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インブル
次の土曜の夜、私はあのダーツバーの扉を開いた。
入り口に立ち、賑わう店内を見渡す。
ゲームをしている人の中に、池宮君の姿はなかった。さらにテーブル席を見て行くと、ひとりで座っている彼の姿が目に入った。こちらに背を向けた姿勢で頬杖をつき、並んだダーツマシンを眺めている。
私は背後から近づき、声をかけた。
「ここ、いい?」
彼は横目でチラリとこちらを見た。
「ごめん、人待ちなんだ」
素っ気ない口調で言うと、ふたたび前を向いてしまった。私だとわからなかったようだ。
「呼び出しておいて、ひどいな」
そう言ってやった。
するとふたたび振り向き、顔を見上げた。驚きの表情が浮かぶ。
「先生?」
小さく言ったあと、すぐに可笑しそうに笑った。
「誰かと思ったよ」
視線が服に落ちる。
私がいま身につけたカットソーは、胸元ギャザーのスリムなデザイン。タイトジャケットとの組み合わせでバストラインを強調したセクシー系のコーデだ。加えて、ルーズなチェーンベルトにストレッチの効いたタイトミニといった装いは、彼の予測を裏切る充分な効果があったようだ。
「私だって、場所はわきまえているつもりよ。今日は、あなたを連れ戻しに来たわけじゃないもの」
照れ隠しに素っ気なく言った。
近づいてきた店員の女性に、カシスソーダをオーダーして前の席に座る。
「髪、切ったんだ」
短くなった私の髪を見て、池宮君が言った。
セミロングだった髪は、前下がりのグラデーションボブに変わっている。
「卒業式が終わって一息ついたから」
顎のラインそって流れる髪に触れて言った。
「似合ってるね」
「ありがとう。でも少し切り過ぎたかなって思ってるの」
「そんなことないよ。前よりずっといい」
「ずっとっていうのは微妙ね」首をすくめた。
「どうして?」
「前はどうだったのって思うじゃない」
「気になる?僕に、どう見られていたのか」
「そういう意味じゃない」
拗ねた口調で言った。
こんなやりとり、他の生徒とだったら吹き出してしまうと思う。でも、相手が池宮君だと少しも違和感を感じない。そればかりかこうして話していると、少しずつ彼の世界に引き込まれていく感じがして、不思議な心地よさがある。
「卒業に乾杯する?」
届いたグラスを手に取り、持ち上げてみせた。
池宮君はうなずき、「乾杯」とグラスとグラスを合わせた。
その後少しの間、池宮君の入学する大学について話をした。
その大学は私の母校でもある。学部も同じ文学部だ。入学次に専攻は決まっておらず、二年に上がる際に分かれる仕組みになっている。私は国文科だったが、彼は心理学科に進みたいらしい。そちらに進んだ友人の話をしてあげると、興味深げに聞いていた。
「でも、なんとなく不思議な気分だな」
「なにが?」
「だって、サークルの後輩はまだ大学に残っているのに。自分の生徒があの子たちと机を並べて勉強するんだなって思って」
「もう生徒じゃないよ。卒業したんだから」
「生徒から後輩に昇格したってことね」
「そういうことかな。ただ今夜は、もうひとつ昇格したいと思ってるけどね」
「どういうこと?」
首を傾げた。
池宮君は薄く微笑んで、私を見ているだけだ。
「そういえば、言ってたよね。賭けの続きをしたいって。なにをするつもり?」
尋ねようとすると、
「待って」
彼は私を止めた。視線は少し先のダーツマシンに注がれている。
「太田さんだ」
振り向いて見ると、そこではふたりの男性のゲームが始まっていた。ひとりは以前に私が声をかけた伊勢さんという人だ。
「太田さんって?」
「伊勢さんの友だちで、いわゆるライバルってヤツかな。トーナメントではいつも勝った負けたを繰り返してる。今のランキングは伊勢さんのほうが上だけど、このところ二回続けて負けてる。ここにはめったに来ないんだけど、珍しいな」
とだけ言うと、池宮君はしばらくの間じっとふたりのゲームを見つめていた。真剣な視線だ。私も半身で振り返り、ふたりが交互に投げるのを見つめていた。
「空気があるよね」
不意に彼が言った。
「空気?」
「っていうか、雰囲気みたいなものかな。あの人たちってさ。ボードの前に立つと、周囲に自分の世界を作り出す」
「うん」と曖昧にうなずいた。
投げている姿は綺麗だと思うけれど、正直なところ私にはよく分からない。
「ああいう空気を感じるのは、ここでは、伊勢さん以外では満里奈さんだけさ。上手い人は他にもいるけど、上手いだけじゃない。ふたりは、思わず目を奪われるような、言葉にできない何かを持ってる」
彼はマシンから視線を戻すと、まっすぐに私を見た。
形のいい切れ長の瞳に見つめられ、トクンと胸が鳴った。
「センターコークって言ってさ。ダーツゲームの場合、最初に一本ずつダーツをセンターに投げ合うんだ」
見つめながら、言った。
「先攻後攻を決めるのよね」
「知ってるんだ」
「あれから少し勉強したの」
私が言うと、彼は小さく笑った。そして続けた。
「ダーツって、上手くなればなるほど先攻が有利なんだ。下手したらゲームそのものよりも、センターコークの一投のほうが重要じゃないのかって思うくらい、圧倒的にね。本当に強い人はこのコークが強い。スローイングラインに立った瞬間に自分の世界に作り出して、当たり前のようにインブルを決めてくる」
インブルというのは、ボードの中心にある一番小さな円にダーツを決めることを言う。直径およそ13mm。直径20mmの一円玉よりも小さい。ボードの正にまん真ん中の場所だ。
さらに、周囲の一回り大きな円ならばアウトブル。こちらはおよそ32mm。26.5mmの五百円玉よりふた回りほど大きい。
「この間、貴女の投げたコークはインブルギリギリのアウトブル。つまり次に僕が投げるとしたら、インブルを決めなきゃ勝てないって事さ」
「あれをセンターコークと考えればそうね。ただ、ブルに入ったのはまぐれだけど」
「まぐれじゃない。入れるべくして入れてきた。見ていればわかる。感じたんだ。貴女が作り出す空気のようなものを。僕はそれに見とれてた。そんな状態で僕がインブルを決められると思う?」
「買いかぶり過ぎよ」
笑って言った。でも、池宮君の表情は緩まない。私を見つめる瞳はとても魅惑的で、知らず笑みが凍りついてしまう。
「あのとき、僕は外すと思っていた。ボードにすら刺さるかどうかってね。でも貴女はブルに入れてきた。あの後ろ姿に僕は身震いしたんだ。心を奪われたみたいにね。あれ以来、三ヶ月間、ずっとひとりで投げてきた。自分の部屋で、貴女を想いながら」
「池宮君……」
「バカみたいだと思うけど、そうすることしかできなかった。何をしていても貴女のことが思い出されてしかたがなかった」
「生徒が教師を口説くつもり?」
「正直言うと最初はそう思ってた。口説くと言うより、口止めに誘惑してやろうってね。ただ今は違う。口説くならこんなストレートに言わないよ。それにもう、生徒でもなければ教師でもない。卒業したんだからね」
「そんなことを言っても……」
理屈はそうかもしれない。でも、そんなに簡単に割り切れるものではない。
「そう言うと思ったよ」
彼は笑った。けれどすぐに真面目な顔になった。
「今度は僕が投げる」
きっぱりと言った。
「投げるって?」
「賭けの続きさ。一投でインブルを決められれば僕の勝ち。いいよね?」
「賭けって、今度は何を賭けるつもり?」
「貴女」
短く言われ、
「私?」
驚いて聞き返した。
「そう、賭けるのは今夜の貴女」
まっすぐに私を見て、彼は言った。
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