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卒業式
卒業式は、早春らしい風の強い日だった。
来賓の方々の対応を任された私は、早朝からずっと忙しくしていた。控え室と校長室、そして体育館の間を何度も行き来したこともあって、式が終わるころにはさすがにぐったりだ。それでも無事に役目を終え、顧問をしている茶道部の部室に顔を出そうと、教室の前の廊下を歩いていたときだった。
「綾辻先生」
呼ばれて足を止めた。
声をかけてきたのは池宮君だった。
式を終えたあとの生徒たちがはしゃいだ声を上げる中、彼は私のもとに近づいてきた。
「いろいろお世話になりました」
丁寧にお辞儀をされた。
「卒業おめでとう。大学に入っても気を抜かないようにね」
笑顔で答えた。
卒業を終えたあとの、ごくありきたりな生徒と教師の会話だ。
「忙しそうですね。ずっと挨拶をしたかったんだけど、声をかけづらくて」
「うん、下っ端はつらいの。でもやっと一段落。今から茶道部の卒業生のところに顔を出そうと思って」
「部室棟に行くんですか?」
「そうよ」
「なら行きませんか?僕もむこうに用があるから」
誘われて歩き始めた。ところどころに人の輪のできた廊下を抜け、階段へと向かう。階段下の通用口を出た先に部室棟がある。
階段に差し掛かると、周囲に人影が無いのを見計らって彼が口を開いた。
「ちゃんと約束は守ったからね」
「約束?」
「あれ以来、一度もあの店には行ってない」
「そう」と短く言った。
「ひょっとして、確かめに行った?」
「ううん」
「信じてくれてたんだ」
「賭けに負けた以上、約束を破るような男じゃないと思ったからよ」
彼を見ずに言った。
隣で笑う気配がした。
一階まで降り、通用口の前に来たところで、池宮君が不意に立ち止まった。
扉の隙間から強い春風が吹き込み、甲高い音を立てている。
私も立ち止まり、彼を見た。
今日、こうして話しかけられる予感はあった。あの教室での彼の視線に。
微かに胸の鼓動が高鳴るのを感じた。
「続きがしたいな」
彼が言った。
「続き?」
「そう、賭けの続き」
「今度はなにを賭けるつもり?」
「もっとずっと刺激的なもの」
「なんなの?」
小さく笑った。
とそのとき、階段の上から女子生徒の声がした。こちらに近づいてくる。
「次の土曜、待ってる」
短く彼は言った。
そして、私に答える間も与えず、ひとり今来た階段を上がっていった。
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