警鐘

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警鐘

 池宮君は、一年半前、彼がこの店に来るようになった経緯を話し始めた。  彼がダーツを始めたのはその時からさらに一年前、高等部一年の春のことだった。始めるやいなやとんとん拍子に腕が上がり、大会では、上位の人が相手でも競り合えるくらいの腕になっていた。そんな彼は、なかば道場破りのような気分でこのバーを訪れた。有名なこの店の常連が相手でも、一泡吹かせてやれると思っていたのだそうだ。そして、そのとき相手をしてくれたのが満里奈さんだった。池宮君の言葉を借りれば、身の程知らずの挑発的な態度だった彼を、満里奈さんは完膚無きまでに打ちのめしたらしい。ぐうの音も出ないくらいの完敗だった。そして、ゲームが終わったあと、打ちひしがれた池宮君に彼女は言った。 「君って、なにも分かってないのね」と。  その日以降、池宮君はこの店に入り浸り、本気でダーツにのめり込んでいくようになった。彼は、その間の出来事についても、いくつか話をしてくれた。そうして話が進むに従い、しだいに刺々しかった池宮君の雰囲気が柔らかく変わっていく。私も、そんな彼の話に知らず知らず引き込まれていった。  本当はこんな場所で話などせず、早く彼を連れて店を出るべきだと分かっていた。でも、池宮君と話をしていると、ふとこの子が生徒であることを忘れてしまう。それはきっと、彼が、普段接している生徒たちとは、まったく違った雰囲気を持っているからだろう。彼は、当たり前ようにこの店の空気に溶け込んでいて、なんの違和感もない。そればかりか、こうして店の片隅のテーブルで顔を寄せ合って話をしていると、危なく思えるくらい心地よく感じてしまう。 「先生ってさ」  話がひと区切りつくと、彼が言った。 「なに?」 「こんなだとは思わなかったな」 「どんなふうに思ってたの?」 「もっと真面目くさって、つまらない女だと思ってた」  彼が使った『女』という言葉に、私はドキッとしてしまった。  単なる言葉の綾かもしれない。でも、つまらない『人』ではなく、つまらない『女』と呼んだことは、彼が私をひとりの女として見ていたのだと告げられた気がして、心がざわめいてしまう。 「真面目よ。それに、つまらない女だわ」  どこか甘えた口調になってしまった。そのことが、いっそう私を戸惑わせた。 「違うよ」 「はっきり言うのね。じゃあ、どういう女だと思うの?」 「さぁ、わからない。簡単にわかる女なんてつまらない女さ。ただ、ひとつだけわかることがある」  言葉を止めて私を見た。 「わかること?」  引き込まれるように問い返した。 「そんな真面目くさったふりをした自分に、飽き飽きしてるってことかな」 「どうしてそう言い切れるの?」 「わかるからさ。こうしてふたりで話してるとね。本当の先生はもっと刺激を求めてる。あんなぬるま湯のような学校の、羊飼いみたいな毎日じゃ手に入らないような刺激をね。そしてそんな刺激さえあれば、貴女はもっと綺麗になる」 「上手いのね」と笑った。「こういう会話も、彼女に教えてもらったんだ」  探るように言うと、彼は苦笑いを浮かべた。 「ずるいな。誘導尋問?」 「そう思うのは、誘導される先に心あたりがあるからじゃない?」 「意外と意地悪なんだ」  不意に彼の手が伸び、私の手の甲に触れた。その瞬間、まるで心臓を掴まれたかのように強く胸が高鳴った。  私は、すっかり彼とのやりとりに酔っていた。心の中で警鐘が鳴り響いている。引き返すなら今しかない。ここを逃したら、私はきっと戻れなくなる。  私は手の甲に重ねられた池宮君の手を、強く握りかえした。 「さぁ、もうここまで」  振り切るように言うと、強い視線で彼を見た。  一瞬、彼は驚いた顔をした。続いて、いまにも舌打ちしそうな表情を浮かべた。  この子はきっと、ダーツでミスをしたときもこんな表情を浮かべるのかもしれない。そう私は思った。 「帰るわよ」  握った手を引いてテーブルを立った。  しかし彼はそれに応じることなく、座ったまま私を見上げている。 「どうしても僕を連れて帰る気?」 「当然でしょ」 「じゃあこういうのはどう?簡単なゲームをしよう。先生が勝てばこのまま帰る」 「ゲーム?」 「そう、とても簡単なゲームさ。ダーツは投げたこともないって言ってたよね?」  私はうなずいた。 「ならこうしようか。先生が投げて、トリプルリングの内側に入れば先生の勝ち。入らなければ僕の勝ちさ。トリプルリングはわかる?ボードに二つある円の内、内側の円だよ。ただし、投げるのは一回だけ」  そのゲームがどれほどの難しさなのか、投げたことのない私には分からなかった。ただ、いくら初心者の私でも、内側の円に入れるだけならなんとかなりそうな気がする。 「池宮君が勝ったら?」 「そうだなぁ、キスしてもらおうかな。頬でいいから」 「そんな賭けに私が乗ると思ってるの?」 「いいじゃない、負けたところで。頬にキスするくらい」  言われてダーツマシンの上のボードを見た。  簡単そうに見えて、それが罠かもしれない。そもそも、負けると分かっている賭けなら、彼のほうから仕掛けてきたりはしないだろう。それに、負けたら帰るということは、負けなければ帰らないということにも繋がる。頭のいいこの子のことだ、それくらいのことは考えているはずだ。  本当なら、こんなふざけたゲームなど受けるはずなどない。彼が帰らないと言うのなら、他の先生の応援を呼んででも連れ帰るべきだと思う。しかし、私はそんなことをしたくはなかった。  彼との会話で感じた昂ぶりが、まだ心を揺らしている。 『本当の先生は、もっと刺激を求めてる』  そうかもしれないと思った。  もしこれが罠だとしたら、それを逆手に取るだけのことだ。 「受けてもいいけど、条件を変えさせてもらえない?」  ボードから視線を戻して言った。 「変えるって?」 「もし私が勝ったら、卒業するまでの三ヶ月間、ここには出入りしないって約束して」  すると彼は、戯けた表情で口もとをゆがめた。 「三ヶ月は長いなぁ。一ヶ月じゃダメ?」 「負けるのが怖い?」  クスリと笑って見せると、彼は意外そうな顔をした。  直後にその表情は嬉しそうに変わった。 「わかったよ。僕が負けたら卒業までここには来ない。ただし、先生が負けたらキスはちゃんと唇にしてもらうよ。気持ちのこもったちゃんとしたキスをね。どう?それでも受けられる?」  一瞬、言葉に詰まった。 「ここで逃げるようなつまらない女じゃないよね?」  彼の視線に射貫かれて、ゾクリと背筋が震えるのを感じた。 「いいわ」  私はそう答えていた。
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