神触れ人は後宮に唄う

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 互いに測り、とろうとしていた間合いが消えてしまった。古謝が一音をひく前から、間を奪った倭花菜が前に出る。  朗々とした歌声が空気を揺らしていく。あたりに倭花菜の気配が満ちた。 〽御月(みつき)にはらはらと催花雨(さいかう)  君のみぞ待ち幾寝こし  春雨百穀(しゅううひゃっこく) 幸(さち)のみをたのみ  ひとり見やらで 緋桃雨(ひももさめ) (これは『水宴(すいえん)の曲』じゃない――!)  蓮は凍りついてしまった。倭花菜が歌ったのは『花ふらし』、合奏用にと練習してきた曲ではない。筝や龍笛のパートで合わせようと思えば即興もできるが、古謝にそんな芸当は無理だろう。  倭花菜はひとり歌い大池のほうへと歩いていった。曲が進むにつれ、空間は彼女の望む色に染まる。  『花ふらし』は春先に、来ぬ恋人を待つ寂しさを歌った曲だ。雨と桜の歌でもある。  しゅるりと倭花菜が黒衣をひきずり白魚の手で示せば、三分咲きだった庭の桜が満開になった。空気がうす紅の甘さをはらんだ刹那、倭花菜は艶やかに笑んでいた。  何を思ったか、彼女はひと息に黒衣を脱ぎ捨てた――その下はほぼ全裸だ。豊満な女性美を見せつけるようにして倭花菜は歌い歩く。  あまりの行為に場は静かに戦慄していた。みな動けない。空間は倭花菜の歌に支配され、視線はその肢体のうつくしさに縛られる。  局部のみを隠し、身体の線が透けるうす絹のみを纏う姿は夢物語の弁財天のようだ。移動にあわせて衣が揺れ、軽やかな歌が花の気配を強めていく。耳から甘く蕩かす音に蓮ですら聞きほれた。 〽小桜あかあか雲居(くもい)の桜  残花(ざんか)至るまで桜人(さくらびと)   宵春月は陰りたもうな  草ふみわけのおとは聞こえねども  曲はすでに第二部まできていた。固まっていた蓮もようやく事態に焦り出す。 (まだ間に合う、今なら合いの手を挟める。即興でもいい、だが古謝は?)  横目で古謝を窺ってみるとあんぐり口を開けていた。無理もない、いきなりやるはずだった曲を変えられて、倭花菜の勝手が始まったのだから。  蓮は事態をおさめるつもりで龍笛をかまえた。倭花菜の呼吸の切れ間をみて即興であわせていくつもりだ。耳をすませて動きのひとつも逃すまいと目で追うさなか、予想外の音色が聞こえてきた。  筝の音だ。振り返ると古謝が目を爛々と輝かせ、嬉しそうに弦をつま弾いている。 (やめろ、お前では倭花菜に合わせられない――!?)  蓮は悲劇を予想した。譜もなしに素人が不慣れな筝をひけばどうなるか。ましてや今の倭花菜の歌は完成されきり一分の隙もない、下手に手を出せば曲のバランスが崩れて品位を貶めてしまう。  古謝はうっすら頬を上気させ、筝に向かっていた。その奏でる音は驚くべきことに見事に歌へよりそった。強弱、拍動、止め跳ねはらいにビブラート、無駄な動きがひとつもない。とても即興とは思えない完成度だ。  風虎は唖然と口を開けていた。譜もなしにこれだけの音を奏でられるとは思ってもみなかったのだろう。筝のひき方、鳴らし方を学んだばかりなのに、古謝は天性の音感と才能のみで譜を編み出していた。倭花菜の歌を損なわず、補うように強弱をつけ、絶妙な間合いで音を揺らしては響かせる。歌だけで完成されきっていた音楽が、古謝の筝が加わることで色彩を強め、音に広がりと奥行きをもたらした。この曲はこれで完成した、この場には筝と歌だけでいい。誰もがそう思っているように蓮には感じられた。 「っ、――!」  蓮はまけじと龍笛をかまえた。吹かなければ。  どんな音でもいい、即興で今こそ奏でなければ楽人としてここに来た意味がない。  けれどこの完成された音につけいるその一音が見いだせない。冷や汗が伝った。笛を構える手が震える。  それからすこしたりとも蓮は動けなかった。横笛を手に、空間をのみこむ音楽の前に圧倒されただ青ざめていた。
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