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終章 新たに始まる日
1
「ごめん、心のこもった告白、嬉しいです。でも、僕は一生金峰雨子さんを守らなくてはならないので、気持ちには応えられません」
放課後、校舎裏に呼び出された僕はいわゆる告白を受けていたが、できる限り丁寧に断った。
女の子は涙を浮かべたが、僕が微笑むと顔を真っ赤にして俯き、どこかへと消えた。
僕は放課後に済ませなければならない用事があったので、校門まで急いで向かった。
廊下を走り、昇降口にたどり着き、外履きに足を突っ込んだ。
太陽の光が照りつける、やや暑い夏の空の下に、僕は出た。
同時、金峰さんが学校を出ようとしているのに出くわした。
「須藤君ではありませぬか」
忍笑いしながら、金峰さんは僕へと古風な言葉を投げた。
「金峰さん、なんでそんなに上機嫌なの?」
僕は本当に心の底から疑問に思って尋ねた。
「それはだね、須藤君が尋常ならざるほど綺麗な女子生徒に告白されたと聞いたからです。なんだなんだ? 付き合っちゃうんでんすか、彼女持ちですかー?」
金峰さんは無邪気に僕へと詰め寄った。
「なんで、急に声をかけてきてくれたんだろう」
僕は校舎裏に視線を向け、途方に暮れながら尋ねた。
「そりゃあ、須藤君がどこそこで人助けをしまくるからだよ。普通、あれだけ愛想振りまいてたら、一人か二人、惚れたっておかしくないでしょ」
金峰さんは呆れたように肩をすくめ、指摘した。
「それでえ? 付き合うの?」
金峰さんは野次馬根性丸出しで、猫のようにこちらを伺った。
「僕、君以外の人とは交際しない」
「お、おお、おおう?」
僕の決然とした言葉に、金峰さんは身体を強張らせ、口を半開きにした。
「もう復讐なんて終わりだ。金峰、俺の生きる意味はお前だけなんだ。って、今なら言ってあげてもいいかなって」
それは、いつだったか、金峰さんが憎しみを捨てたら言うように命令した言葉だった。
満更でも無さそうに、金峰さんは頰を赤くした。
「私かー、私は、須藤君いじわるだから嫌だけど。しょうがないなあ。須藤君、まだ時々危なっかしいし、すごく不安定だから、私が支えてあげるしかないかー。うんうん、仕方ないなあ」
震える言葉を適当に濁しながら、金峰さんは僕の隣にやって来た。
未だに頰が桜色になっているように見えるのは僕の願望の表れだろうか。
金峰さんは思考をよそに、僕と肩を並べて歩き出した。
僕達の間には、ドッジボール一個分ほどの距離があった。
僕たちは距離を縮めもせず伸ばしもしないまま、校門へと向かった。
「でも、彼氏彼女とかはまだ無しの方向で。ちょっと仲良くなったくらいで、私を手に入れられるとは思わないことだよ。私は高額商品なんだから。落としたければ、国宝級の財産を持って来なきゃね」
「分かっているよ。僕も簡単に君をその気にさせられるとは思っていないから」
二人で冗談めかして話しているうちに、僕たちは校門をくぐっていた。
「それにしても、あの復讐鬼が人を好きになるなんて、ちょっと意外」
「もう僕は、復讐鬼でもなんでもないからね」
「それはそうだね。私のお陰でさっぱり更正しちゃったものね」
金峰さんは僕を揶揄い続けたが、全然、嫌ではなかった。
僕は笑いながら、空を見上げた。
「でも、何を目標に生きたらいいのか。何をしながら、生きればいいのか判らなくなちゃった。母が死んでから、僕は妹のためだけに生きていて、それが全てだったから」
「そんなの簡単でしょ」
僕の再び途方に暮れたような言葉に、金峰さんは口を尖らせた。
「妹のために生きられないなら、私のためだけに生きればいいじゃない」
「とんだマリー・アントワネットだね」
「だって、私が好きだってことは、そうしてくれるってことでしょ? それくらいしないと、金峰さんは落とせないぞー」
最後に金峰さんらしく冗談めかし、僕の肩に頭をぶつけてくる。
僕はややふらつきながら、「なんだよ」と笑い混じりに尋ねた。金峰さんは尚も、僕に向かって頭突きを仕掛けた。
「やめろって」
五回も六回も続けた頃、僕はとうとう堪らなくなって、金峰さんの頭を押さえつけた。
「ふふ、やめない」
金峰さんは尚も僕へと頭突きを見舞った。
僕は肩が痛くなって来たので、金峰さんを後ろから抱きすくめた。
金峰さんは子供のように笑いながら、僕の手を振りほどいた。
「このすけべ!」
「どう考えても、君が悪い」
「それはそうだけど、後ろから抱きしめるのはマナー違反でしょうが!」
僕の反撃に、金峰さんはやや口ごもったが、すぐに言葉を畳み掛けて来た。
「……今日はお墓参りなんだろ。なんでまた、君の方から誘うんだ」
僕は少しだけ焦れったくなって、本題に入った。
金峰さんは鞄を叩き、白い歯を唇の隙間から覗かせた。
「やっと、二人に相応しい絵が描けたから」
金峰さんはくるりと身体を回転させ、無言で僕の前を歩き始めた。
僕は金峰さんの姿を見つめながら、学校から徒歩十分の極楽寺を目指す。
校門をくぐった時だった。
田辺さんがいつかのように校門前に車を停めているのが見えた。
田辺さんは僕達を見ると、手を上げた。
「よう、デートか」
やや憔悴したような口調で田辺さんは僕達を揶揄った。
「違います! ノーサンキュー!」
金峰さんは、やや支離滅裂に否定した。
「残念ながら違います」
僕は慌てて否定しながら田辺さんに頭を下げた。
「田辺さん、僕……」
「判ってるよ、和馬。むしろ良かった。お前は許せちまったんだなあ」
田辺さんは唇を少しだけ緩め、目を薄く細めた。短い前髪が風になびき、そよそよと揺れた。田辺さんの身体は少しだけ小さくなったように見えた。
いや、元々から小さかったが、僕が今まで大きいように見ていただけなのかもしれない。
「ごめんなさい」
「何を謝る。最初から言ってるだろ、俺だけはお前の味方だ。例え、お前が俺と違う道を歩いてもな」
田辺さんは柔らかな口調で僕に告げた。
「二人とも、乗れよ」
「誘拐ですか?」
田辺さんのありがたい申し出に、金峰さんが疑り深そうに尋ねた。
「人の好意は素直に受け取れ」
田辺さんは本当に気を悪くしたのか、唇をへの字にした後、吐き捨てた。
「失礼しました」
金峰さんは本気で気に病んだらしく、すぐに頭を下げた。
「良いってことよ。さ、二人とも来い。今日は墓参りなんだろ?」
「聴いてたんですか?」
「聞こえたんだよ」
尚も少しばかり疑わしそうな金峰さんに、田辺さんは仏頂面で答えた。
「田辺さん、今日はパフェおごってくれるんですか?」
金峰さんは和ませるつもりなのか、弾んだ声で尋ねた。
「送ったらすぐに帰る。二人の邪魔しちゃ悪いし」
田辺さんは軽く流して、無表情に答えた。
金峰さんは車へと乗り込むと、「ふかふかですね」と、後部座席を褒めた。
僕は車へと乗り込み、金峰さんの横に座った。後部座席は確かにフカフカとしていた。
そう言えば、助手席にばかり載っていたから、後部座席から田辺さんを見るのは初めてかもしれない。
やっぱり、少しだけ小さく見える。
「和馬、質問したい。質問の答え次第では、もう俺はお前の前に現れないだろう」
田辺さんは一言一言をはっきりと紡いだ。
「なんでも質問してください」
僕は、なんとなく質問の内容を予想しながら、迎え撃つ。
「お前は、今後どんなことがあっても、お前の義母や父親を殺さないと言い切れるか?」
田辺さんの声は、険しく、刺すような冷たさに満ちる。
迷う暇もなかった。
「言い切れます」
心底から即答すると、田辺さんは車を発進させながら頷いた。
「じゃあ、俺とお前はここまでだな。楽しい数ヶ月だったよ。息子ができたような、悪友ができたような、親戚の悪ガキができたような、可笑しな日々だった」
田辺さんは僕を一度だけ振り返り、道路に入った。
「どこの寺だ?」
田辺さんが小さな声で尋ねた。
「極楽寺です」
「結構、近いな」
言いつつ、進路を変更し、田辺さんは信号待ちに入った。
「そうだ、お嬢ちゃんにも聴きたいことがあったんだ」
田辺さんが思い出したように言うと同時、金峰さんは小首を傾げた。
「嬢ちゃんにはどんな過去があったんだ? どうして、そこまで人を助けようと思える」
「人が人を助けるのに理由が要りますか」
田辺さんは本当に不思議そうに尋ね、金峰さんは澄まし顔で答えた。
「紋切り型な台詞を使えば誤魔化せると思っちゃいけないぜ。君が言ったような思想で人は動けないもんだ」
田辺さんも澄ました声で追及した。
「うーん、私は少しだけ他の人と違いますから」
少しだけ考えた後、金峰さんはやはり澄まして答えた。
「君の不可解な能力か。人を救うのは、力を持つ自分の義務だと言いたいのか?」
田辺さんは核心を突くように、言葉を放った。
金峰さんは少しだけ口の端を歪め、考え込むように目を閉じた。
「私にだって喪ったものがあります」
金峰さんは小さいが明瞭な声で答えた。
「私にだって取り戻したいものがあります」
金峰さんはバッグミラーを通して、田辺さんを睨みつけた。
「お二人と同じです。過去に縛られている。けれど、暖かい記憶と、優しい感触がまだ、この胸の中に、手の中に残っています。だから、私は他人が見失った暖かい記憶と、優しい感触を守るために生きるつもりです」
すぐに睨みつけるのを辞め、金峰さんは笑った。
「調べれば判ったことでしょうに、わざわざ直接に聴くなんて、優しいんですね、田辺さん」
「そんなんじゃねえよ。調べるのだってただじゃないってだけだ」
田辺さんは肩をすくめ、照れ隠しに嘯いた。
「照れ隠しですなー、うんうん、判りますよ。今のは嘘です」
「厄介だな、君は」
金峰さんが急にざっくばらんな口調になるのに、田辺さんは恥ずかしそうに顔を背ける。
二人の視線はバッグミラー越しに交わっていたが、すぐに逸らされた。
車が角を曲がり、滑らかに進路を変更した。
極楽寺への一本道へと入り込んだ車は、法定速度を守って比較的にゆっくりと走った。車輪がくるくると回る音と、エンジンが唸る音がする。
「随分と便利な体質なんだな、君のそれは」
「ふっふふ、羨ましいですか? でも、例え手に入れる方法があったとしても、そうすることはお勧めしません」
「なんで?」
「そりゃあ、色々と大変なのですよ。今はようやく切り分けができるようになりましたけれど、他人の心象風景が見えてしまうと、それが誰の物だったか判らなくなって、記憶が錯綜します。
頭がパンクしそうになります。
一番厄介なのは、他人の感覚が自分の物だったような気がする時。
そんな時、私は私を見失ってしまうのです。自我を保つために相当な訓練を積みました。
一時期、心身を喪失したこともあります。私の力を手に入れるとは、そういうことなんですよ」
「そんなに大変なのに、嬢ちゃんはどこまでも底抜けに明るいんだな」
田辺さんは眩しそうに金峰さんを振り返った。
「むむ、なんだか棘のある言いかたですね」
「棘なんかない。クッションみたいにフカフカで、滑らかだ」
金峰さんがまた睨むのに、田辺さんは外連味たっぷりに言い返した。
「田辺さん、どうして金峰さんの過去が知りたいのですか?」
僕は、田辺さんの後頭部を見つめながら尋ねた。
「敗北させられた人間の過去を知りたいのは当然の心の動きじゃないか」
田辺さんは少しだけ言いにくそうに解説した後、同意を求めるように僕をバックミラー越しに見詰めた。
僕は何となく納得できなくて、田辺さんの瞳を見詰め返した。
僕の心の動きを読み取ったのか、田辺さんは少しだけ口ごもった後、口を開く。
「和馬も大概、察しがいいな」
田辺さんは言葉を濁した後、続ける。
「嬢ちゃんとガキの頃の俺が会えたなら、俺も救ってくれたのかもなあ」
田辺さんは魂が抜けたような弱々しい声で呟いた後、ヘラリと笑った。
「なんてな」
直ぐに肩をすくめ、田辺さんは運転に集中した。
「まだ、救いが必要なら、いつかお手伝いします」
金峰さんは柔らかな口調で、田辺さんへと言葉を届けた後、微笑んだ。
「ありがとな、嬢ちゃん」
バックミラー越しの田辺さんの瞳が潤んでいたのは、僕の気のせいだっただろうか。
車は、やがて極楽寺に停まった。
田辺さんは何も言わずに、車の後部扉を開いた。
僕は鞄から、紙袋を取り出し、田辺さんの座る運転席に向かった。
田辺さんは僕が差し出した紙袋を受け取り、微笑んだ。
「お前には、もう必要もないものだからな」
「お気持ちはすごく嬉しかったです」
「畏るなよ。お前の邪魔をしただけじゃないか」
田辺さんは硬質なグリップの感触を確かめるように紙袋を握りしめ、助手席へと投げた。
「じゃあな、和馬。もう会うこともないだろう。お前は天国に行けるだろうが、俺は地獄だ。現世ではもう会わないだろうから、本当に最後の別れだよ」
「また、いつでも会いましょう。僕だって、田辺さんを親同然に思っていますから」
「言葉だけでも嬉しいよ」
一言一言を丁寧に届けると、田辺さんも丁寧に返してくれた。
田辺さんは腕をヒラヒラと振り、車を発進させた。
僕らは視線を極楽寺へと向け、歩き出した。
門を潜ると、金峰さんはちょっとしょげたように肩を落とした。
「無神経だったかな」
「田辺さんはあんなことで本当に傷ついたりはしない」
僕は金峰さんの、やや落ち込んだ声に首を振った。
「励ましてくれてるの?」
「事実を言っているだけ」
「優しくするなら、もっと優しくしろよー。私のこと好きなんだろー」
「いつもの金峰さんに戻って嬉しいよ」
いつものようにじゃれついてくる金峰さんの頭を僕は軽く弾いた。
「あだっ!」
おでこを指で弾くと金峰さんは抗議するように声を上げた。
「頭、硬い」
金峰さんのおでこもやや赤くなっていたが、僕の指先の赤さはかなりのものだった。
「うー、馬鹿にしてえ。どうせ、私は地蔵頭ですよ」
「地蔵って、別に。頭蓋骨が厚いだけだろ。石でできているわけじゃない」
「ますます馬鹿にしてるでしょーが!」
金峰さんは僕の胸に飛び込むと、両拳でみぞおちの辺りを殴り始めた。
「やめて、金峰さん、地味に痛い」
「馬鹿にして、馬鹿にして、馬鹿にして!」
金峰さんは僕が制止したにも関わらず、尚も殴り続けた。
「あとで、パフェ奢るから、お願いだからやめて」
弱いパンチでも、連続で鳩尾を的確に狙われるとしんどくなってくる。
僕は、金峰さんの両手を掴みながら提案した。
金峰さんは急に顔を赤くして、さっと離れた。
「須藤君、食べ物をちらつかせれば、私をコントロールできると思っているでしょう?」
「じゃあ、要らないんだ?」
僕は両手を離して、水場に向かった。
「意地悪するなよー。パフェは奢ってよー」
「これから、お金さえあれば、金峰さんには美味しいものを沢山ご馳走するつもりだよ。ま、お金があれば、だけどね」
袖を引っ張る金峰さんへと、僕は笑いかけた。
「そんなに贅沢は申しません。それに、須藤君とお話しできるだけでも、あたしゃ嬉しいですよ」
金峰さんはすぐに胸を張り首を振った。
「金峰さん、ありがとう」
僕は顔を見られないように、水汲み場の桶を広い、柄杓を手に取った。
2
静かな風が暮石の間を吹き抜け、墓を囲む草原を揺らしていた。
空は抜けるように青く、鷹が一羽、飛び回っていた。
墓は太陽の光を受けて黄色を帯び、陽炎に揺らいでいた。
空気は澄んでいて、一息を吸うたびに肺がひんやりと冷えていくのが判る。
対照的に、太陽はほのかに顔へと熱をくれる。
苔の蒸した道の半ばに、須藤家の墓があった。
墓石に水をかけ、手を合わせた。
墓はやっぱりひび割れていたが、僕が連日訪れていたので、あまり汚れてはいない。
僕と金峰さんは手を合わせ終わると、目を開けた。
「さて、じゃあ、絵をお供えしよう」
鞄から絵を引っ張り出し、金峰さんは墓の上に、一枚の額縁を置いた。
僕は釘付けになった。
灰色の雪が降り積もっていた荒野は金色の雨に洗い流され、天空から舞い降りる光に燦然と煌めいている。
十字架を背負っていた僕の背中には、天使の翼を背中に付けた綺麗な女の子がしなだれかかっている。
女の子は微笑み、僕を光の翼で包み込んでいた。
翼は透明で、金色の光を反射し、なお一層に輝いていた。
僕の心がそのまま、生き写され、金峰さんの手によって彩られた一枚の絵。
どこまでも澄んでいて、荘厳で、優しい絵。
せっかく隠した涙が瞳から溢れ出して、頰を濡らした。
僕は絵の前で膝を突き、泣き噦(じゃく)った。
金峰さんは、僕の肩に手を置いて、笑った。
「お供えした絵のタイトルはね『金色の雨は鎮魂歌を歌う。灰色の雪は音色に溶ける。』だよ!』
今日は僕の新たなスタート。
僕は今日のこの日を忘れないだろう
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