの前から去った。  別に、義母を恨んでなどいなかった。  父と義母を、僕と妹は酷く嫌っていたから、離れてくれて嬉しいくらいだった。 義母がいないだけで、大分、心安らかで、妹も落ち着いているように見えた。 母がいないことを除けば、理想的な毎日ではあったかもしれない。  残念なことに妹がインフルエンザに罹った以上は、義母に面倒を見てもらう必要があった。  三ヶ月、かなり切り詰めたが、もう、病院に行くようなお金は残っていない。  僕は恥を偲んで義母に電話をしたが、電源を切られた。  無情な電子音と共に、ホーム画面へと戻った携帯電話を僕は取り落とした。  僕は、縫い跡だらけの布団に包まった妹の頭に手を置いた。 荒い呼吸を繰り返し、寝返りを打ちたくても打てないのか、身動ぎするばかり。  いつもなら暇を惜しんで物語を読む妹が今日はただ黙っているだけだ。いつも元気な妹も今回ばかりは耐えらえれないようだった。額に手を置くと、明瞭と熱かった。 手付かずの本棚に置かれた時計が、こつこつと音を立て、僕の焦燥感を掻き立てた。  僕は濡らしたタオルを妹の頭に置き、ベッドへともたれかかった。 「光、お前を医者に連れて行こうと思うんだけど、大丈夫か?」 「大丈夫だよ、お医者さんなんか行かなくても治るよ」 妹は僕に向かって微笑み、首を振った。  とても細い声だった。 唇は震え、顔はもう、青白くなっていた。 僕は一層の焦燥感に駆られた。  コンビニ飯ばかりで、栄養も不足している。  薬も無しで治るわけがない。  どんなに、尽くしたって、僕では限界がある。 「やっぱり、お医者さんに行こうな」 「もう、心配性だなあ」 僕の提案を、妹はどこか困ったように笑った。 「すごく辛そうだよ。外は寒いかもしれないけど、ちょっとの辛抱だから」 「ありがと」 僕が微笑みかけると、妹も破顔した。  僕は妹を抱き上げ、布団へと完全に包ませた。本を縛るようなビニール紐を用意して、妹と布団を緩く縛った。 「お兄ちゃん、赤いマフラー」  妹は苦しそうに僕に懇願した。  僕はすぐに、妹の服の入った棚から今年の誕生日プレゼントで妹に渡したマフラーを取り出した。  妹の首にマフラーを巻きつけて、僕は妹を抱きかかえた。  僕は抱きかかえたまま、部屋を出ることにした。  ドアノブをつかむのに大分、苦労したが、どうにかこうにか部屋を出て、家を出た。妹をママチャリの荷台に載せて、僕は病院へと向かった。 一本、大通りを渡って、田園地帯を真っ直ぐに突っ切ると、病院がある。 いつもなら、簡単に行ける場所だったが病院への道は険しかった。  凸凹のある雪道は、自転車を漕ぐのに適していないから、僕は自転車を引く必要があった。引いてなお、雪道にホイールを取られ、転びそうになる。僕は必死で舵を取り、車体をまっすぐにした。 「お兄ちゃん、見て。月が出ているよ」  必死な僕の耳に、ふんわりとして、暖かそうな声が届く。  僕は必死さを忘れて、空を見た。  満月が、雲の間から顔を出していた。 薄い黄色の光が、雲に煽られて、ゆらゆらと移ろっている。 「星様も出ているね」  妹は掠れた声で呟いた後、僕の背中に顔を埋めた。 星々は星座を結び、明滅していた。 僕の瞳が星の光を受けて輝くのが判った。 「綺麗だな」  焦りと安堵の波で口調が揺れるのが判った。僕は焦りに負け、妹の異様に高い体温を感じながら、歩調を速めた。  きっと、これは妹の心遣いだろう。  僕の心を和ませようと言ってくれた。 一言しか気の利いた言葉を返せない自分に、少しだけ腹が立った。  僕は妹の肩に手を回して、頭を撫でた。 「荷台にちゃんと載ってなよ。落ちちゃうぞ」  失敗を取り繕うように、できる限り優しい言葉で妹に注意する。 「ん」と、妹は短く頷き、荷台の上でうつらうつらとした。  こんなに寒いのに、文句も言わない。 妹のいじましさに、僕は身震いしそうになった。  助けてあげたい。  僕は妹を助ける事ばかりを考えていた。 そんな僕の服の裾を、妹が優しく引いた。 「神様がね、きっと助けてくれるんだ。どんなに苦しいことがあってもね、最後には助けてくれるって、母さんが言ってた」  妹は朦朧としながらも、未来に想いを馳せるように、優しく語りかけてくる。  だけど、母さんは乳癌で死んだ。神様は助けなかった。  言いかけて、僕はすぐに口を閉ざした。 「光みたいに良い子なら、きっと助けてくれるよな」  僕は妹に向かって微笑みかけた。 「さ、もうすぐだ」  決して乗り心地が良いとは言えない自転車を引きずりながら、僕は妹に呼びかけた。妹は頷いて、僕の背中に顔を載せた。  粉雪が妹の顔に当たっては弾けて、水に変わった。  妹の体力を、雪が奪っていくのが分かった。僕は雪が憎くて堪らなかったけれど、妹はむしろ心地いいようだ。さっきから雪を顔に浴びては目を細めている。雪の冷たさが、妹に仮初めの快感を与え、熱が冷めたような気にさせているのかもしれない。 だとしたら、あまり良い事態とは言えない。急がなければならない。  一本道に差し掛かって、僕は少し上に視線を向けた。  小さな田んぼと公園の横を抜ければ、市立病院がある。  病院のすぐ横には、月が泳いでいる。  そう言えば、今は何時だっただろう。  僕は、月の位置から今が夜もかなり深まった時間なのだと気付かされた。  冷水を浴びせかけられたような気分だった。 もしかすると、もう診療が終わっている可能性があった。病院が閉まる時間帯はあまり正確に覚えていないが、そう遅い時間帯ではないことは明瞭としていた。  ここまで来て、無駄足だったら、妹を悪戯に疲弊させただけで終わってしまう。  そんなことはごめんだった。 僕は目紛しく思考を繰り返しながら、引き返したくなる足を前に進めた。ここまで来た以上は、病院の扉を叩いてでも診療をしてもらう。それがダメなら、違う病院を探してもいい。 夜間診療だってあるかもしれない。 残念なことに時間を戻すことはできないし。  早めることもできはしない。  僕は希望に賭けて、病院へと再び歩を進めた。 3 市の病院は、白いビルで、中央棟と北棟と南棟に別れていた。小児科があるのは中央棟で、建物の足元にあるガラス扉から向かうことができる。夜だけあって、どの棟の窓からも光は漏れてこないが、入口のガラス扉からだけ、僅かな光が見えた。 僕は扉へと目を凝らした。 ガラス扉に貼り付けられた夜間診療の立て札を見て、思わずへたり込みそうになった。 安堵で腰が抜けかけたが、妹の手前、あまり情けないことはできない。僕は足を背後に突いて踏みとどまる。 「大丈夫ですかっ?」  中央棟の入り口に立った僕たちへと、受付の女性はただ事ではないと思ったらしく駆け寄ってきた。 ふくよかな看護師で髪は薄い茶色だった。唇は厚ぼったいが、目は綺麗で、不思議と安堵感を感じさせる顔に思える。看護師はすぐに扉を開くと、僕や妹の頭や服についた雪を払い除けてくれた。 「さ、これで大丈夫です、中に入って入って!」 看護師は僕たちを急かすように引っ張った。 「大変だったでしょう? お母さん、お父さんは?」 看護師さんは、ここにはいない父母へと今にも食ってかかりそうな口調で尋ねた。 「お金がないんです。診てくれますか?」  僕は答える余裕もなく、震える唇で訴えた。  すると、ふくよかな受付の女性は僕に向かって、頷いた。 「後で、お父さんか、お母さんに払ってもらうので、大丈夫よ」  看護師さんは僕の肩に手を置いて、妹を受け取ると、診察所の方へと歩き出した。  義母も、流石に病院から請求が来れば払うだろう。 少しだけずるいとは思ったが、元はと言えば義母のせいだ。 文句を言う権利は無いはずだ。  僕は色々なしがらみから解放されたせいか、急に虚脱感に襲われた。  だけど、妹はまだ苦しい思いをしているだろうから、安心するのは早い。  診療所の前には、三つの長椅子が並べられ、今は誰も座っていない。どうやら、患者も付き添いも僕達だけのようだった。  暗い診療所の白い電灯を見上げながら、僕は長椅子に座った。 自由に水を飲めるウォーターサーバーが待合室の隅っこに置かれていて、コップもある。喉の奥が妙に渇いていたけれど、何も飲む気にはなれない。  妹が苦しんでいるのに、僕だけ良い思いをすることは出来ない。 「すぐ診てくれるって! いらっしゃい!」  ぼんやりと考えていると、受付の女性が僕に手招きをした。  僕はすぐに立ち上がり、重い足を引きずって、診察室へと向かった。  診察室は、昼間に比べると、かなり光量を落としていたが、疲労のせいか目が眩みそうになる。  簡易ベッドと、机、コンピューターがあるだけの簡素な部屋に、人の良さそうな医師が佇んでいる。医師は若くて、少し経験の浅さを感じさせた。 医師からは薬品の匂いがした。  医師は、妹を一通り診察した後、 「インフルエンザですね」  と結論づけた。 「他の大きな病気はしてないですね?」 「もちろん、ただのインフルエンザです」  僕が杞憂を述べると、医師は簡単に笑い飛ばしてくれた。 僕は安堵感に一層、疲労が押し寄せるのを感じた。 「タミフルを出しますから、安静に……」  締めくくりかけて、医師は僕と妹の格好に目を留めた。 「まさか、歩いてきたの?」 医師はずぶ濡れに近い僕を見て、真摯な口調で尋ねる。 「自転車の、荷台に載せて」  僕は渇いた唇を動かして、必死に説明しようとした。舌の根すら凍りつき、上手く話せなかった。 「いいよ。もう解ったから」 尚も説明しようとする僕を医師は優しく制止した。 「タクシーを呼ぶから、今日はそれで帰ってね」  医師は僕の両肩に手を置いて、口角を上げた。  僕は腹の底からこみ上げてくる何かを必死で押さえつけて、頷いた。 4  妹と一緒にタクシーに乗って、家まで帰ると、僕の携帯電話に着信が入った。妹を早く寝かせたかったので、ひとまずベッドに運び、薬を飲ませることにした。  携帯電話はポケットに仕舞い、水道で水を汲み、妹の上体を起こさせた。顔を傾け、コップを口に付けると錠剤を飲ませた。  妹は苦しそうに薬を飲み干して、糸が切れたように布団に身体を埋めた。  僕はしばらく妹の様子を見ることにした。 見ている間も、携帯電話がひっきりなしに音を立てるので、電源を切った。  ハラハラと様子を見続けて数分、妹がゆっくりと目を開けた。 「大分、楽になった」  妹は笑って上体を起こし、僕に向かって唇を緩めた。  僕は知らない内に両手を広げて、妹の両手を握りしめていた。 「死ぬのかと思った」 「そんなわけないじゃん、大袈裟だなあ」  妹は僕の両手を握り返して、額に擦り付けた。 「ありがとうね、お兄ちゃん」 「そうだ、お義母さんから電話がかかって来たから、出ないと」  僕は妹が治ったことで、ようやく冷静さを取り戻し、携帯電話を拾い上げた。  正直、義母と話すのは、少し億劫だった。  どうせ、ロクでもないことに決まっている。  できれば出たくはないが、義母はヒステリーを起こすことがあるので、放っておくのは少し危険だ。  携帯電話の電源を入れ、義母の番号に直接かけると、すぐに応答があった。 『なんで、出なかったの?』  険悪な声が電話口から僕を襲った。 「妹がインフルエンザに罹ったんです。心配だったので」 僕はできる限りに平静な声で、突っぱねた。 『そう、でも電話くらい出られるでしょ? そもそも、インフルエンザに罹ったなら、私に連絡くらいすべきよね?』 「ごめんなさい」  僕は理不尽だとは思いながらもすぐに頭を下げた。 『ごめんなさいって何? 私たち、家族でしょ? なんで敬語なの? 私と仲良くなる気はないのかな?』 義母は押し付けがましく皮肉を滲ませた。 「そんな事ありま……ないよ」 僕は、平静を装って、言い直した。 『だから、あなたはダメなのよ』  義母は舌打ちをして、険悪に言葉を打ち切った。 だから、あなたはダメなのよ。は、義母の口癖で、僕はもうとっくの昔に慣れっこになっていた。 『お父さんの着替えを持ってきなさい。パジャマを二、三着』 義母は冷たい口調で命令した。 「僕、妹の様子を見ていたいんです」  タミフルを飲んだ後は、錯乱することもあると言う。妹から離れるのは危険な気がした。 「お兄ちゃん、私はいいよ。お義母さんの言うこと聞いて」  妹は比較的に元気な顔色と声色で僕に囁いた。  僕は渋々と頷き、「すぐに行きます」と言って、電話を切った。 「私、おとなしく眠ってるからね。出て行ったりしないからね!」  妹は当たり前のように微笑んだ。 僕は妹をしばらく見つめた。 恐らく、眉根がかなり寄った怖い表情になっていたのだろう。 「お兄ちゃん、笑って? 怖い顔。にこーって!」 妹は僕を気遣うように、朗らかに諭してきた。 「そうだな、じゃ、行ってくるから」  僕は心が妙にざわつくのを感じながらも、妹に向かって微笑んだ。 妹は心の底から安堵したように頷いて、手を振った。 妹に手を振り返した後、背を向け、ドアを開けた。  タクシーで来たから、自転車も取りに戻らないと行けない。  無理やり動機を補強して、僕は父親の家へと向かった。 5  町の外れにある一軒家にたどり着き、インターホンを鳴らすが、誰も出なかった。 父と義母の家は二階建てで、趣味の悪いピンク色だった。屋根はけばけばしい深紅。 屋根の形や外壁のデザインは西洋の家を思わせるが、妙な不揃いさを感じさせた。 僕はこの家が大嫌いだった。 父と義母が媚態を繰り広げているのも知っているから、余計に嫌いだった。  インターホンを鳴らしても誰も返事をしないのには流石に頭に来て、黒いドアの金色のドアノブを乱暴に回した。 扉は予想外に呆気なく開き、僕は転びそうになった。必死でバランスを取り、家の中へと入り込んだ。  右手には着替えの入ったビニール袋がある。  入り口に置いておこうかとも考えたが、義母が後で難癖を付けてくる理由を作ってはいけない。 僕は「お邪魔します」と断って、中に入った。  寝室の方から人の気配がしたので、僕は右手に見える扉へとまっすぐ向かった。 寝室は一階にあり、玄関の廊下に面していた。  扉をノックすると「ああ」という返事がなおざりに投げられる。 今、声を出したのは父のようだった。僕はゆっくりと、扉を開いた。 中に入って、部屋を一望すると、父が半裸でベッドの上にいた。  父の目がは爛々と輝いていた。 猿を思わせる姿勢でベッドの上にしゃがみ込み、浅黒い顔をこちらに向けていた。 「父さん、着替え、持ってきたよ」  僕は正気を失ったような父へと努めて優しく語りかけた。 「あー」  僕の言葉に辛うじて反応して、父はビニール袋をひったくった。 「お父さん、お義母さんは?」 「コンビニ」  父は面倒臭そうに返すと、ビニール袋からパジャマを引っ張り出そうと手を動かした。 手は精神薬の副作用で震えているので、簡単な作業をすることすらままならない。 一、二年も前からこんな様子の父を、僕は心の底では毛嫌いしていたし、同時に、かなり恐ろしかった。  僕はそれ以上関わりたくなかったので、「じゃあ、さよなら」と言葉を捨て家を後にした。  帰る途中に、僕は妹の死体を見つけた。 6 「須藤光ちゃんは、タミフルの副作用で二階から飛び降り、お亡くなりになったわけで。大変痛ましい事件ですよねえ。でも、未然に防げなかったんでしょうかねえ」  翌日のこと、僕の目はニュースに釘付けになっていた。  訳知り顔のタレントが許容できないとばかりに早口で喋っている。 浅黒い顔で、髪は綺麗に整髪されているが、どこか軽薄な印象を拭えない。 至って真面目な顔をしようとしているようだったが、唇の端には確実に侮蔑の笑みがあった。 「光ちゃんに保護責任があったのは、高校生にもなるお兄さんで。 光ちゃんが苦しんでいる時、長時間、家を留守にしていたらしいですよ」  タレントは尚も続けた。口調には冷ややかさが籠っていた。  三十分が、長時間なのか。  僕は、ぼんやりとした頭で考えた。  三十分、親に命令されて外に出ることが罪なのか。 「高校生にもなるんだから、妹が風邪の時くらい、一緒にいてやろうとも思わないんですかね。 最近の若者のモラルに一層厳しくメスを入れるべき機会に私には感じられます」 タレントは、生き生きとした口調で締めくくり、踏ん反り返った。  僕は頭を掻きむしっていた。  まるで、僕が悪魔のように描写されている。  僕はそんなに愚かだったか。  自分勝手だったか。 「ですが、保護責任と言うなら、ご両親はどうだったんでしょう?」  メガネを掛けた、いかにも慎重な男性が、不機嫌そうに苦言を呈した。 「母親はすでにお亡くなりになられていて、父親は心の病を患われているために、実質、保護責任は、高校生のお兄さんにあったわけです」 タレントは薄ら笑いを浮かべながら撥ね付けた。 「私はねえ、お兄さんを責める気にはなれないですよ」  男性は必死で流れに逆らおうとしているようだったが、スタジオの雰囲気に呑まれて、空回りしている。 「妹さんは、すごくお兄さんを信頼していたって言うお話ですよ。お兄さんはそれを裏切ったんじゃありませんか」  タレントが意気揚々と男性に食ってかかった。 男性は、それ以上反論ができないようだった。多分、真実は伝わっていない。 「事件の、詳細な内容を見れば見るほど、私は、高校生のお兄さんの人格を疑わざるを得ないんですよ」  タレントは尚も白々しい訳知り顔で続ける。  僕はそれ以上、聞いていられなくなって、リモコンの電源ボタンを潰れるほど押した。 リモコンを床に叩きつけ、僕は蹲った。  何もかも嘘だ。 「ごめんね。でもね、お父さんを守ってあげるには、あんたが悪役になるしかないと思わない?」  僕の肩を抱きすくめ、悪魔のような女が欺瞞を口にする。  首を絞めてやりたかった。  台所に行って、ナイフを取り出して、身体を切り刻んだって、きっと神様は僕を咎めたりしないだろう。  だって、こいつは悪魔だ。  だからこそ、僕は。 「うん、お義母さん、解ってるよ」  笑った。  世界の誰よりも、歴史上のどんな人物よりも、白々しく、笑った。 7 それから、七日、僕は毎日、家に閉じこもって、髪を掻きむしっていた。  気が狂うかと思った。生きるためだけに、与えられたものを貪り、髪を引きちぎった。  部屋は埃まみれになり、僕の身体もまた埃まみれだった。自分の口から、何か得体の知れない呪詛が漏れ出るのを感じた。酷い嗄れ声だった。  みんな嘘つきだ。  これは、罰なのか。  だとしたら、なんの罰なのか。  こんな仕打ちを与えることを、神様とか言う奴は是とするのか。  信用も信頼も親愛も全て失い。  ゴミだめのような部屋でゴミに埋もれ、ゴミのような食事を啜っている。  ああ、もうすぐ法要が始まる。  初七日法要に行かなければ。  部屋から出ないと。  僕は辛うじて考え、部屋を出た。  そうして、身を整えようと、洗面台の前に立った。  僕の髪は、僕の白々しさを生き写すように、真っ白だった。  顔は骨ばり、青白く、目は爛爛と光っていた。 「これが、僕の顔か。こんな死神みたいな顔が」  僕は呟き、洗面台の前で蹲った。 「光の、法要に行くんだ」  僕は、自分に言い聞かせ、義母の家に、まず行くことを決めた。  花を買うお金がいる。  土下座してでも、手に入れる必要がある。  家から出た瞬間、たくさんの人間が僕を出迎えた。  七日を過ぎて、尚、マスコミが集まっていた。 「あ、須藤和馬君ですか……。少しお話を!」  マスコミが勢ぞろいで僕に群がってきた。  カラスの大群が群がっているのによく似ているように思えた。僕は、彼らを押しのけながら歩き出した。  随分と筋肉の落ちた身体は進むのにも難儀した。  葬式の間、僕はただ塞ぎ込んでいただけだ。  妹にしてやれる義務を何一つ果たしていない。  せめて、法要に出てやらなければならない。  心が燃え上がっていた。  目の前には、絶望の荒野が広がっている。  黒い太陽が行方に聳えている。  僕の進む先に、希望はない。  終着点が絶望だとしても、絶望と心中するだけの覚悟はある。  僕はあの女と父親を殺してみせる。  どんなことがあっても。  僕は強く目の前に広がる景色を見た。  僕が休んでいる間に、世界は様変わりしていた。  どこを見ても灰色の雪原だ。  道路は消え、ビルは氷山に変わっている。  可笑しな光景だ。  だけど、死神が歩くのなら相応しい。  僕はただ無言で進む。  良心を断ち切るために、妹の亡骸と会いに行こう。  僕の行く手を阻めるのは、僕の生きる意味である君だけなんだ。  君は暖かな向かい風で、優しい軛で、腕を引く躊躇いそのもので。  だから、君を断ち切らなければならない。  本当に君のために生きるために。    君と共にあれば、希望が花を咲かせる楽園にいることが出来ただろうに。  けれど僕は、復讐の権利を得た。  神すら僕を許すだろう。  許さないのは、きっと君だけだ。  君がいるだけで、灰色の荒野は辛うじて銀色に輝くんだ。  でも僕には、君の輝きは眩しすぎる。  どうか、そんなに輝かないで欲しい。 8  千石町の義母の家に入った僕は、まず頭を下げた。 「お金をください」  僕が抑揚のない声で頼み込むと、義母は気味が悪そうに僕へ紙幣を投げた。 「ありがとうございます」  僕は白々しく笑って、家を後にした。  あの女にいくら気味悪がられても、今の僕にはなんの意味もないことが判った。  そうして、僕はスーパーへと向かった。 9 極楽寺は灰色の雪を屋根全体に被り、住職が必死で雪掻きをしていた。入り口の隣に桶と柄杓が並び、側には水道があった。  僕は花を片手に持ちながら、石造りの道を歩いた。 桶と柄杓の所まで辿り着くと、僕は両方を手に取った。 冷えきった手で、水を汲むと、線香の匂いが漂ってきた。顔を上げると、葬式の終わったばかりなのか、遺影を持った一団が僕の後ろを通る所だった。 僕は一団に頭を下げて墓へと向かった。 苔の生えた石道の半ばに須藤家の墓があった。  墓は野ざらしで、花一本も無く。  寂しげに唸りを上げる風に削られ、所々がひび割れていた。  僕は墓の前に立ち、花を供えた。 「光は、良い子だったから、きっとこれから、素晴らしい将来が待っていたはずなんだ。守ってやれなくてごめんな。母さんに、お前のこと頼むって言われていたのに、僕は、ダメなにいちゃんだよな」  止め処なく、頰を冷たい液体が伝う。  液体は出た先から凍りついた。 「にいちゃん、絶対にお前の……」  最後まで言葉を紡ぐことが出来なかった。  妹の足元に蹲って、泣き噦ることしかできなかった。  どうすれば良い。  心が今にも裂けそうだ。  相反する二つの願いが、身体を渦巻いている。  来るんじゃなかった。  決心が固まるどころか、迷いが増えた。  妹が望まないことは知っている。復讐なんて、望まないとを知っている。 ふと、僕は側面から誰かに睨まれているように感じて顔を上げた。  鏡面のように磨かれた隣の墓が、僕の死神のような顔を写している。 僕を見ていたのは僕自身だ。  もう心はとっくの昔に決まっていたんだ。 「ごめん、光。僕はもう、死神なんだ」  涙は既に枯れ果てた。  希望も既に消え絶えた。  自分の足だけで、雪原を歩いていくしかない。
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