神触れ人は後宮に唄う

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〽焦がれ焦がれて逢瀬は苦労  楽しむなかに何のその  人目堤のあらばこそ  うれし世界に住み馴れて  笛の音に歌詞はない。けれど不思議と奏でられる節があるべき情景を教えてくれる。  涼やかな旋律は、夜にかくれ逢瀬をたのしむ男女を火影に映しだした。あまやかな恋の情景に居並ぶ妃嬪たちはうっとり聞きほれる。優しかった音は少しずつ、けれど静かに波乱を帯びて情景を無惨なものへと変えていった。 〽焦がれ焦がれて逢瀬は苦労  楽しむなかに何のその  人目堤のあらばこそ  うれし世界に住み馴れて  また同じ節の繰り返しだった。そこに表現される光景は、けれど先とはまるで異なるものになっていた。  恋の炎が激しく燃え上がり、灼熱の業火となって歌の中の男女とその周囲を焼きつくす情景だ。甲高い悲鳴をあげ、焼け爛れていく人々の姿。つんざく悲鳴と炎の爆ぜる熱、肌が焦げる異臭までもが笛の音により表現されていた。  聴衆は顔をしかめ、あまりの異様さに吐くのをこらえている。魔醜座は音の圧力を感じながらも怪訝な思いでいた。 (これだけか?)  蓮は神触れ人なのだ。たかが笛の一音で空気をここまで変えてしまえるのはおそろしいが、怒りにまかせて不快さを表現するだけなら何も問題ない。そう、天帝を傷つけようとさえしなければなにも――……。  蓮はゆっくりと歩きだしていた。天帝の席とは反対へ、部屋の端へと歩いていく。そちらに何があるというのか。  魔醜座は目をみはる。  蓮の背後に巨大な毘沙門天神が姿を現しはじめたのだ。怒れる神が火の粉を散らし、無数にある手を伸ばした先には、 「ッ!?」  とっさに立ち上がろうとして、魔醜座は上から見えない圧力に抑えこまれた。 (つぶされる、体が重い――!)  重みに耐えかね床にへばりついているのは他の鎮官たちも同じだ。炎のそばに配した全員が毘沙門天神の無数の手で押さえつけられている。蓮は演奏を続けながら静かに室内を睥睨した。 〽焦がれ焦がれて逢瀬は苦労  楽しむなかに何のその  人目堤のあらばこそ  うれし世界に住み馴れて  悪夢のように同じ旋律が繰り返される。  立ち上がろうとすると逆にきつく上から抑えこまれ、床に倒れてしまう。逆らおうとすればするほど重みが増す。衝撃に息がつまり咳をしたと思ったら、魔醜座は血を吐いていた。押さえつけられ圧力に内蔵が傷ついたのか、体がうまく動かせない。  魔醜座にはようやく蓮の意図がみえてきた。彼が求めているのは高燈台の炎だ。部屋の隅にあるその火の下に、おそらく何か良くないものがある。場の全員が蓮の笛に気をとられ、この異常事態に気づいていない。みな蓮をじっと見つめ凍りついている。毘沙門天神が場の空気と視線を音で固めて支配していた。酸素が消えたように息がつまる。どろつく気配で全身が泥の中にあるようだ。  部屋の隅にある炎へ蓮がゆっくり手を伸ばす。  魔醜座は藁をも掴む思いで炎の側にいた鎮官の姿を探していた。炎のすぐ横に配していたはずの同僚はすでに床にひしゃげ血まみれになっていた。どうやら蓮を止めようとして逆に毘沙門天神に押し潰されたらしい。床におびただしい血が流れているのに、誰も惨状を気にもとめない。その死に気づいていないのだ。異変に気づいているのは、鎮官など一部の人間だけだ。 (間に合わない!)  蓮の指先が燃える燭台に届く……その寸前、軽やかな音が空気を動かした。一陣の風が吹き抜けた気がした。  蓮のすぐ前にあった炎が消えた。魔醜座の後ろ、部屋の中央にある畳の上で、息も絶え絶えの古謝が筝の前にうずくまっていた。筝の音。かすかな一音が炎をかき消したのだ。 (あと少し、あと少しで届く)  蓮が手をのばしたその先で求めていた炎がふと消えた。高燈台で揺れていた火には誰も触れていない、風すらなかったのだ。ただ一陣のしゃんと鳴る筝が空気を震わせ火を消してしまった。そうとしか思えない。  蓮は反射的に振り返った。部屋の中央、楽人席の筝の前に古謝の姿がある。 (馬鹿な)  青ざめた古謝は苦痛に汗を滲ませ、それでも蓮を睨んできている。ここへくる前、蓮は古謝に毒を盛ってきたのだ。命に関わるようなものではない、けれど意識を保てなくなるくらいに重度の毒だ。腹痛、吐き気、眩暈、古謝はいま座っているだけでもやっとのはず。すばやく視線を巡らせれば、部屋の隅で球磨羅楽人が青ざめへたりこんでいる。古謝をここまで担ぎ間に合せようと走ってきたのだろう。 (余計なことを)  蓮は自分がうっすら笑むのを自覚した。怒りのせいだ。 (死にたいなら死ねばいい。ただ邪魔だけは許さない)  息も絶え絶えの古謝へと近づいていく。繰り返し奏でていた旋律を、より鋭くなるようもう一度吹いた。 〽焦がれ焦がれて逢瀬は苦労  楽しむなかに何のその  人目堤のあらばこそ  うれし世界に住み馴れて  ****  蓮は笛を吹くことで己の信念を貫き通せる気がした。甲高い音に気分が落ちつく。誰かが背後から自分を後押ししてくれている気がする。見えない大きな存在は音にこたえて力強い声で進むべき道を教えてくれている。 (導火線はまだある。もうひとつある)  爆薬への道はひとつではない。予備の導火線は一番近づきやすい部屋の中央、楽人席の角にも用意してあった。  古謝が察したように呻き、筝をかき鳴らそうと身じろぐ。動くなと無言で命じた蓮の言葉が笛にのり、音の圧力となって古謝を抑えつけた。 「あ、……う……」  古謝が筝の上に倒れた。それでも弦へと手を伸ばす横で、筝の弦が一本ずつ切れていく。鋭く鳴らす笛が音の刃となって、古謝から音の出もとを刈りとった。  畳の角に立てられた高燈台、その下の床穴からは白い捩じり紐の導火線がのぞき見えている。蓮が炎に近づくと、うずくまっていた魔醜座(ましゅうざ)が血を吐き、恨めしげに見上げてきた。 「や、めろ……」  腕をあげようとした魔醜座の身は笛の音にあわせ押し潰された。意識を失った魔醜座を無視し、蓮は無心で炎の中心へと手を伸ばす。 (あと、すこし)  何をしているか、すでに考える必要はない。ただ蝋燭をつかみ取り導火線に火をつける。簡単な動作だ、なにも臆することはない。失敗はしないと誰かが後ろで囁いた。爆薬にも導火線にも不備はない、ただこの火を導火線に移せば長年の恨みが晴らされるのだ。 (恨み――?)  ふとおぼえた違和感に蓮は内心首を傾げた。  恨み、そうだ違いない。自分の家族を皆殺しにした先帝への憎しみをけして忘れはしない。  どす黒い怒りに目の前が染まっていく。  指が蝋燭の火に伸びた。  すでに笛の音はしない、演奏は止めている。問題ない、火はもう間近にあるのだから。あと数秒で手に入る。じりじり焦げる蝋燭の熱に指先が鋭い熱さを感じ出す。  これで終わる。積年の恨みも憎しみも、そして自分の人生もなにもかも――そうやって伸ばした手を、力強い別の手が握り止めた。 「止めなさい。俺がそんなに憎いか?」  柘榴帝だった。音もなく死角から近寄ってきて、炎の前に立ち塞がった青年は蓮の右手をしっかり掴み止めていた。水色の瞳に火がうねり揺れ複雑な感情が見え隠れする。怒りでも哀れみでもない、いっそ慈悲深いとさえ言えるような瞳に蓮は息をのむ。なんという顔をしているのだろう。 「俺を、殺したいのか?」  問いは囁くほどの音量だった。周囲に聞こえない程度の声に蓮は唖然と固まってしまった。 (『憎いか』?)  すんなり出るはずだった答えが出てこないのだ。当然あるはずの答えを自身の中で探り、燃える火影に視線をずらした。炎の手前でがっちりと握り止められている己の右手。簡単に払おうと思えば振り払える。今ならこいつを殺せる。左腕だって自由なのだから、今なら。これほどに接近した今なら、火など使わなくとも簡単にこの手で殺せるのに――……。  憎いか。  視線を戻せば、間近にある水色の瞳は緊張しているようだった。  急に笑いだしたくなった。  憎いか? なぜそんなことを聞くのだろう。  爆薬など遠回しな方法を選んだ理由に思い至った。もっと身近にこの手で殺せる方法があったはずだ、それなのに自分はもっとも迂遠な手段を選びとった。 (それはなぜ)  馬鹿げている。この世のすべてを有し絶対的な権力を持つ柘榴帝が、自分のことなど指先ひとつで殺せてしまう帝が怯えたように答えを待っているのも。またとないこの好機にぴくりとも動かせない自分の体と意志にも。忌々しい、今こそ己を殴り殺したい。  すでに答えを知っていた。 (馬鹿げてる)  笑おうと吐き出した息は震え嗚咽になった。瞬間に、答えを悟った毘沙門天神は失意の顔つきでその気配をうすめていった。  覚悟は崩れ、恨みはうすめられた。蓮が真に恨んだ対象はとっくにいない、死んでしまった。抹殺したかった相手は柘榴帝ではない、すでに他界した鳳梨帝だった。 (わかっていたことだ、俺が殺すべきはこいつじゃない。わかっていたのに)  作り上げた虚構の怨嗟が消えると、張りつめた緊張がゆるみ蓮は膝からくずれおちた。とっさに帝が支えようと手を伸ばしてくるのに、蓮は抵抗すらしなかった。なにもかも、己の命ですらもう意味がない。生きる意味がないのだ。すべて消えてしまった。  暗く茫洋とした虚無のなか、蓮は静かに泣きながら目を閉じる。この世に見るべきものなどもう何もない、そう思った。今こそ世界がはじけ壊れてしまえばいいと。
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