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「七夕の会」は男宮の竹涼殿で行われる。
蓮は、天帝の座る席や楽人の立ち位置を、楽舎の長・球磨羅(くまら)楽人からあらかじめ細かく聞き出しておいた。
球磨羅楽人は「なぜそんなこと」と怪訝そうだったが、蓮が「失態を取り戻したいのだ」と答えればそれ以上追及はしなかった。前回の宴で蓮が一音も演奏できなかったことを、楽舎の人間なら誰もが知っている。楽人にとって演奏での失敗はなによりこたえるものだ。倭花菜の横暴を聞いた球磨羅楽人は蓮に同情的だった。
「蓮は真面目で責任感もある。演奏に対しあれだけ思いつめるのだ、次こそうまくやってくれるだろう」
球磨羅楽人は気遣いから、蓮に次の「七夕の会」で主旋律の演奏を任せた。楽人として気概を取り戻す機会を与えたのだ。
しかし蓮は「柘榴帝を殺せなかった」ことにばかり思いつめていた。倭花菜が歌で見事に帝の気を引き、伽の機会を与えられたことにも腹を立てている。柘榴帝に接近できる機会をみすみす逃した、それが蓮には許せない。
(次こそなんとしても)
蓮が「七夕の会」の席次や立ち位置を確認したのは、柘榴帝を確実に殺すためだった。演奏で気をひき暗殺を、などと悠長なことはやめた。
(竹涼殿ごと爆破してやる)
ほかの参加者も巻き添えになるがしかたない。死をも恐れない蓮は過激な行動に出ようとしていた。
「音の響きを確かめたいから、竹涼殿で練習をしたいのですが」
そう真摯に頼みこめば、球磨羅楽人は快く応じてくれた。足しげく竹涼殿に通う蓮を他の楽人たちもみな「立派なものだ」と優しく見てくれる。
蓮はその間、竹涼殿の床下へ潜りせっせと爆薬をしかけていた。
次の宴は夜に行われる。松明や灯篭の明かり、爆発の火種は部屋中に多く置かれる。当日は演奏しながらそれらに近づき、爆薬の導火線に火をつければいいだけだ。
「これならきっとうまくいく」
急きたてられるように蓮は柘榴帝を殺す準備を進めた。先の宴で柘榴帝の顔を見たとき、自分のなかで何かが崩れはじめたことに気づいていた。これまで一度たりとも揺らがなかった復讐心、それをつき崩す契機が自らの奥でたしかに叫び続けている。
「考えるな。どうでもいいことを忘れるんだ」
心が軋むように悲鳴をあげていた。不安と混乱でどうしようもなくなったとき、蓮は竹涼殿でひとり笛を吹いた。「七夕の会」の曲の練習がわりに、時間が余れば自然と奏でたくなった曲も風にのせる。
〽積もる恨みの数々を
いつかはらさぬ今宵のうちに
思ひ知らすや思ひ知れ
その日奏でた曲は詞こそ恨みつらみだが、意味は戻らぬ恋人への泣き言だった。吹き終わるまでその曲を選んだことに気づかなかった蓮は、笛を離した瞬間に愕然とした。
「くそっ!」
竹涼殿の床をこれでもかと踏みしめる。地団太を踏んでも、脳裏に浮かぶのは先の宴での柘榴帝の笑みなのだ。
なぜあんな顔で笑ったのか。じんわりと再会を喜ぶよう、心から浮かび上がるような表情だった。
知っていた。自分はあの笑顔を知っていた。
幼少のとき、たしかに何度も会ったことがある――まさか皇族だったとは。
「違う、どうでもいいことだ」
今日この時まで彼のことを憶えていた。それこそが、その記憶を大切にしてきたことの証だ。ずっと再会を夢見て、いつかまた大切な友と会えたらと。本当に彼を殺す必要があるのか。
「違う違う! うるさい!」
殺してやる殺してやる、殺してやる。
復讐こそが唯一の指針、生存価値なのだ。先の天帝が死んでしまった以上、その子を殺すのは当然のこと、そうでなければなんのために今日まで生きてきたのか。
「これでいい、俺は何も間違えてない」
きっと殺せる。震える両手を蓮はひとり睨みつけていた。
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魔醜座(ましゅうざ)は「七夕の会」には嫌な予感をおぼえていた。
警護として招かれた日の夜、会場となる竹涼殿を前に立ちつくしてしまう。質素な檜造りの建物が屋根ごと燃え落ちる幻影を見たのだ。
(今のは――)
暗い夜空を背景に、赤々とした炎が竹涼殿を包みこんでいた。悲鳴を上げ炎にのまれ燃えあがる貴人たち――その中には自分の姿もあった。天へとのぼりゆく黒煙。
刹那に幻は消えていたが、中へ入るのをためらうには十分な内容だ。建物の前で立ち止まった魔醜座を同僚たちが不思議そうに追い抜いていく。
(なにかある)
竹涼殿の上空はどす黒い殺気に満ちていた。魔醜座は注意深く、一歩ずつたしかめるように中へと進んでいった。
招かれた女宮・男宮の妃嬪たちはすでに着席し、コの字型に座っていた。総檜(ひのき)造りの建物は広い竹庭に面している。風雅な笹庭を眺められるよう奥の壁はすべて取り払われ、貴人たちの席の真ん中に楽人用の畳が用意されていた。最奥の金屏風の前が天帝の席、そのすぐ横に今日もきらびやかな美蛾娘が陣取っている。
柘榴帝は刻限よりだいぶ早くに到着したらしい。後から入る鎮官や妃嬪たちがみな恐縮し挨拶もそこそこに着席していく。鷹揚にうなずく若い帝は機嫌よく、そんなこと気にもとめない風だ。座を眺めた魔醜座は炎の位置をしっかりと視線でたしかめた。部屋の四隅や楽人席の隅、それから柘榴帝のすぐ後ろに高燈台が置かれ、あざやかな炎が燃えている。どこにも異常がないのを確かめて、魔醜座は鎮官たちを炎の横へひとりずつ配した。自らは部屋の中央、楽人席の横に座して控える。すぐ側で燃える火明かりが不穏な音で小さく爆ぜている。
なにかあれば鎮官たちが火に対応できる準備を整えてから、魔醜座はようやく気がついた。楽人がまだ一人もいないのだ。倭花菜も蓮も古謝の姿もなかった。楽舎の長である球磨羅楽人の姿ですらない。
場が静かにざわめくのを美蛾娘は愉快そうに、柘榴帝は無表情に眺めていた。
誰かが立ち上がろうとした、その気配を抑えつけるようにふと場が静かになった。漂う空気が重くなり、その場にいた全員が息苦しさをおぼえた。
しんとした室内に軽い足音がして蓮が現れた。黒くつや光りする龍笛を手に現れた、その気迫はすさまじい。今にも倒れそうなほど蒼白な顔なのに、両目はぎらつき研ぎ澄まされている。
「遅くなり申し訳ございません」
通り過ぎざま、魔醜座は蓮の背にどす黒い殺気を見た。止める暇もなく柘榴帝が口を開いてしまう。
「他の楽人たちはどうした?」
「古謝は腹痛で来られません。球磨羅楽人がいま、様子を見ています」
「倭花菜は?」
その質問を待っていたように美蛾娘が立ち上がった。
「あれは風邪をひいたのじゃ。可哀想に、来られぬことを嘆いておったわ。代わりと言ってはなんじゃが」
美蛾娘の視線の先で着飾った宮女がひとり立ち上がる。正式な楽人かはわからないが、倭花菜の代わりなら何らかの楽をたしなむのだろう。柘榴帝はすばやく片手をあげ、それを制した。
「必要ない。今日は笛だけを聞こうじゃないか。先の会では笛を聞けなかったからね」
柘榴帝の笑みにねぶられ、蓮は身を強張らせている。魔醜座はそのすぐ後ろから蓮の様子を観察した。
(あのどす黒い怒り)
常人には見えない感情の波。神触れ人(かみふれびと)の激しい怒り、信念や誇りの感情はすべて神威を借りるための力となりうるものだ。
魔醜座は蓮の一挙一同を見逃さぬように控えていた。なにかあれば鎮官の自分が止めなければならない。
蓮はしばらく柘榴帝とにらみ合っていた。柘榴帝は脇息にくつろぎ、笑っている。
いかにも気安い雰囲気で柘榴帝から注がれる澄んだ水色の視線――やがて根負けしたのは蓮のほうだった。目をそらすと龍笛を構え、蓮は全員の視線を集めてから息を吸う。笛の音を待ち、緊張が一点に集中する。
そのとき、建物の入り口に球磨羅楽人と青ざめた顔の古謝が到着した。
「まって!」
絞り出すような古謝の声に、蓮が振り返らずに背で答えた。
――もう遅い。
笛に息が吹きこまれる。なだらかで細い音がゆっくりと奏でられていく。
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