神触れ人は後宮に唄う

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****  「七夕の会」は毎年夏にひらかれる。倭花菜はその曲目のことで苛立っていた。 「どうしてあたくしの選んだ曲がないの!?」  楽舎の長、球磨羅(くまら)楽人から届けられた曲目の紙に倭花菜の選んだ曲がひとつもない。一緒に宮へ届けられた手紙には「すでにこの通り楽人たちは練習を始めており、日取りも迫っているゆえ変更はできない」ときっぱり書かれてある。後ろに続く長ったらしい謝罪文を読む前に倭花菜はそれを破り捨てていた。 「いくら楽舎の長でもあたくしに逆らうなんて許さない! 球磨羅楽人!」  床へ放り投げた手紙を何度も踏みつぶしていると、来客を告げる鈴が鳴った。  倭花菜はハッと顔を上げた。夜である。こんな陽暮れに訪う無礼をかえりみない相手は限られる。とっさに手櫛で髪を直してしまった。はじめての伽以来、天帝の訪れはない。嫌われてしまったかと案じていたところだ。期待と不安を半々に抱え待っていると、現れたのは美蛾娘だった。 「なんじゃ、そんな顔をして」  ころころと笑われ倭花菜はむっとする。たしかに薫香(くんこう)の匂いはしなかったが、こんな風に思わせぶりに来なくてもいいのに。 「ご機嫌うるわしゅう、お姉さま」  つんけんした礼にも上機嫌の美蛾娘は動じない。来客用の椅子に勝手に座った美蛾娘は、派手に開いた衣の裾から生足を見せびらかし笑っていた。 「こんな時間に悪かったのぅ。伝えておきたいことがあったのじゃ」 「なんでしょう」 「その前に。七夕の会の準備はどうじゃ?」  くつりと笑んだ視線の先に破りすてられた曲目の紙が転がっている。とっさに頭に血がのぼったが、倭花菜はなんとかこらえた。分かって嫌味で言っているのだ。  怒りを隠すため、倭花菜は冷茶を持ってくることにした。部屋の隅に置いた茶器に冷やした龍井茶(りゅうせいちゃ)がいれてある。それをふたり分机に運ぶ間に心を落ちつかせていた。 「なかなか、うまくありませんわ」  美蛾娘の向かいに座し、ひと息に茶をあおる。深みある茶で喉を潤せば思わず吐息がもれた。夏の暑さは知らずこたえていたようで、涼をとれば気分もおさまってくる。  美蛾娘は碗から品よく茶を飲み、その冷たさに目を細めていた。 「良い茶じゃ。だが、淹れたてではないな」 「……申し訳ございません」  本当は淹れたてをすぐに冷やし運んでくるのがよいのだが、倭花菜が席を外すわけにもいかないし突然の来訪だから仕方ない。同宮の嵐と菊迷はここ数日姿が見えず、二人に雑用を押しつけていた倭花菜は不便でそのことにも腹を立てていた。怒りを鎮めるためもうひと口茶を飲むと、喉奥がすぅと冷やされ心地よい。美蛾娘はころころと笑っている。 「今度、妾の宮から薔薇露でつくった茶をもってこさせよう。龍井茶もよいが、そなたの喉にはもっと高貴なものをあてがわねばなぁ」  倭花菜は形だけ礼を言っておいた。美蛾娘から与えられる物など怖くて口にできない。敵愾心を冷茶で飲みくだし笑顔をつくる。 「それで、七夕の会のことでわざわざお越しに?」 「そうじゃった。いや違う。近ごろ妙な噂を聞いたのでな」 「噂、ですか」 「妾も驚いておる。そんなことはないと思ったが、人づてに耳にしたのじゃ。『倭花菜楽人が、美蛾娘を跪かせると豪語しておる』と」 「まあ。誰がそんな嘘を」  奥歯をぐっと噛んでこらえた。身に覚えはなくもない。  天河(てんが)で古謝や蓮を呼び寄せ、演奏をさせた時のことだ。船上で誰もいないからと有頂天になって口を滑らせた。古謝と蓮は男宮の人間で美蛾娘と連絡をとりあうのは難しい、だとすれば他に考えられる密告者は誰なのか。 (そういえば、鎮官が何人かいたわ)  そこから話がもれたのだろうか。ありえなくはない。冷や汗が背を伝い、倭花菜はまたひと口と茶をあおる。  美蛾娘はくつくつ笑っている。 「事実ではないと申すか?」 「ええ、まったく身に覚えがありません。誰がそんなことを」  なんとしても白を切りとおすしかない。たとえ告げ口をした本人が目の前に現れても認めるわけにはいかなかった。美蛾娘の悪口を言えばそれだけで罰されかねない。天帝の寵があろうが美蛾娘はためらわないだろう。最悪の場合殺されてしまう。  目をすがめた美蛾娘は上機嫌に笑みを絶やさない。得体のしれない機嫌の良さに倭花菜は戦慄する。 「よかった、妾もそう思っておった。だから持ってきてやったぞ」 「? ――なにを」  美蛾娘が手を叩くと、宮の外から四角い大きな竹籠を持った鎮官が現れた。  鎮官は籠のふたを開け、中身を無造作に床へ転がした。質量のある黒い鞠がふたつ、ごろごろと落ちる。 「ひっ――!?」 「不届きな輩じゃ。わが姪を陥れようとするとは、なんとも罪深い」  それは嵐と菊迷の首だった。二人とも両目がない、歯も舌もない。いったいどれほどの拷問のすえに殺されたのか、なぜ二人が殺されたのか。倭花菜は頭だけとなったその苦悶の表情から目が離せなくなった。知らず叫びそうになり、喉を絞められた痛みにむせる。 「っ、――ッ!?」  声が出ない、喉が焼けたように涸れている。ぜぇひゅぅ風のような音が鳴るばかりで、とっさに冷茶に伸ばしかけていた手を止めた。この茶は。 「声が出ぬのじゃろう。可哀想になあ」  美蛾娘は立ち上がり、足元に転がる首をひとつ取り上げた。嵐の首だ。 「同宮のものにずいぶんと嫌われておったようじゃのぅ。妾のもとへ一人が告げ口に来て、もう一人は妾に組したいと言ってきおったわ。無論、妾はとりあわなかった。冗談まじりにこう言ってやったのだ――『倭花菜の飲む茶に喉を涸らす毒を混ぜよ。さすれば考えてやる』と。まさか本当に実行するとは。冗談のつもりだったのに、ほんに罪深いやつらじゃ」  実のところ、真実はすこし違っていた。  美蛾娘はまず鎮官に気の弱い菊迷を自分のもとへ連れてこさせた。倭花菜の宮の茶に毒をしこむように脅し、怯えた菊迷が言うとおりにしたのを見届けてから罪をなすりつけて処罰したのだ。嵐はその際に巻き添えとなった。ひとり殺すもふたり殺すも同じこと、美蛾娘は存分にふたりの悲鳴と血肉を堪能し満足している。  事実をそのままでなく歪曲して伝えたのは、倭花菜に「裏切られた」と感じさせるためだ。同宮でわずかながら情もわいただろう二人に裏切られ、陥れられる――そう思わせたほうがダメージは大きくなると計算してのことだ。  机の上に嵐の首がこつりとのせられる。  美蛾娘はにっこりと笑んでいた。 「安心せい、妾がふたりとも罰しておいた。これでおぬしはゆうるりと天帝の寵をこえる」  倭花菜は椅子から立ち上がろうとして、よろつき床へくずおれた。  喉が熱い、肺から胸が痛む。焼け爛れたように引きつれている。 (声が、あたくしの声が!)  菊迷と嵐に裏切られたことは倭花菜にとって大きな衝撃だった。高貴な身分の倭花菜には友と呼べる存在はなく、同宮のふたりにそれに近しいものを感じていた。少なくともふたりが窮地にあれば助けてやろうと思うくらいには、親しみをおぼえていたのだ。 (今まで多少手荒く接したかもしれない。けれどこうまでされるなんて)  倭花菜が何より大切にしてきたのは声だ。それをふたりは分かっていたはずなのに、いったいどちらが茶に毒を仕込んだのか。 (あっさりと裏切られた。そんな素振り微塵もみせないままに――!)  混乱と恐怖で涙に滲む視界に、美蛾娘が天女のように微笑み指をのばしてくる。顎を無理やりに掴まれ、じぃっと顔を眺めてくる。 「見よ」  顔を向けられた先に、床に転がる菊迷の首があった。 「おぬしにはまだ両目がある。歯も舌も耳も鼻も、首から下も五体満足じゃ。人の身体に臓器がいくつあり骨が何本あるか。筋肉や腱の数は? くくっ、楽しみじゃのう」  本能的な恐怖に下がると、美蛾娘は追ってはこなかった。笑いながら「また来る」と言い残しゆったりと宮を出て行く。後には恐怖にふるえる倭花菜がぼろ布のように残された。
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