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長雨がひけば、鎮官たちは祭儀から解放される。
国の河川氾濫がおさまり、安堵した顔で解散する鎮官のなかにひとり女宮へ向かう者がいた。倭花菜に「なにかあれば報告するように」と、楽奏船で賄賂を渡された者だ。誰にも見つからぬよう倭花菜の宮へ入った鎮官は膝を折り報告する。
「このたびの長雨は男宮の古謝楽人が原因でした。魔醜座の働きですでに事態は収まっております」
倭花菜とともに昼食にありついていた嵐と菊迷は、突然現れた鎮官にぎょっとしたが、古謝の名前が出るとぽかんと口をあけた。
「ご苦労さま。詳しく教えてちょうだい」
倭花菜がさらに銀子を渡すと、平伏した鎮官はそれをおし抱き頷く。
「古謝楽人は己に憑く龍神を制御できておりません。それゆえ、過酷な筝の練習に耐えかねて、楽で龍神を暴走させてしまったのです」
神触れ人である古謝には龍神が憑いている。しかしそのありようはひどく不安定で、古謝の心情にあわせて簡単に天災が起こりうるという。鎮官の長・魔醜座はその抑えこみに今頭を悩ませている状態だそうだ。
横で話を聞いていた嵐が耐えかねたように箸を置いた。
「ちょっと待て。神触れ人? 何だそりゃ」
「王宮で数十年に一度現れる才人のことです。神触れ人とは楽や詩歌、絵画など特殊な才ある者のこと。天界の神に見初められる逸材はそう現れませんが、先日の楽人選抜で珍しくも三人が神触れ人として、すでにこの後宮へと入っております」
「そのうちのひとりが、古謝?」
嵐の問いに鎮官は頷き、倭花菜を見やった。
「残りは男宮の蓮楽人、そしてこちらの倭花菜さまです」
倭花菜は平然を装ったが、内心では驚いていた。後宮へ入ってから自らに何の変化も見られない。古謝のように神を操り、または暴走させてしまうこともない。顔色から疑問を読み取ったのだろう、鎮官は楽人選抜での出来事を話して聞かせた。倭花菜の歌とともに春の事象が顕現されたこと。穏やかな春風と飛び交う蝶たち、萌えいずる緑の若芽。
「倭花菜さまには弁財天女神が憑いています」
「あたくしにも……? なら、どうしてあいつのように暴走しないの」
「暴走するほうが異常なのです。いくら神触れ人とはいえ、あのようにたびたび神威を借りるなど聞いたことがありません。現に蓮楽人の身にも特異なことは起こっておりません」
神触れ人が神威を借りるのはよほどのことがある時だけだ。先の楽人選抜のような生命の危機に陥ったとき、あるいは強固な願望や神への捧げものをした時にだけ神威を借り受ける。そうでなければ力に耐えかね、すぐに人の身は滅びてしまう。
説明を聞いた菊迷と嵐は化物を見る目で倭花菜から身を引いたが、倭花菜は気にしない。
「ようやく腑に落ちたわ」
蓮はともかくあの古謝までもが選抜を通った理由がこれではっきりした。国に長雨を引き起こすくらいだ、古謝はよほど危険だと目されたに違いない。鎮官が美蛾娘を止めて古謝の命を永らえさせたのも、そのあたりのことが関係しているのだろう。
「では、あたくしにも教えてちょうだい。どうすればその神威とやらを借りられるの」
この言にはさすがの嵐も仰天した。
「正気か。人でないものの力を借りるのか?」
「当然よ。あの虫けらにできてあたくしにできないことはないわ」
倭花菜は神をも利用し、次の合奏で柘榴帝の心を射止める気だ。
(なんとしても天帝の寵を得てみせる)
同じく合奏をする蓮と古謝も神触れ人であることが倭花菜の対抗心に火をつけた。
あのふたりに負けるわけにはいかない。倭花菜は命にかけて、否、彼女にとっては命より大切な誇りにかけ、次の合奏で弁財天女神の力を借りると決めた。
「どうすればあたくしは神威を発揮できるの。あたくしは何を捧げればいいの?」
鎮官は困惑した様子で声にためらいをのせ答えた。
「それは――……」
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「祝水(しゅうすい)の宴」は、後宮でもっとも艶やかな女宮の庭で行われる。
滅多な用ではけして入れない女宮へ、この時ばかりは招かれた男宮の才人たちも赴く。
春うららかな青空の下を蒼白な顔で風虎は歩いていた。そのうしろを蓮と古謝が、魔醜座に見張られるようにしてついてきている。
蓮は隙のない足取りで鋭く周囲を見回していた。古謝はここ一週間ずっと魔醜座に甘やかされて、すっかり鎮官になついていた。
「なぁ、あれ何? どうしてみんな俺たちを壁の上から見てるのかなぁ」
聞かれて、すぐ横を歩いていた魔醜座は女宮の塀を見あげた。
人の背より高い土塀の上に女官たちが顔をのぞかせ、珍かな男宮の楽人たちの様子を窺っていた。数十、数百の女官たちが黄色い声を上げ、木登りに興じているのは異様だ。塀の上に位の高い貴人の姿を見かけて、魔醜座は顔を覆う黒布の下で苦笑した。
「気にするな。もの珍しいのだろう」
「ふうん」
古謝は足元に投げられてきた包みを拾い、なかを見て破顔する。
「わっ、菓子だ! ありがとー!」
古謝が塀の上に手をふると、木の枝に腰かけた若い女官がにっこりと笑いかえしてくる。
魔醜座は見なかったことにした。どうせ止めても無駄だし、これくらいの息抜きがないと後宮の暮らしは息がつまってしまう。
蓮が「見せてみろ」と古謝の包みを覗きこみ、それが無害かどうか確かめている。
「普通の菓子だよー、大丈夫」
「懲りないな。まあ、たぶん大丈夫だろう」
「たぶん?」
「嫌なら捨てろ」
包みを見て仲良さげに話し合っている二人へ、塀の上からさらに包みが祝儀のように投げられた。たまたま身に当たった包みに蓮が顔をしかめると、塀の上から歓喜の悲鳴が上がる。迷惑そうに飛んできたほうを見る蓮に場が沸き、さらに包みが投げられた。蓮の凛とした佇まいは女官たちの贔屓心をおおいに買ったようだ。たまさか目にした男宮の者が蓮ほど麗しければ、権力争いに興味のない女官たちが熱を上げるのもわかる――魔醜座は興味深くその様子を観察していた。
「なにか?」
視線に気づいた蓮が眼光鋭く睨みつけてきた。牽制するような目つきに魔醜座は昔飼っていた子猫の威嚇を思い出した。
「いや。受け取ってやらぬのか?」
投げられた包みを捨てているのを揶揄すれば、蓮はきりとした笑みを浮かべてみせる。
「受け取られては困るでしょう? 後宮で、男女間の交わりは厳禁です」
魔醜座が肩をすくめると、蓮はすぐにそっぽを向いてしまう。可愛げのない素振りは昔飼っていた子猫にそっくりで、魔醜座はこらえきれず静かに笑っていた。視界の端では古謝が、前を歩く風虎に追いつき話しかけている。
「おじさん、どうしたの? 顔色悪いよー」
風虎は答えなかった。ただ黙々と歩くその足取りは死地へ赴く者のそれだ。
天河へ魔醜座が来てからというもの、古謝は筝をまったく練習していない。天帝の前で無様な音を披露すれば今度こそ楽人たちは美蛾娘に根絶やしにされてしまう。風虎は死を覚悟していた。
「おじさんこれ食べる? おいしいよー」
古謝は恐れを知らないようだ。無知であることは、後宮ではこの上なくおそろしいことだ。
風虎はため息をつく気力もなく、白い顔で力なく笑った。
「安心しろ。いざとなれば、儂がすべての罪をかぶれるように努力する」
「なんの話?」
「なんでもない、気にするな」
風虎は女宮のうつくしい春の花々を目に焼きつけていた。最後に見るのがこれほど鮮やかな景色なら贅沢な話かもしれない、そう自らをわびしく慰めていた。
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