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なにやら外が騒がしい。魔醜座は耳をすませじっとしていた。
目の前では古謝が数日続く苦行に耐えかね、今にも倒れようとしている。
「あっ……」
針山の上に顔面から倒れそうになった古謝は、とっさに両肘をついてこらえた。致命傷は逃れたが、容赦なく針が腕と肘につき刺さり血がだくだくと流れていく。
「倒れたな。元の場所からやり直しだ」
魔醜座は古謝を立たせ、針のない地面に連れていき応急手当をしてやった。足は見る影もなく潰れ穴だらけとなり変色している。脛や膝、太ももにまで傷があるのは、痛みにバランスを崩し何度も転んだせいだ。それでも手や指が無傷なのは、転ぶ際に古謝がそこだけは死守してきたからだった。楽人にとり指と手はなにより大切なもの、ときに目より守るべき部位となる。頑なに手を守ってきた古謝も、しかしここへきて腕と肘に怪我をおった。すでに限界なのだろう、ふうふう息をつき座りこみ、魔醜座がもってきた水をひと息に呷っている。
「もう無理だろう。やめるならいつでも言え」
古謝は青ざめた顔でうつむき視線をさまよわせる。多量の血を流したために座っているのもつらいはずだ。
(なぜそうまでして?)
見ているこちらが痛ましく魔醜座のほうが音をあげそうだ。
「俺の筝を、とって」
示された庭の隅にいびつな木の箱が置いてあった。よく見ればそれは楽器で、長方形の持ち運びができる大きさの木に弦が十三本張ってある。肩からかける紐があり、琴柱(ことじ)は傾けても落ちぬようにしっかり固着されていた。簡易筝に似ているが、机や地面に置いて弾くそれらよりも軽くて持ち運びがしやすい。
「これは、お前が作ったのか?」
「そうだよ」
古謝は座ったままで筝の紐を肩からかける。
月琴や三味線に近い楽器だが、古謝はあくまでそれを筝だという。
「ここに入るとき、筝しか弾いちゃだめって言われたから。改良して持ち運びできるようにしたんだ」
長方形の筝をさらに胴回りへ紐でしっかりと固定し、たすきのようにした状態で弦の張り具合を調整する。象牙の爪をはめ、確かめるように音を順番に鳴らしていく。なるほど、聞いてみれば音は間違いなく筝だった。
すこしだけ眉をしかめた古謝は、痛みを抑えこむように息を吸い曲を奏ではじめた。
〽玉櫛笥(たまくしげ)再び三度(みたび)思うこと
思うがままに書きつけて
見すれど海女(あま)の潜(かず)きして
刈るちょう底の海松布(みるめ)にも
触れぬを痛み頼みにし
朗らかな声が響きわたり、吹いていた強風がぴたりとやむ。
古謝は自然な動作で歌にのるように立ち上がる。苦痛に青ざめていた面影はもうない。筝を弾きながらゆっくりと歩く先は、針山の始点だ。足取りは音に支えられてよどみない。
〽筆にさえだに恥ずかしの
軒のしのぶに消えやすき
露の身にしもならまほしならまく星の光すら
奏でられているのは片想いを嘆く曲だった。恋文の返事がないと星々に嘆く女。硯(すずり)に涙をため、もう一度と文を書かんとする悲恋の曲。けれど古謝の弾くそれは恋というより、戦いにのぞむ鼓舞曲のような響きになっている。悲恋を嘆く前に立ち上がり、硯で墨をつくる代わりに足を動かして会いに行き、気持ちを伝える。達人が聴けば「風情がない」と一蹴されそうな曲を鳴らし、古謝はまた一歩と針山へ踏み出した。
無数の針が足に刺さった瞬間、ぴくりと眉をしかめたものの、音の響きや声の伸びに変化はない。そのまま古謝は針山の終点だけを見て歌い歩いた。
〽 絶えて文(あや)なくなるまでも
八夜(やよ)九夜(ここのよ)と思い明かし
雲井を眺め術を無み
袖の雫の堰き入るる
硯(すずり)の海に玉や沈めん
針山の上を足元に何もないように普通の速度で歩く。歌が進めば進むほど速度は上がり、いまや早足になっている。変わらず鋭い針は両脚をうがち続け、赤い血の跡だけがその後ろに残されていった。
「もういい」
横で見ていた魔醜座は、往復し戻ってきた古謝を止めると針山の外へ誘った。
「でも……」
「よいのだ。そこへ座れ」
渋々と腰をおろす古謝は、途端に鋭い痛みに顔をしかめている。音楽が止めば痛みが戻る――それこそが、古謝が痛覚の段を習得した証だった。穴だらけの足を手当てしながら魔醜座は内心で舌を巻いた。これほど早く古謝が『痛覚の段』を乗り越えてしまうとは。
「やめていいの? 俺まだ百往復してないよ」
「回数は重要ではない。大切なのは、お前が針山を歩くときに痛みを感じなかったことだ」
神衣曲の習得とは、人間のほぼすべての感覚を放棄することにある。生理現象に通じる感覚は鋭敏で塞ぐことすら不可能に近いものもある。痛覚はその点、反射的に感じてしまうものだ。古謝が音楽をつかい意志の力でそれを抑えこめると分かった時点で、この段は習得したといっていい。
「いくら修行しても痛みをこえられぬ者は多い。いや、出来るほうが稀なのだ。お前はその点、素養があった」
「よくわからないよー」
「簡単なことだ。針山を渡るとき何を考えていた?」
「なにも……音楽のことを。それだけを考えて気を紛らわせようって」
「その感覚だ。それを覚えていれば問題ない」
古謝は不安そうだったが、魔醜座はそれでいいと太鼓判を押した。なによりひとつのことに集中する、できる。痛みを押しやる精神力を古謝はすでに持っている。それが音楽であるということに驚いた。
(何がそうさせるのか。どうしてそこまで身を粉にできる)
古謝は生まれながらの楽人なのだ。天性の才、音感や拍感、何より演奏にかける情熱が並大抵ではない。魔醜座にはその小さな体から湧きあがる情熱の炎が見えるようだった。身のひとつ、細胞のすべてが音でできているように錯覚してしまう。
「ねぇ、あとどれくらい続ければいいの?」
言っているのはこれからの習得過程のことだろう。面倒くさそうにしている古謝に魔醜座は呆れてしまう。
「全部で九つだから、あと八つだな」
「もっと早くして。縮めてよー」
「省くことはできない。すべての過程を越えねばならん」
「なら一緒に全部やって。俺、早く弾けるようになりたいんだ」
無茶を言うなと笑いかけた魔醜座は凍りついた。古謝は本気だ。針山の上であれだけ苦しんだのに、その過程を同時に行えばどうなるか。
「死ぬかもしれんぞ?」
ひとつひとつが拷問に近い苦行なのだ。それを同時に行えば身体と精神への負担ははかり知れない。古謝はあっけらかんと笑った。
「死なないよー。俺は死なない」
「なぜそう言える。どこからその自信はくる?」
「死なない。神衣曲をひくまでは絶対に。死ぬとすれば、時間切れになるときだ」
「なに?」
古謝から病のことを聞かされた魔醜座は驚き、そして納得しもした。
これまでずっと古謝が神触れ人としての力を簡単にふるえることを不思議に思ってきた。人が神力を借りるとき、そこには必ず犠牲や代償がある。はかりしれない決意や誇り、怒りに喜び憂いなど――そのいずれもが古謝からは感じられなかった。けれど今になってようやくわかったのだ。
(その命が代償だったのだな)
古謝にとって残りすくない時間はなにより貴重なものだ。それを音楽に変え演奏や練習に使うことで、かけがえのない生命を神力の対価とし支払っている。人の命は捧げものとして何より価値がある。特に古謝のように生きたくても生きられない、有限の一秒一秒はまさに生命に満ち溢れ、濃密でかけがえのないエネルギーになる。古謝に憑いた龍神は、その蜜のような気配に無理やり引きずり出されてしまったといえる。古謝にその気がなくとも、力ある神にとってはさぞかし甘美であろう、その命の灯に――。
「ねぇ頼むから。できるだけ早く終わるようにしてよ」
再三の要求に魔醜座は応えてやることにした。必要な手順や采配を考え、可能だと頷く。
「わかった。ただしこれだけは約束してもらう。無理だと思ったらそう言え。いくらでもやり直しはできる。生きてさえいれば」
顔を輝かせる古謝に「それから」と魔醜座は声を厳しくする。
「死んでも私を恨むなよ。そうしたいと言ったのは、お前なのだから」
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