神触れ人は後宮に唄う

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 その頃、古謝は部屋で三味線を探していた。 「ない、ない、ないよー。俺の三味線がない」  寝ている間に邪魔だからと楽器を机の上に置いておいた、それがなくなっている。  古謝の三味線は、実は室内の他の少年少女たちによって隠されていた。彼らは蓮と対等に話せる古謝が気にくわず、洗礼とばかりに楽器を見つからない場所へ隠したのだ。そんなこととはしらない古謝は「おかしい」と繰り返し、あたりをひっくり返している。  その時、中年男性の後宮楽人が血の気の引いた顔でやってきた。 「次――」  古謝の番だ。楽器が見つからないと伝えると、楽人はこともなく頷く。 「構わぬ、楽器はあちらにもある。……ちなみにお前は何を扱う?」 「三味線だよー。俺はそれしか弾けない」 「そうか。行くぞ」  楽人は哀れみの目になったが、なにも言わずに古謝の腕をとり部屋から連れ出した。 「向こうにも三味線があるって本当?」 「あるぞ。後宮の三味線は最高級のものだ」 「そっかあ。何をひいてもいいの?」 「ああ、構わぬ」  よかったと古謝は安堵していた。  ここへ来る前に風虎にもらった三味線は高級ですばらしい音が出た。いまから触れるものもそれに劣らずよい音がするのだろう。  古謝の頭は演奏のことで常に満たされている。あらゆる旋律がはね耳奥で巡り駆けては、唄われるのを待っている。中庭についたとき、だからその場の異様な雰囲気や、血煙でくすぶる赤い空気にはまったく気がつかなかった。ただ生臭いなと思っただけだ。 「あっ、綺麗な三味線がある!」  興味は一直線、右手にある楽器へと向いていた。ひとたび楽器を見つけたらすべてがそのことで占められ、関心がよそへ動くことがない。  案内した楽人が止めるのもきかず楽器のそばへ駆けると、喜び満面の笑みでつややかな意匠の施された三味線を引っ掴んだ。  古謝はここへ何をしにきたか、ここがどういう場であったかをすっかり忘れていた。前方に天帝がおわすことも、楽人選抜を受けにきたことも抜け落ちている。 (弾きたい、弾きたい、弾きたい弾きたい!)  はやる心で弦に触ろうとした片腕は、黒ずくめの鎮官によってねじり上げられてしまった。 「痛い、なにするんだよ!?」 「止めろ、美蛾娘様の声が聞こえなかったのか!?」 「なに?」 「三味線を弾くなとさっきから何度も言われているだろう!」  古謝にはまったく聞こえなかった。ただ頭の奥で爆発寸前のマグマのように、奏でるはずだった音がくすぶっている。  あたりを見てようやく場の異常さがわかってきた。血で真っ赤に染まった石畳、死体の小山。憤怒の表情で立ち上がった美蛾娘が鋭く言葉を発した。 「三味線以外を弾いてみせよ。でなければ死罪である」  古謝には三味線以外の選択肢がなかった。 「しゃ、三味線以外って、言われても……」 「なんじゃ、弾けぬのか? 弾けぬなら」  冷たく美蛾娘が見やった先に、壁のようにそびえる不気味な鎮官の姿がある。黒ずくめの彼らが血濡れた槍を示すのを見て、古謝は慌ててその場に用意されていた楽器のほうへ向き直った。  三味線のそばにはありとあらゆる楽器が並べられていた。笙(しょう)、月琴(げっきん)、縦笛、琵琶――同じ種類の楽器にも大きさや用途の違いがあり、そういった末節まで丁重に整えられていた。  古謝はため息をついてしまった。これだけの楽器があるのに弾けるものが三味線以外にない。 「早うせんか!」  美蛾娘の恫喝に慌てて楽器の前にかがみこむ。選ぶ余地はない。  古謝の前にあったのはひときわ大きな楽器だ。長方形の木を横に寝かせた形で、絹糸の弦が十三本張られている。それは筝(こと)という楽器だった。古謝は知らなかったが、後宮では人気の高い楽器でもあった。楽人のみならず後宮の才人なら一度は触れたことがある代物で、それゆえに扱いも難しい。  古謝が筝を選ぶと、美蛾娘は「ほう」と椅子に座りなおした。美蛾娘も筝はたしなむので、古謝の腕前のほどは簡単におしはかれるのだ。  これまでの選抜で筝を選んだものは一人もいなかった。後宮の者がみな筝をたしなみ、名人の音を聞きなれていると知っているからだ。  美蛾娘は金扇子のうちでほくそ笑んでいた。 「筝を選ぶとは勝気なものよ。妾の耳に響く音が出せるかえ?」  居並ぶ楽人たちは「無茶だ」と成り行きを見守っていた。筝は難しい楽器だ。ただ弾くことはできても名人級の演奏をするには何十年と鍛錬がいる。あるいは――と一部の楽人は考えた。 「あの少年は神童なのかもしれん」  かつて筝の名人・歌風月(かふうげつ)は十二歳で自らの師をこえ、達人の名をほしいままにしたという。もし目の前の少年が、かの名人・歌風月のようであれば――と。  さまざまな思惑を受け、しかし古謝は筝を前に弱りはてた。この弦を弾けば音が出るのはわかっている。簡単な楽器のはずだ、そう思って筝を選んだのだ。古謝は昔一度だけ筝の演奏を見たことがあった。僧院にいたとき、育ての親である僧・賢心(けんしん)がこれを弾いていたのだ。 (あの時の音はおぼえてる、歌もわかる。ただ肝心の、弾き方だけが思い出せない)  筝の前に座した古謝はためしに弦を一本はじいてみる。ぺん、と音がして弦の硬さに指がしびれた。きつく張られた絹糸は予想より強力で、思ったより音が響かない。もっと強い力が必要なのだろう。  一音ずつ生爪のまま弦をはじくたどたどしさに美蛾娘は失笑する。明らかに筝を弾ける者の動きではない。そもそも筝とは、象牙製の「爪」を指にはめてそれで弦をはじくものだ。「爪」の存在に気づかない古謝は見るからに素人だった。美蛾娘は「もうよい」と言おうとした。もうよい、そちの首をはねさせる――そう言えなかったのは、楽人たちがなにやら空を指さしていたからだ。  快晴だった空に雲がたれこめ、みるまに雨の気配がしてくる。遠く雷鳴が聞こえて楽人たちは首をすくめていた。  雷は神の怒りの前触れだ。王宮に仕える者は超常的な存在と自然を重ねあわせてみる。ついに天が美蛾娘を罰するのだと、楽人たちは雷鳴に怯えきっていた。  ぺん、ぺん、ぺん、ぺん――……  古謝はかまわず一音を指ではじき続けた。  音の強弱、響きの広さを味わううちにその顔は恍惚とし、頬に赤みがさしてくる。 (この音はすばらしい、うつくしい! もっと広がる、もっと聴こえる!)  ぺん、ぺん、ぺん、ぺん――……。  しだいにリズムを速めていく。  近づいてきた雷鳴がついに後宮の端へ落ちた。  轟音が空気を焼き、みな唖然とそちらを眺めるが、古謝にはその音すら聞こえない。  風虎に教えてもらった『神衣曲(しんいきょく)』のことだけを古謝は思い浮かべていた。後宮の奥深くにあるという幻の名曲。すべての人を蕩かし惑わせてしまう音、傷を癒し国家に安寧をもたらす音色とはいかなるものか。それをどうすれば奏でられるのだ。 (もっと弾きたい。もっともっと、もっとだ! 弾きたい弾きたい弾きたい!)  その瞬間、中庭を雷が直撃した。一瞬の轟音に感覚をふさがれ、楽人たちはみな地にへばりつく。その場にいた全員が自らの頭をかち割られたと誤解した、それくらい大きな衝撃だった。空気を焼く稲妻が数回にわたり中庭の木々や楽人たちを襲った。  叫び声すらかき消される閃光のなか、いち早く動いたのは鎮官の長・魔醜座(ましゅうざ)だ。  他の鎮官たちが雷に打たれる横を、閃光をものともせずに走り抜けていく。  魔醜座には古謝の背後から天へと続く巨大な龍神の姿が見えていた。それは鋼のような鱗から雷を散らし、牙の合間から攻撃的な青い炎を吐き出している。  現れた龍神は自らが呼び起こされたことに激怒していた。古謝の筝の音が鱗の隙間にささり眠りを妨げられたのだ。龍神は乏しい筝の響きに怒り、自らを満足させる曲を奏でるまでは古謝から離れぬと激しく咆哮している。 「なんということだ……!」  魔醜座は即座にすべきことをした。恍惚と筝を奏でる古謝の前へ走りより、刀を抜くと筝の弦を叩き斬る。音がやみ、夢から醒めたように古謝は魔醜座を見あげた。 「なにするんだよ、弦が切れちゃったじゃないか!」  あたりに降りそそいでいた雷鳴は止んでいた。暗雲が消え、空は雲ひとつない快晴に戻っている。先ほどの阿鼻叫喚が嘘のようだが、石畳の上にはおびただしい楽人たちの死体が転がっていた。生き残った者はすくなく、半数以上が雷に焼かれて焦げた黒煙をぷすぷすと放っている。 「なんという、……ことを」  魔醜座は古謝を見て身震いする。古謝は無意識に美蛾娘よりもあっけなく人を殺してしまった。悪意なく音を奏でるだけで、龍神に見初められてその執着と怒りをかったのだ。  古謝自身には何が起こったのかまったくわかっていないようだった。ぽかんとあたりを見回すと黒焦げの死体があり、いぶされた香りが漂っている。まさかそれが自らのひいた筝で引き起こされたものだとは夢にも思わない。 「この、この無礼者がッ!」  混乱からようやく立ち直った美蛾娘が即座に古謝を死罪にしようとする。魔醜座は慌てて膝を折った。 「お待ちください、この者を殺してはなりません!」 「なにをぬかすか! おぬしも死にたいと申すか!?」 「それでも構いません。しかしこれは美蛾娘さまの御(おん)ため、どうかお聞き届けください! この者は神触れ人、いまや龍神に憑かれた身です。今すぐ殺してはなりません」 「ではいつ殺す? いつじゃ!?」  古謝はやり取りに目を白黒させている。それを見て、魔醜座は声の調子を落とした。 「すくなくとも、この者が筝を見事に扱えるようになるまでは。筝の音で龍神を満足させ、天へ返してもらわねばなりません」  美蛾娘は蒼白な顔で怒りに唇を震わせた。 「世迷言を……ッ!?」  彼女の言葉がきれたのは、天帝が立ち上がり黒御簾の奥から出てきたからだ。その姿を見てはならぬ――そう教えこまれている楽人や鎮官たちはぎょっとして即座に顔をふせる。  古謝はそんな決まりごとなど知らない。不躾に眺めまわす古謝を見て天帝は和やかに目を細める。御年七十。白鬚をたくわえた小太りの天帝の姿は、市井の民となんらかわりないように古謝には思えた。 「そなた、名をなんと申す?」 「俺? 古謝です」  無礼だと美蛾娘が怒る暇もなく、天帝は「下がってよい」とあっさり告げた。 「すばらしい音色だった。筝をおぼえよ」  それが現天帝・鳳梨帝(ほうりてい)から古謝がたまわった、最後の言葉となった。
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