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独唱する倭花菜は歌の喜びに身をひたしていた。誰にも自分を止められない。あの神童と名高い蓮とて、笛を手に凍りついてしまっている。尊敬と憧れ、たっぷり蕩けたまなざしを聴衆から浴び、一種のエクスタシーを感じたほどだ。
倭花菜は鎮官に言われたとおり、弁財天女神を呼びよせるために衣服を脱ぎ捨てた。身体の線が出る裸体のような格好で床をついと歩き、見せつけるように両腕を広げる。
声と体を連動させて動かせば周囲の視線をも操ることができる。指の動き、首の傾けかた、髪の毛を流す向きですら完璧に演出してみせている。
(これでいい。あたくしの楽に弁財天女神の力が加われば)
倭花菜は口もとを綻ばせる。そのタイミングも、音の拍動と重ねあわせた完璧なものだ。
倭花菜は今日まで宴のために、鎮官から舞の手ほどきを受けてきた。どうすれば神力を借りられるか、その問いに鎮官は難しい顔でこう答えたのだ。
「代償が必要です」
「代償?」
弁財天女神は気高さと誇りをなにより重んじる神だ。その加護を得られたのは、倭花菜自身が弁財天女神の好む性質をもっていたからだった。
「弁財天女伸のもっとも嫌うものを、倭花菜さまが誇りに変えて捧げればよいのです」
「わからないわ。どうすればいいの?」
鎮官はしばし黙し、奇妙な質問をした。
「倭花菜さまが死んでもしたくない、嫌だと思われることは何です?」
倭花菜は答えに窮した。ありすぎるのだ。
察した鎮官が言った。
「たとえば、衆目の前で衣服をすべて取り払うというのは?」
「馬鹿おっしゃい! できるわけないでしょう!?」
そのようなこと考えただけでおぞましい。この時代、高貴な家の者が人前で肌をさらすのは恥だと考えられていた。美蛾娘のような例外もいるが、まっとうな感覚ならあり得ない。
怒りに震える倭花菜に「よろしい」と鎮官は頷く。
「倭花菜さまは神触れ人です。その恥じるところは今、弁財天女伸と通じています。その恥を、実際に衆目の前で披露し、神には誇りとして捧げるのです」
さすれば神威を借りられるだろうと、今にも罵声を浴びせそうな倭花菜に鎮官は言った。
「要は考えようなのです。本当にそれは恥ずべきことか。本能的な感覚を乗り越え、意志の力で思考を変えるのです。意識と感情の転換、恥を昇華し誇りに変える、それができれば」
神触れ人が神威をかりるにはエネルギーが必要だ。強固な意志、感情、譲らない強い決意、それらにこたえる形で神々は気に入ったものに庇護を与える。
鎮官の話を「あり得ない」と遠ざけた倭花菜も、しばらく考えて疑問に思うようになった。衆目の前で自身の裸体をさらすことは恥なのか?
倭花菜の体に恥ずべき部位はない、むしろ美しいと称賛されてしかるべきものだ。完璧で見事な身体比率、ふくよかな胸は形も整い、身の隅々まで手入れしてある。嫌なのは倭花菜だけであって、むしろ見る側にとっては喜ばしいことではないのか。あるいは歌だけでなく、自身をも使い聴衆を魅了できるかもしれない。歌の効果を極限まで高められる可能性もある。そう考えた倭花菜は細かな舞の手ほどきを件の鎮官に頼んだのだ。弁財天女伸の好む形や動きに歌の調子と体の動きをあわせる必要がある。それは優雅に、重力を感じさせない動きでなければならない。
倭花菜は宴の場で、練習の成果を存分に発揮してみせた。
移動に合わせて声を出す。耳だけでなく目からも聴衆をとらえれば、五感のうちふたつを牛耳ったことになる。
弁財天女神は衣服を捨てさった倭花菜に、場を好きなように操る力を与えた。
倭花菜の意志で舞に合わせて蝶が飛ぶ。
池の水際に生えた桜が満開になる。
鳥たちが合唱を添えるそばから、花の芳香がかぐわしく漂う。
指のひと揺れ、笑みのひとつで世界が綻び華やいでいく。場のすべてを掌握した倭花菜は美の骨頂にいる。
憧憬の耳目を一身にあつめた倭花菜は、何より誇らしかった。
(誰もあたくしを止められない、ついてこられない)
その絶頂感を邪魔したのは、突然に後ろから響き渡る筝の音だった。
踊りながら振り返ると、古謝が無心に音に合わせ筝をひいている。上手くこちらの歌に添い倭花菜の構築した世界へ踏み入ろうとしてくる。
(あたくしについてこようと? いいわ)
倭花菜はすうと息を吸い曲を変えた。前触れもない転調はあざやかで不自然さは残らない。これについてこられるか。
〽あけわたる 高嶺の雲にたなびかれ
光消えゆく弓はりの月
〽きょうの雨に 萩も尾花もうなだれて
憂いがおなる秋の夕暮
もともと合奏する予定だった『水宴の曲』だ。曲調もテンポも違うし、意図を知らない古謝が急な曲変化に対応できるはずもない。しかし古謝は見事にあわせてきた。転調をいち早く察すると、合間にアドリブをきかせるという機転まで発揮してみせたではないか。
腹立たしい、業腹だが倭花菜は気にしないことにした。この場でなにより輝くのは神威を借りた自分のはずなのだ。
(あたくしは本領を発揮すればいい)
声をはり高らかに歌いあげる『水宴の曲』は佳境に入っていた。
〽ふくる夜の 軒のしずくのたえゆくは
雨もや雪にふり変わるらん
〽むら雲の たえまに星は見えながら
夜行く袖に散るあられかな
『水宴の曲』とは、移ろいゆく水の神秘を歌ったものだ。雨、雪、雲、霧、あられ、霜――それらの歌にあわせ、楽器で情景をあらわす特徴的な音を奏でる。同宮で筝を扱う菊迷(きくめい)が「筝曲の中でもかなり難しいですよ」とこぼしていた難物でもある。それを、驚くべきことに古謝は玄人顔負けで弾いてみせた。
あられが散るのをスクイ爪で鋭くバラバラと表現する。軒の露や雨音を擬音的に、水が落ちたように奏でる。
大池のある庭は青空で天気がよかったのに、曲にあわせて霧雨が降りはじめた。蒸気のように薄くしっとりと空気を濡らす霧粒の雨。
満開に咲いた桜の花が色づきぬれ、空気が湿った重さを帯びてくる。それまでうららかな春の気配だったのに、筝が加わることによってかすかな不穏が入りこみはじめていた。倭花菜の支配を一部、筝の音が奪いかき乱したせいだ。
聴衆も微妙な気配を察し違和感に表情が翳りだしている。本能的な恐怖、コントロールのきかない神意に触れたことを無意識に感じているのだ。
倭花菜は最後の段を歌いあげたが、腹立たしいことこの上なかった。古謝の音をどうあがいても振り払うことができない。
〽白玉の 秋の木の葉に宿れりと
見ゆるは露の計るなりけり
〽朝日さす かたえは消えて軒高き
家かげに残る霜の寒けさ
歌が終わり筝の音も止むころ、場はひんやりとしていた。春穏やかな気候のはずが、吐く息が白くなるほどに空気は冷え切ってしまっている。倭花菜は身を震わせて、脱ぎ捨てた黒衣をそっと身につけた。振り返ると、古謝は筝の上につっぷしていた。疲れたのか肩で息をして、それでも横向く顔は恍惚と満足げだ。
(あたくしの楽をよくも)
怒りを伝える暇もなく柘榴帝が立ち上がり、優雅に拍手を送ってきた。
「すばらしかった。名は?」
倭花菜は慌てて膝を折った。
「倭花菜と申します。……陛下」
「倭花菜。いいから立って、顔を見せて」
静かに立ちあがった倭花菜は、池の向こう側をその時ようやくじっくりと眺めた。居並ぶ妃嬪(ひびん)たちの半数は困惑した顔で、もう半数からは強い敵意を感じる。
はじめてまともに目にした柘榴帝はすらりとした痩躯だった。気品が感じられる顔立ちに珍しい水色の瞳。女宮のなかではやたらと柘榴帝の評判がいいが、このいかにも女好きのする優しげな風貌を見れば納得だ。
(でもそういう奴にかぎって、馬鹿だったり性格が悪かったりするのよね)
倭花菜は異性を見た目で判断しない。そういった点からもすぐに冷静な判断と対処ができた。柘榴帝のすぐ横に美蛾娘が不満げに座っているのを見て、即座にそちらへも膝を折る。
「美蛾娘お姉さま、ご機嫌うるわしゅう」
柘榴帝は和やかに美蛾娘を見て、無言でわけを問いただした。美蛾娘はしかたなく金扇で口もとを隠し答える。
「あれは、私の姪じゃ」
「なるほど。ということは、麗空(れいくう)家の者だね」
にっこりと笑んだ柘榴帝からほのかに甘い香りが漂ってくる。倭花菜はその匂いに顔をしかめそうになった。すべての者を支配しようとするその香りが、誇り高い倭花菜には許せない。精神力で薫香に打ち勝った、それを見越したように柘榴帝はうすく笑む。
「決めた。今夜、君のところへ遊びに行くよ、倭花菜」
意味をこめて名を呼ばれたとき、さしもの倭花菜もどきりとした。火照る頬を隠すように頷くと、柘榴帝はさっさと場を退出してしまった。妃嬪(ひびん)たちが一斉に立ち上がり見送りの礼をして、後には薫香の強い香りだけが残される。大池のある庭はまるで夢から醒めたように、まどろむ気だるさが残されていた。
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