教えてくれた人

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教えてくれた人

 進路指導室で池宮君と分かれたあと、私は、職員室で彼に関する資料を当たってみた。  彼の父親は脚本家だった。名前だけならば聞いた覚えがある。テレビドラマのほか映画の脚本も手がけていて、それなりに名の知れた脚本家らしい。  一方、母親は、彼が中等部一年の時に亡くなっていた。その影響か、彼には、中等部二年の初め頃から素行に問題のある時期があった。教師への反抗的な態度や無断欠席が相次ぎ、担任の教師が父親と面談をした記録が残っている。しかし、面談の内容はありきたりで、あまり身のある会話がなされたわけではないようだった。そうこうするうちに彼の反抗的な態度は落ち着きを見せはじめ、逆に中等部三年以降はほとんど表に出ない生徒になっていった。  成績は優秀なのだが、部活には入らず、生徒会や学校行事でも目だった活動を行った形跡がない。担任が書く彼の人物評もかなり書きづらかったようで、落ち着いた分別のある子という程度であまり踏み込んだ記載は残されていない。  実際、私自身も、彼とは会話を交わした憶えがなかった。私は、特に副担任を任されているクラスについては、出来るだけいろいろな子と会話をするように気がけてきた。池宮くんに対しても、一度は私から声をかけているはずだ。しかし、いつどんな話をしたのか思い出すことができない。きっとそれくらい上辺だけのやりとりだったということだ。  そんな彼ではあったが、けっして存在感が薄い生徒というわけではない。むしろクラスの中では不思議な存在感を感じさせる。それは、ひとつには涼しげで整った顔立ちのせいであり、加えて物静かながら、飛び抜けて大人びた雰囲気が異彩を放っているからだろう。クラスの男子たちは、誰もが彼には一目置いているように見えたし、女子たちは、絶えず彼の存在を意識しているように見えた。 -----  次の土曜の夜、そうした池宮君に関する知識を思い起こしながら、私は、ふたたびあのダーツバーの扉を開けた。少し遅めの時間にしたこともあって、店内はすでにたくさんの人で賑わっている。  池宮君はすぐに見つけることができた。一番奥のダーツマシンに向かって、女性とふたりでゲームに興じている。  私は、少し離れた場所に立ち、ふたりのゲームが終わるのを待った。そしてゲームが終わり、テーブルに戻ろうとする彼の前に無言で立ちはだかった。  彼は少しも驚いた様子もなく、立ち止まって私を見た。まるで、今日私が来ることなどお見通しだという顔をしている。 「ごめん、先行ってて」  彼は、一緒にゲームをしていた女性に言った。年齢は私と同じか少し下くらい。きれいに体のラインの出るニットのワンピースを身につけている。 「誰?」  彼女は、私を見て露骨に顔をしかめた。  視線が足下から上がってくる。いま私が身につけているのは、何の面白みもない黒のスーツだった。化粧も控えめで、普段学校に行く時と同じだ。生徒を連れ戻しに来たのだから当然と言えば当然だが、あきらかにこの店の雰囲気からは浮いている。 「俺の姉さん」  サラリと彼は言った。  ニットワンピの女性は一瞬驚いた顔をしたが、その後疑わしそうに私と彼とを見比べた。 「本当なの?」 「ああ、話があるみたいだから。悪いね」  彼女は小さくうなずいたあと、迷惑そうに私を見ながらテーブルへと去っていった。 「で、何の用なの?お姉さん」  その人を食った台詞が腹立たしくて、私は強い視線で彼を見た。 「どういうつもり?」 「どういうつもりって?」  言いかけたとき、ふたりの脇を邪魔そうにして人が通り抜けた。 「ここ、邪魔になるから座らない?」  池宮君は、空いたテーブルを視線で指した。 「話はあと。とにかくここを出るわよ」 「なんで出なきゃいけないのさ」 「なんでって……、当たり前でしょ」  険しい顔をして言うと、彼は穏やかに笑った。 「これだと押し問答になるよね。だから言ったんだけどな。邪魔になるからまずは座ろうって。話はそれから聞くよ」  そう言い終えると、私の脇を通って常連の集まるテーブルに向かおうとした。 「どこに行くの?」  慌てて言った。 「ドリンク取ってくる。先に座ってて」  私はしかたなく、近くの空いたテーブルに腰を下ろした。  池宮君はグラスを手に戻ると、私の前に腰を下ろした。 「飲んでみて」  彼は自分のグラスを私の前に置いた。  意味が分からず顔を見る。 「ジンジャーエール」  言われて口をつけてみた。たしかに、ただのジンジャーエールだ。 「お酒を飲んでるわけじゃない。ダーツをしに来てるだけさ。それのどこが問題なの?」 「問題はこの場所」グラスを戻しながら言った。「お酒を飲んでる飲んでないの問題じゃないわ。ダーツなら他でもできるじゃない」 「他でも?」彼は小さく笑った。「投げるだけならね。ただ、そんなの川に石を投げてるのと一緒さ。なんの意味もない。ダーツっていうのはメンタルなスポーツなんだ。相手がいなければ意味がない。それも競い合うだけの価値のある相手がね」 「そうだとしても、ここが盛り場であることには変わりはない。まだ高校生のあなたが、こんな場所に出入りしていいわけがないでしょう。これが学校側に知れたら停学よ。大学の推薦だって白紙に戻ってしまう。それでもいいの?」 「べつに」こともなげに彼は言った。「ダーツをすることくらいでダメになるなら、それで構わないけどね」  顔をしかめて彼を見た。この子がなにを考えているのかが分からなかった。意地になっているようにも思えるし、私を挑発しているようにも思える。いずれにしても、すぐにここから連れ出そうとしても上手くいかないことは確かなようだ。  私は攻め口を変えてみることにした。  一度視線を外し、常連の人たちが座るテーブルを見る。 「さっきの人が満里奈さんって人?」  聞いてみた。  すると、 「違うよ」サラリと彼は言った。「満里奈さんは、常連の女性でも断トツの存在なんだ。男を合わせても、ここで勝てる人なんか一人しかいない。言っちゃ悪いけど、さっきの女性とはあらゆる面でレベルが違う人だよ」 「そう」とうなずいて、表情を伺った。 「その人とはどういう関係?」 「なにも知らない僕に『教えてくれた人』かな」  意味深なイントネーションに眉をひそめると、「ダーツをね」と付け足して笑った。 「彼女とのことは原田さんがなにか言ってたみたいだけど、僕と満里奈さんはそんなおかしな関係じゃない。原田さんは彼女に気があるんだ。ここの常連ならみんな知ってる。なのに、まったく相手にされてないこともね。あの日もゲームに誘ったのに断られて、そのあと僕とふたりで帰ったのが気に入らなかったんじゃないかな。ずいぶんひどいことを言ってたみたいだけど」  原田さんとは、あの髭の男のことのようだ。 「もうひとりの人から聞いたんだ」  私は聞いた。 「もうひとり?」 「先週いた、サングラスをかけた人」 「まあね。彼、伊勢さんって言うんだ。ここのナンバーワンさ。満里奈さんも彼だけにはかなわない」  友だちは、ここの常連にはとても上手な人がいると言っていた。きっとその人のことなのだろう。 「その人、あなたを、ここで五本の指に入るくらいの腕だって言ってたけど、本当なの?」 「五本はお世辞だよ。十本ならともかく」 「それでもたいしたものなんでしょ。このお店はレベルが高いって聞いたけど」 「まだまだださ。ぜんぜん満足してない」  人を食った彼の口調が、急に真面目になる。真剣にダーツをしていることだけは、本当のことのようだ。 「この店に来てどれくらいになるの?」  さらに尋ねると、彼は、上目づかいに笑った。 「これって、事情聴取?」 「べつに、そんなつもりないわ。ただ、なにも知らずにダメだとだけ言えないでしょ」 「それもそうか」  小さく彼は笑った。
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