羊飼いの毎日

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羊飼いの毎日

「いい?書いたらちゃんと見直すのよ。大事な書類なんだから」  言いながら教壇を降りた。  いっせいに書類に向かう生徒たちの手元を眺めながら、机と机の間を歩く。 「大学に入ったら、みんな自己責任なんですからね。提出物はちゃんと自分で確認しないと、ひどいときには単位を落として留年ってことになったりするんだから」  卒業式を明日に控えた三年生のホームルームだった。  私、綾辻結香(あやつじ ゆうか)は教師二年目の24歳、このクラスの副担任を任されている。担任の教師が教育委員会の用事で不在のため、今日のこの時間は、私が代理で担当していた。  いっせいにペンが走る音を聞きながら、ゆっくりと教室を一周した。すでに書き終えた生徒もいるようで、言われたとおり内容を読み返している。  二年間、古文の授業をうけもったこともあって、このクラスのことはだいたいわかっている。さすがに良家の子女の集う有名校だけあって、生徒はみんな大人しくて真面目だ。そう言う意味では、この学校の教師になれてよかったと思う。ここには、代わり映えはしなくても穏やかな毎日がある。マスコミ志望の多かった大学時代の友人には、テレビ局や雑誌社で働く子もいる。めまぐるしく変わる華やかな日々や、ちりばめられたロマンスの話を聞くと羨ましくも感じるけれど、仕事はきつそうだし、なによりずっと先の将来を考えれば、今のこの仕事こそが正しい選択だったのだと思っている。  教室を回り終え窓際に体を向けたとき、ひとりの生徒に目が止まった。その生徒は、早々に書類を書き終わり、頬杖をついた姿勢で視線をこちらに向けている。  また見ている、と思った。  その生徒は、名前を池宮蓮(いけみや れん)という。面長の顔立ちに切れ長の瞳。物静かで落ち着いた雰囲気は、この学年の男子生徒の中でも飛び抜けて大人っぽい。群れて騒ぐのは苦手らしく、教室にいても、いつも一歩下がった位置からみんなを見ている印象の子だ。  女の子たちの話では、気軽に話しかけづらい雰囲気のせいであまり話題には上らないが、密かに思いを寄せる子も多いという。  そんな話ももっともだと思う。たしかに彼は、高校生とは思えないような雰囲気と、女性なら思わず覗き込みたくなるような影の部分を持っている。  私だって……、ふとそう思ってしまう。  もしあの賭けに負けていたらどうしただろう。  あの夜、彼との間で交わした賭けに  池宮君は、私が気づいても視線をそらさず、じっとこちらを見つめていた。胸がざわめくのを感じる。それとなく目をそらそうとしたけど、まっすぐな視線が気になってそらすことができない。  そろそろ周りの生徒たちも書類の確認を終え、教室全体がざわめき始めていた。  私は思いきって、クルリと彼に背を向けた。 「さぁ、もういい?確認が終わったら、一番後ろの子が集めて」  わざと大きな声を出した。  胸の鼓動が高鳴ってる。 『本当の先生は、もっと刺激を求めてる』  ふとそんな言葉を思い出してしまう。 『ぬるま湯のような学校の、羊飼いみたいな毎日じゃ手に入らないような刺激をね』  どうしてだろう。  ただ見つめられただけで、こんな気分になるなんて。  いくら、彼との間に、あんなことがあったとしても……
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