神触れ人は後宮に唄う

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****  古謝が楽奏船に乗りこんでから一週間がたった。  この頃、国では長雨が続いていた。数日前からにわかに曇りだした空は晴れることなく、天から滝のような豪雨を叩きつけてくる。烏羅磨椰(うらまや)国には河川が多い。季節はずれの集中豪雨に早くも川は氾濫の気配をみせていた。  王宮の文官たちが治水作業に頭を悩ませる一方で、後宮にある天河(てんが)も水かさを増し濁流となっていた。鎮官が総出で川べりに土嚢(どのう)を積み上げるかたわら、古謝は変わらず楽奏船で筝の練習をしていた。荒縄で岸につないだ楽奏船は濁流でかなり揺れる。立っている風虎が時々バランスを崩すほどの揺れのなか、古謝は難解な奏法に頭を悩ませていた。 「無理だよ、こんなのできっこない!」  古謝の悲鳴にも慣れた風虎は揺れる船壁につかまっている。 「誰もお前に完璧な演奏なぞ求めんわ。さもできる風でさらっと弾ければよいのだ」 「そんな無茶な」  古謝は眠たげに目をこすり、風虎が隙を見せるのをねらっていた。風虎はそばまで歩いていってその頭を思い切り叩いた。 「二度と逃げようと思うなよ! 今度逃げたら川へ放りこむからな!」  弦をしぶしぶ弾きだした古謝はすでに三度逃走を企てていた。間抜けなことに転んだり鎮官に見つかったりしたわけだが、風虎は気が気でなかった。すでに合奏の日まで一週間しかないのだ。柘榴帝に完璧な音を届けられなければ、風虎だけでなく楽人全員が罰せられてもおかしくない。それでなくともこの豪雨、つくづく不運だと風虎は天をあおぎみる。川辺の土をも穿つ強雨のせいで視界は真っ白に煙っている。雨音もうるさいがなによりこの湿気がいただけない。 「この湿りけでは音などろくに響かんが、しかたない」  筝は湿度に弱いのだ。弦楽器はおしなべて雨が降ると音が鈍ってしまう。  風虎は開き直ることにした。こうも雨が降ってはどうせ音など響かないし、どこで弾いても同じだと、このまま船で弦の奏法だけを古謝に叩きこむつもりでいる。 「もっと流れるようにひかんか! 軽やかにささっと指を滑らすのだ!」 「もう無理だって! 何度やったって出来っこない、無理だよ!」  古謝の練習する『水宴(すいえん)の曲』は移ろいゆく水の性質を称えた曲だ。霧から雲、雪から雨、雹(ひょう)から氷へと変わる水の質感を音で表現する。弦を鋭くはじいたり滑らせたりして霰(あられ)の飛び跳ねる音やふりしきる雨を、特殊技巧で擬音的に模したものだ。技術的な難所が多く名人でも苦労する曲を素人に、それも一夜づけに近い状態で覚えさせるのは不可能だ。  それでも風虎はなんとか合奏の体をなせるまでには仕上げるつもりだった。 (あとのふたりに頑張ってもらって筝は最低限、音をなぞらせるだけでいい)  風虎はいくつかの音を省き簡略にして教えたが、それでも古謝には難しい。 「無理だよ苦しい、しんどいよー! もう嫌だ!」  古謝はひいひい言いながら青ざめた顔でひたすら弦をつまびく。不眠不休で続けられる練習は苦痛でしかなく、古謝の音色には如実にそれがこめられていた。ぎいぎい軋む不協和音に苦しみがこもる筝の音はいつまでも繰り返し天へと響き、そしてその音にこそ天の龍神は怒り狂っていた。 ****  鎮官の長・魔醜座(ましゅうざ)は、後宮で雨を止めるための儀式を行っていた。  祈りの場に集った数十名の鎮官たちは、みな一様に前方の炎を見つめている。最前列にいた魔醜座が真言を唱え炎に香砂を投げ入れると、橙色の火焔が天井まで伸びあがった。火先は巨大な龍の形となり、勢いよく天井をねぶりゆく。炎に現れた龍神は怒り狂い鱗に火花を散らしていた。幻の火炎が部屋を橙色に染め上げ、慌てふためく鎮官たちをよそに魔醜座は固い顔で立ち上がっていた。 「やはり原因はあの神触れ人(かみふれびと)!」  すぐに魔醜座は古謝のいる天河(てんが)の楽奏船へと向かった。ひとたび宮を出ると滝のような豪雨が襲ってくる。息苦しいほどの雨のなか、魔醜座は傘すら煩わしくてひとり駆けていく。 (一刻も早くこの雨をおさめねば)  鎮官の仕事は天災をとり去ることだ。豪雨、竜巻、地震、大火など国に起こる神の怒りを鎮めるのが鎮官のつとめである。  天災を引き起こす神々にはきちんとした言い分があって、祠を作り丁重に奉れば理解をしめし、大人しく静まってくれるものと相場が決まっている。しかし古謝のような神触れ人はそれとはまったく異なっていた。  楽奏船の前まできて魔醜座は愕然とした。  天河はあふれる寸前で、濁流の上で船が危なっかしく揺れている。船は岸に荒縄で繋がれているが、今しも流されそうなほど軋み引っ張られていた。雨雲のうずまく空では制御を失った龍神が苦しみにのたうち、古謝を船ごと溺れさせようとしている。身をくねらせた巨大な龍神が咆哮すると、雨風が強まり船が大きくあおられた。 「いかん!」  龍神は筝の音に苦しみそこから逃れようと暴れている。鱗の間から血のように雨が降りそそぎ、蠢く尾ひれが強風を起こしている。  雨風をこらえて船べりまで辿りつくと、魔醜座は機を逃さず船の中へ転がりこんだ。  突如現れた鎮官の姿に風虎は飛び上がったが、古謝は気づかずに筝をひき続けていた。  魔醜座は刀を抜き、古謝へ近寄って行った。 「今すぐ! 演奏を止めよ!」 「待て。何だ急に」 「黙っておれ!」  風虎へ向けて魔醜座は刀を突きつけた。そのまま古謝の方へ歩くと、青ざめた顔の少年はぶつぶつ呟き指で弦を鳴らしていた。 「トンテン、サーラリン……ちがう」  なるほど、よく見れば随分と顔色が悪い。どうやら飲まず食わずで練習していたらしい。魔醜座はすぐに袖内から菓子を取り出した。 「おぬし、空腹ではないか?」  古謝はぴたりと演奏を止めた。呆けたような目はぼんやりと濁っている。 「それ、……」 「すまんな。雨に濡れてしまったが、今はこれしか持っておらんのだ」  魔醜座が差し出したのは人にやるはずだった干菓子の袋だ。雨に濡れたせいでふやけ饅頭のように柔らかくなってしまっているが、古謝は噛みつかんばかりに飛びついてきた。 「ありがとー! 俺もう腹ぺこで」  丸飲みする勢いで干菓子にかじりつく古謝を風虎は唖然と眺めている。  古謝が筝から離れると雨足はしだいに薄れ、雲に切れ間が見えてきた。ようやく音から解放された龍神は恨めしげな声をひとつあげ、光のなかへと姿を消した。止んだ雨に安堵したのも束の間、風虎が猛烈に怒りだした。 「お前、なんの権限があって練習の邪魔をする!? 楽人のことは楽舎で管理する、そう後宮の掟にも記されておる。いくら鎮官とはいえ掟破りは許さん!」 「たしかに。楽人のことは楽舎の管轄。しかしこれは国事に関わりのあることだ。神触れ人の管理は鎮官に一任されている」  風虎は言葉をつまらせた。どうやら古謝が特殊な神触れ人であることを失念していたらしい。魔醜座は黒布覆いの内で薄く笑った。 「今から一週間、古謝に休息を与える。十分な睡眠と食事、それから望むなら菓子も与えよう。あらゆる苦しみから解放してやるのだ」 「な……」 「これは勅命だ風虎楽人。私が天帝から任じられた鎮官だということ、ゆめゆめ忘れるな」  風虎は黙るしかない。鎮官は天帝から神事を一任された特殊な立場にある。神事についてならその発言力はときに王宮のどの部署より強く越権を許される。神事は国にとってなにより重要、それは風虎もわかるのだが気に食わないのだ。美蛾娘(びがじょう)と一緒になって弾圧してくる鎮官の存在は、後宮の各所にとっては目の上のたんこぶだった。先だっての楽人選抜での虐殺についても風虎は恨みに思っていた。けれど鎮官に逆らうのは危険だ。  風虎が唸っている間に、魔醜座は外にいた鎮官たちに輿を運ばせてきた。ろくに立てない疲弊した古謝をなかへ押しこんでいる。 「待て、ならん! それでは間に合わんではないか!?」  風虎の悲鳴じみた声は見事に無視された。  輿のなかでまどろみはじめた古謝につき添い、魔醜座は部下に厳命した。 「この者の宮へ向かう。少なくとも一週間はしっかりと休ませるのだ。絶対にこの者に筝をひかせてはならぬ」  船のなかで風虎がくずれ落ちる音がした。  古謝がしっかりと回復するまで絶対に筝をひかせない、今日のようなことが二度とあってはならないと、魔醜座はそばで古謝を見張ることにした。
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