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これが始まりなら
「そっちは行かない方がいいよ」
キングサイズのベッドの上で、体をずらそうとした私に蓮くんが言った。
「え?」
聞き返す間もなく、ずらしたお尻に濡れたシーツが触れた。慌てて体を引っ込める。
「かなり激しく濡らしたからね。結香が」
意地悪く笑っている。
「あなたがそうさせたんじゃない」
拗ねた口調で言った。
すると、蓮くんの手が伸び、引き寄せられる。
「ゃん……」
甘えた声を上げて腕の中に収まる。
「素敵だったよ」
甘いささやきに、
「知らない」
胸板に頬を寄せて、薄く瞳を閉じた。
時計はすでに深夜の二時を回っている。あのあと、小さな休憩を挟んですでに二回、私は蓮くんに抱かれていた。長く激しい行為の余韻が、甘い疼きとなって今も私の中に残っている。
蓮くんは少しの間、柔らかなタッチで背中を撫でてくれた。
そして言った。
「結香って、本当にダーツを投げたことがなかったの?」
「あの、最初に賭けをした日のこと?」
うっとりと私は言った。
触れあう肌と肌、背筋を伝う彼の指が気持ちいい。
「そう」
「初めて。ダーツなんて触ったこともなかったもの」
「そっか」
「そうは見えなかった?」
彼の胸から顔を上げて、チラリと見た。
「わからない。ぎこちなく見えたけど、でも……」
「でも?」
「綺麗だと思った。結香の周りの張り詰めた空気が。今日だって同じだよ。結香って持ってるのかもね」
「そう?」
「ああ、絶対だよ。あの店に来て競えばもっと上手くなる。次はちゃんとしたゲームをしたいな。それに、伊勢さんにも紹介したいし」
「伊勢さんにだけ?」
「え?」
「満里奈さんには?」
「もちろん紹介するさ」
「どう紹介するの?僕の学校の先生って?それともまた、お姉さんって?」
意地悪く言うと、
「どういう意味だよ」
「嘘ついたでしょ」
「何が?」
「満里奈さんとのこと。そんな関係じゃないって」
触れあう肌を通じて、彼の体が強張るのがわかった。なにも答えようとはしない。それはつまり、認めたということだ。
「これで終わりならいいわ。もうなにも聞かない。でも、もしこれが始まりならちゃんと教えて欲しいの。その満里奈さんって人のことを」
「どうしてそう思うの?何の根拠があって……」
「根拠なんてない。女の勘よ」
「そっか、鋭いんだ」
蓮くんはひっそりと笑った。
「いまもつき合ってるの?」
「誰が?」
「あなたと満里奈さん。決まってるじゃない」
「つき合ってなんかいないよ。ていうか、つき合ったことなんかない。あの人が好きなのは伊勢さんなんだ。誰の入り込める隙間もない。出会った当時からそうさ。ずっと変わらない」
「でも、そういう関係なのよね?」
「まあね」と彼はうなずいた。「正直に言うよ。僕に女の人を教えてくれたのは彼女さ。ただ、僕らは愛し合ってたわけじゃない。そうなろうとしたけど、できなかった。僕も苦しかったけど、彼女も辛かったと思うよ。年齢とかそういうことじゃなくて、伊勢さんへの想いを断ち切ることができなかったんだ」
「ふたりはつき合ってるの?」
「伊勢さんと、満里奈さん?」
「うん」
「昔つき合ってたとは聞いてるけど、いまは分からない。わかってるのは、互いが互いにとって特別な存在だってことだよ。なのに素直にひとつになれずに苦しんでる。満里奈さんだけじゃなくて、たぶん伊勢さんもね」
「複雑なんだ」
「だね。上手く言えないけど、僕はあの人を慰めてあげたんだと思ってる。ただ、もうしないよ。結香とのことがなくても、そうしようと思ってた。卒業はいい区切りだし、こんなこと、僕だけじゃなくて彼女にとってもいいことじゃないと思うから」
「そう」
「これでいい?」
口調を甘くして蓮くんは言った。
くっついた体を離して、顔をのぞき込んでくる。
「もうひとつだけ、聞いていい?」
キスの予感を押しとどめるように、私は言った。
「なに?」
「私は満里奈さんの代わりなの?」
私が言うと、蓮くんは驚いた顔をした。
「違うよ。どうしてそんなことを言うのさ」
「だってそう思うじゃない」
漠然と胸の奥にあった憂いは、一度言葉にしてしまうと切なさに変わる。それは瞬く間に大きな悲しさとなって、私を包み込む。
「結香は結香だよ。誰の代わりでもない。僕は一人の女性として貴女を好きになったんだ」
瞳が潤んでしまう。
この瞬間、私は、自分がもはや後戻りできないことに気づいた。
私は、この人が好きだ。
「蓮……」
潤んだ声で名前を呼ぶと、蓮くんは優しく髪を撫でてくれた。
「結香、好きだよ。愛してる」
「私もよ。蓮」
そう告げて、唇を求めた。
ふたりは、絡まるように抱き合いながら熱いキスをした。
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