第一章 二人の騎士

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第一章 二人の騎士

一  夕暮れの峠道。  山あいの斜面には、針葉樹の巨木が所狭しと屹立している。  金色の斜陽が梢の間を透過し、森の上に広がる茜色の空は、西からの夜に青ざめつつある。  日輪が山の彼方に姿を消すのも、もう間もなくのことだ。  木々が織りなす幾重もの夕陽のカーテンをくぐり抜け、少年は山林の小道を黙々と進む。  傷だらけの胸甲と、一振りの長剣を身に帯びた彼。  背中には大きなリュックサックと、鉄張りの丸盾を背負っている。  年の頃は十七、八。  一見、柔和な顔つきだが、その真摯な鳶色の目としっかりした眉は、内に秘めた闘志を感じさせる。  その彼が立ち止まった。  額に薄く滲んだ汗をぐいっと拭い去り、うんざりとつぶやく。 「ああ、今日も野宿か」  彼は巨木の間から空を仰いだ。  この山間の森が夜に呑まれるまで、まだ少し猶予があるようだ。    ……今のうちに野営の準備をしなくては。  辺りを見回すと、小道の脇に踏み均された小さな平地があり、その中心には煤けた石組みが残されている。  野営者が残した炉の跡だろう。  これまでに無数の旅人が、仮の宿としてきた場所に違いない。  彼は小さくため息を吐き、背中のリュックサックを炉端に下ろした。  ごそごそと野宿の準備を始めながら、ポケットから一枚の紙を取り出す。    何日か前、仕事を探して立ち寄った酒場の伝言板に貼ってあった紙だ。 「『盗賊団討伐への参加者求む。口の堅い武芸者歓迎。騎士団付託済み。大海月(メララン)一日、メノーテ村長記す』」  そこに書かれた共通語を小さく読み上げて、彼はふ、と小さな息をつく。  ……この紙は、王都ザグマルティアの酒場から剥がしてきたものだ。  ――騎士になりたい――  そんな思いを常に抱いてきた彼。  以前に勧められたとおり、ザグマルティアへ赴いた彼は、冒険者の『仕事』を探し求め、何軒もの酒場や情報屋を巡った。  それも、ただの仕事ではなく、騎士と繋がりのありそうな仕事を。  そして何日もかけてようやく出会えたのが、『騎士団付託済み』と素っ気なく書かれた、この貼り紙だった。  『大海月一日』と言えば、今日から七日前だ。  まだ募集はしているだろうが、急がなくては。  彼は懐に手を突っ込むと、大事にしまい込んだ財布を確かめた。  全財産を詰め込んだ財布は、まだしばらくは食いつなげるだけのお金が入ってはいる。  だが、それもいつまでもつか。  はやる気持ちを抑え込み、野営のための火を起こしかけた彼だったが、ふとその手を止めた。  異様な空気が周囲に漂う。  ……後ろに、何かいる。  腰の長剣に手を掛けて、ほんの少し重心低く構えた彼は、ゆっくりと振り向いた。    石組みの向こう側に、何か小さな人影が立っている。  身の丈は彼の半分もない。  二本の足で立つ、子供のような姿だ。  一瞬、安堵とともに剣を離しかけた彼だった。  が、その小さな姿を二度見した彼は、思わず声を上げて剣を取り直した。 「わっ!?」  確かに、石組みをごそごそ探る人影は、一見幼児のようだ。  が、そのたまねぎにも似た頭には顔がない。  体も着衣はなく、全身は紫がかった茶色一色。  どう見ても人とは違うが、人と似通ったのっぺりとした塊のような姿は、よけいに気色が悪い。  彼の頓狂な叫びに、この顔のない生物ははっと身を起こした。  そして指のない両手を頭上に翳し、くわっと石組みを飛び越えて、彼の頭上に迫る。  だが彼は動じない。  使い慣れた剣をするりと抜き払うと、生物の描く弧を先読みし、剣を一閃する。  彼の素朴な長剣は、過たずに生物を受け止め、この奇妙な生き物をぽてっと石組みの真ん中に叩き落した。  消し炭が残る炉に落ちた生物は、またも彼に跳びかかろうと、短く関節のない足をたわめた。  だが彼はそれより早く、手にした剣を生物の脳天に打ち下ろす。  鋼の刃は精確に生物の正中線を捉え、いとも容易く真っ二つに切り裂いた。  切り口からは、ぽっと紫色っぽい煙が立ち昇る。  ほとんど何の手応えも伝えないまま、この奇妙な生物は左右に断ち裂かれ、炉の中に転がった。  もうぴくりとも動かない。  あまりのあっけなさに、彼は茫然と立ち尽くす。  ……一体何なんだ?  しかし、すぐに気を取り直した彼は、剣を手にしたまま、二つになって横たわる小さな生き物に顔を近づけた。  この山中に踏み入るのも初めてなら、こんな生物を目撃したのも初めてだ。  と、彼は気が付いた。奇妙な生き物の断面から、空腹を刺激するいい匂いが漂ってくる。  焼きたてのパンのような、胃に突き刺さる香ばしい匂い。  くんくんと鼻を鳴らした彼の腹が、ぐるぐる騒ぐ。  どうしたものか、しばし逡巡した彼だった。  が、日没まであと幾らもない。  彼はすぐに生き物を石組みの外につかみ出し、炉の中に火を起こした。  木立の奥からは、夜歩く狼や鳥の鳴き声が微かに響いてくる。  彼は遠くの鳥獣には構うことなく、炉の脇に転がるあの生き物の残骸に目を移す。  哀れにも左右に泣き別れの生き物だが、その乾いた断面からは内臓はおろか、一滴の体液も流れ出していない。  たぶん、植物性の生き物なのだろう。 「どうしようかな」  つぶやきはしたものの、心はもう決まっている。  彼は地面のリュックサックからナイフを取り出し、紫がかった生物の表皮に突き立てた。  切り口からは、えもいわれない馥郁たる香りが立ち昇る。  ひと刺しごとに漂ういい匂いに取り付かれ、彼は夢中で生き物を解体する。  程なく、彼はダイス状の肉片を小枝に突き刺し、赤く燃える火で炙り始めた。  しゅうしゅうと音を立てる串焼きからは、実に芳しい匂いが漂う。  彼は唾の溢れる口許をぐいっと拭いながら、焼き上がった串を一本取った。  そして、大きな口でかぶりつこうとした時、不意に滑らかな共通語が飛んできた。  低いながらも、凛と響く少女の声だ。 「あんた、それ本気で食べるつもり?」  彼が顔を上げて声の主を追うと、暗い小道の只中に誰か立っている。  と、思う間もなく、その人物は、彼が陣取る炉端の方へとつかつか歩み寄ってくる。 「知ってる匂いがしたから来てみたけど、何やってるんだか。全く」  ふんと鼻を鳴らしつ、炎の暈の中で立ち止まったその姿を見て、彼は目を丸くした。  赤々と燃える炉の向こう側に立つのは、身の丈十歳ほどの、実に小さな少女だ。  前髪までひっ詰めたポニーテールに結い上げていて、秀でた額が炎を照り返す。  半袖半ズボンの活発な旅装から覗く腕や太ももは、むっちり、というよりがっちりと言う方がふさわしい。  そして何より目立つのは、愛嬌のある丸顔に光る大きな丸眼鏡。  蔓の部分には、いびつな半月を思わせる金属の埃よけが付いている。  この奇妙な少女は、背中の大きなバックパックをよっ、と背負い直した。  この少女を後ろから見たら、バックパックから手足が生えているように映ることだろう。  その眼鏡の少女が、彼とさして違わない年齢を感じさせる声で言い放った。 「見せてみなさいよ」  彼の返事を待たず、少女が火の周りに立つ串焼きを一本取った。  そしてくんくんと鼻を鳴らして匂いを嗅ぐと、大きなため息をついた。 「やっぱり。あんた、これが何だか知ってるの?」 「いや知らない。襲ってきたけど、美味そうな匂いがするから、晩飯にしようと思って」  彼が正直に答えると、この少女は眉根を寄せて、二つ目のため息をついた。 「あんた冒険者? 仕留めた獲物を食べるのは生存術の基本だし、確かに合理的だわよ。でも何でもかんでも食べればいいってワケじゃないのよ、全く」 「えっ? じゃあこれ、食えないのか?」  彼は手にした串焼きと、少女の顔を何度も見比べる。  小さな体躯に、年頃の少女の声。  たぶん異人種だろう。  しかし目下の問題は、この少女よりも晩飯の方だ。  この美味そうな串焼きが食べられないなんて……。  手にした串焼きに恨みの視線を落とす彼。  そんな少年に、少女が冷淡に追い打ちを掛ける。 「あんた、少しはおかしいと思わないの? こんなキノコからパンの匂いがするなんて、普通に考えたらあり得ないでしょ。ちょっとは考えなさいよ」 「じゃあこいつは、本当は何なんだ?」  無念の滲みすぎる口調で彼が聞くと、少女も手にした串焼きを観察しながら答える。 「これは“ヨアルキタケ”の一種だわ。この大きさから推定すると、まだかなり若い個体だわね」  少女がレンズの奥の瞳を彼に向ける。 「頭は玉ねぎみたいだった?」 「確かにそんな感じだ。最初は子供かと思ったよ」 「それなら、これは“サマヨイタケ”だわね。こんなの食べたら、脳にカビが生えるわよ、全く」 「は? カビ?」  聞き返した彼に、少女はうなずきもせず、言葉を投げてくる。 「正しくは菌糸だけど、素人にはそういう言い方が一番通じるから」  手にした串焼きを火の中に投げ捨てて、少女がレンズ越しの呆れた視線を寄越してくる。 「ヨアルキタケの仲間は、確かにおいしいって言われてるわよ。でもそれは菌類の戦略だわよ。何とかして自分を食べさせて、宿主に寄生して、棲息範囲を広げようって」 「宿主って?」  彼の問いに、少女が彼をびしっと指差した。 「あんたよ。あんたをキノコ人間に仕立て上げて、胞子を遠くまで運ばせるつもりだったんでしょ」  背筋に冷たいものが走り、彼も串焼きを慌てて炉の中へと放り込んだ。  そして両手を腰に当てて立つ少女に、賞賛の眼差しを注ぐ。 「ずいぶんと詳しいな。冒険者か?」 「野外研究が多いから、しょっちゅう旅には出てるけど、あたしは違うわよ」  バックパックを背負ったまま、少女が炉辺にちょんとしゃがみこんだ。  ぱちぱちと燃える炎を見つめながら、少女が名乗る。 「あたしはフリーデ=ライヒ。“継承名(ミドルネーム)”はないわよ。冒険者じゃないから」  このフリーデという少女が向き直った。  円いレンズに赤々と燃える炎が映っている。 「でも、あたしらオズワルド氏族の長が言うには、一応第二階梯くらいには戦えるらしいけど」 「『オズワルド氏族』って、ガイタのオズワルド一族? “短躯人(ドヴェルガン)”か?」  彼の質問に、フリーデがうなずいた。  この山からずっと南方の山岳地帯に、ガイタ鉱山とよばれる地域がある。  そこで鉱業と冶金を生業とする異種族が、人間からは短躯人(ドヴェルガン)と呼ばれている。  確かその中でも最有力の一族が、オズワルド一族だったはずだ。  彼の言葉を特に気にした様子もなく、少女が淡々と言い返す。 「あんたたち人間(ホムス)から見たら、あたしらドヴェルガンは、少数民族の“異人(デモス)”だわね。それで、あんたは? 独りなの?」 「ああ。今は独りだよ」  そこはかとない寂しさをひた隠してうなずく彼に、フリーデが無関心そうに振る舞いつつも、さらに問う。 「で? 何者なのよ」 「俺は」  口を開きかけた彼だったが、当のフリーデが彼を遮った。  彼女は至極真剣な表情で小さな口許をきゅっと結び、人差し指を当てている。  彼も口を閉じてしまうと、どこからか風を切る奇妙な音が聞こえてきた。  数秒後、彼らの頭上覆い被さったのは、星明りを遮る暗い影。  ハッと見上げた彼の目に、夜と星々を背に黒々と浮かび上がった巨大な黒い物体が大写しになる。    ……何か大きな生物だ。  異様な生き物が、梢の上の夜空を滑るように飛んでゆく。    彼は思わず声を上げた。 「あれ、蝶か!? でっかいな……! 人でも乗れるんじゃないか?」 「ベニイロシジミ。もうダイオウ、って付けてもいい、非常識な大きさだわね」  悠然と遠ざかる蝶を見つめ、彼女がすっくと立ち上がった。 「あたしはあれを追わなきゃ。見失う前に」  足早に炉辺を離れたフリーデだったが、道の真ん中で彼に向き直る。 「もう一度言っとくけど、サマヨイタケは絶対に食べないこと。えっと、あんた」 「エルドレッドだよ。エルドレッド=ノイ=カッシアス。第四階戦士“錬士(ソルジャー)”だ」  彼、エルドレッドの名乗りに、フリーデがにこりともせずにうなずく。 「いいわね? カッシアス。 じゃあたしは行くわよ」  それだけ言い残し、ドヴェルガンの少女フリーデは、山間の小道に消えた。  もう足音も聞こえない。  大きなバックパックを背負っていながら、驚くべき足の速さ。  かなりの体力の持ち主なのだろう。  彼は思い出した。  そういえば、ドヴェルガンというのは、十種類の人類の中でも二番目に小さな種族だが、持ち前の体力も二番目に強いらしい。  彼女が立ち去った今、辺りは再び静寂に包まれた。  ただ炉の炎が、ぱちぱちと音を立てる。  それに加えて、エルドレッドの腹が鳴る音が、空しく響く。  空腹を抱えつつ、彼は血涙の滴る思いで全ての串焼きを炉の中に投げ込んだ。  漂う香ばしい匂いに、まるで拷問のように悩まされつつ、彼は自分の荷物から保存食を取り出した。  パンをカチカチに固めて乾燥させた、魚のエサのような味気ない代物だ。  エルドレッドは深いため息をつく。  ……正直、これはもう食べ飽きた。唾さえも湧いてこない。 「ひさしぶりに美味い串焼きが食べられると思ったのに」  誰に言うでもない恨み言を虚空に飛ばし、彼はカサカサの保存食をもそもそと齧った。
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