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目がさめたとき、蓮は自分の宮で寝ていた。ぼんやり瞬けば古謝がずいと顔をのぞかせてくる。
「なんで俺の演奏の邪魔したんだよ!」
「ここは……」
「答えろ! なんで邪魔した!?」
蓮はゆっくりと身を起こした。頭がくらくらする。かすむ目で辺りを見れば間違いなく自分の居室だった。部屋は暗く、何時かはわからないがとにかく夜で、行燈の火がつけられている。喉が異様に乾き咳きこむと、怒りで顔を真っ赤にした古謝がそれでも水の入った椀を差し出してきた。のろのろとそれを飲み干し、回らぬ頭でようやく出せたのは間抜けた問いだった。
「お前、体調はもういいのか?」
自分に毒を盛られた古謝は高熱におかされ動けないはずだった。無理をおし宴の席へやって来たはずなのに、目の前の古謝は倒れるどころかぴんぴんしている。
「それもだよ! お前のくれた菓子、腐ってたぞ!」
思わずため息がもれ力が一気に抜けた。あれが毒だと古謝は結局気づかなかったのだ。
「悪かった。お前にはすまなかったと思っている」
「俺はもうなんともない。お前、何日眠ってたか知ってるか?」
「なに」
瞬間、蓮はハッとさせられた。何日? 何日とは――。古謝は刺々しくも教えてくれた。
「七夕の会」で倒れた蓮を柘榴帝がここまで運んできたこと。それから三日三晩、蓮がうなされ目覚めなかったことも。
「お前が倒れてる間、あの人がどれだけ心配してたか。大変だったんだからな!」
「嘘だろ」
蓮はほとんど話を聞いていなかった。
あれから三日だ。三日もの間、自分は生かされていたのか。あの夜、柘榴帝を殺そうとした思惑はあの場にいた多くの人間に、鎮官や帝本人も察していたはずだ。自分はすでに重罪人、反逆罪で九族皆殺しの刑である。それを何ごともなかったかのように宮へ戻し、牢にも入れず放置しているのか。
「なんであの人を殺そうとしたんだよ」
古謝は怒りをすこしおさめて悲しそうだった。蓮にはその言いようがおかしかった。
(こいつにとって天帝は人なのか)
古謝ほど純粋に物事を見られたなら、こんなことにはならなかっただろう。互いの立場や過去、すべての選択を感覚に任せていられたら、もっと気楽に生きられただろうと思う。けれど過去に縛られ生きる蓮には、それは無理なのだ。理性で考えないことも、これまでの感情を無に帰すこともできない。
視線を落とせば、柘榴帝を殺し損ねた自分の白い手のひらが見える。確かに殺せるはずだった。あの夜、あと少し伸ばせばこの手で。それが叶わなかったのは、
「べつに憎かったわけじゃない。ただずっと殺さなければと、そう思って……」
積み重ねてきた時の重みが自然にそうさせただけだ。勢いよく走る滑車が急には向きを変えられぬよう、蓮も人生を下降し一直線にここまできた。後戻りはできない、そうわかっていた。滑車がレールを外れるときは、自らが粉々に砕け散る瞬間だからだ。
「全然わかんない。わかりたくもないよ」
古謝は敵意に濡れた目で睨みつけてくる。考えてみれば、古謝からこれほど嫌悪を向けられたことがない。背を向け無言で去りかけた古謝はぽつりと言った。
「あの人、呼んでくる」
「え……」
「目が覚めたら呼んでくれって言われてたんだ」
「いやだ」
一気に血の気がひいた。
あの人。
会いたくない。もれ出た声は悲愴な響きになっていた。自分はきっとすがるような表情になっている。取り繕う余裕もなかった。行くなと、懇願の手を伸ばせば古謝は失笑し戻ってきてくれた。
「これ。返しておくよ」
安堵したのも束の間、布団の上に投げ置かれたのは半分に折られた龍笛だ。見慣れた自分の笛は頑丈な胴を割られ、無惨にもまっぷたつになっている。古謝が壊したのだろう。
蓮は茫然とそれを眺めおろした。楽器が壊れたこと自体は悲しくない。ただ簡単に壊れることのない頑健な笛を、あえて叩き壊した古謝の怒りの深さには愕然とさせられた。
「俺も筝の弦を切られたんだ。おあいこだろ?」
古謝はさっさと部屋の外へ出ていった。呼び止める暇も謝る隙もない、普段は何事にも関心の薄い古謝が敵意をむきだしにとりつく島もない。演奏の邪魔をし、楽器を壊した。それが古謝にとっての逆鱗だったと蓮はその時ようやく理解した。
動揺している間に薫香の匂いが漂ってくる。
(どうすれば)
柘榴と会い今さら話すこともない。それならいっそ殺してくれたほうがましだ。
足早に部屋に入ってきた帝を見て、とっさに折れた龍笛の片方を握りしめていた。いつも不安になったとき、緊張したときには笛をつかむ。黒くがっしりとした竹の冷たさは常ならささくれだった気を静めてくれるものだが、今は半分に折れ使いものにならない。それどころか不安を煽ってくる。
「起きたの? 具合は」
柘榴帝は白い顔をさらに白くし、水色の瞳でじっと眺めてきた。片腕に簡易筝を抱えた帝は、駆けてきたのか息を乱していた。一歩ずつ近づいてくる青年に、蓮はどうしようもなく龍笛の切っ先を向けた。
「来るな!」
つき出したのはなんとも頼りない武器だった。ぎざぎざに折れた笛の先、それでも刺されば致命傷にはなる。
柘榴帝を見て反射的に膨らんできたのは慣れ親しんだ敵愾心だ。これまで十余年、天帝憎しと殺意を磨き続けてきたのだ。その延長線上から簡単に柘榴帝が外れることはない。
すると相手はなぜか安堵に顔をゆるめた。つき出された笛など見えないとばかりまっすぐ寝台へ近づいてきて、気軽にそばに腰かける。
「体調は?」
「う、……」
後じさろうとしたのに動けなかった。
自身の顔が強張るのがわかる。薫香(くんこう)のせいだ。鼻から入るあまやかな香りが身体を痺れさせ、脳から思考を奪っていく。以前は抵抗できたそれに今はなぜか抗うことができない。「七夕の会」では薫香のことなど気にもとめなかったのに。
(なぜ体が動かない?)
神触れ人(かみふれびと)は神の寵を失えばただ人(びと)に戻ってしまう。蓮を加護していた毘沙門天神は、ゆるがぬ決意以外に興味のない神だった。加護神に背を向けられ、蓮は赤子のようになすすべがない。
笛を握る手が震え力なく落ちた。頭の芯が痺れぼうとしてくる。熱と上がる息を抑えるために目を閉じた。なけなしの理性にしがみつくしかない。
(落ちつけ、落ちつけ……!)
ゆっくり目を開くと、柘榴帝は折れた龍笛の先を寂しそうに眺めていた。膝上にある簡易筝の弦をなぞり俯(うつむ)いている。
「憶えているだろう、これ……昔のことも。後宮の裏庭で、こっそりふたりで遊んだよね。君はその龍笛を、俺は筝の練習をしてた」
憶えている。そうは答えずに蓮は気を静めようと黙っていた。答えを一拍待ってから、柘榴帝は諦めたのかまた口を開く。
「君は蔣家(しょうけ)の子どもだった。君の家は武官だったけれど、刀より笛のほうが好きだとよく言っていたね。朝議や祭事のたびに裏庭に来て。だから俺も自分を武官の息子だと偽った。君はまるで疑いもしなかった」
迂闊だったのだ。
幼い日、父に連れられ待たされている間に、暇をもてあまし勝手に王宮内をうろついていた。広い王宮の林の奥が後宮の裏庭に通じるなんて知りもしなかった。植えこみのなかに隠されるように抜け穴があったのだ。探検している子どもにしか見つからないような秘密の通路。草をかきわけた先に東屋があり、そこに柘榴帝がいた。退屈そうに暇をもてあまし、手すさびに筝の練習をしていた博識で綺麗な青年が。今思えば、彼はあそこに隠れていたのだろう。第二皇子たる柘榴は幼少期、常に暗殺の危機から逃げ回っていたと噂には聞く。
「……昔は、こんな匂いしなかっただろ」
歯ぎしるような蓮の悔悟に、年若い帝はきょとんと瞬き笑う。束の間、昔に戻れた気がした。幼い日々。友としてただ演奏をともにした穏やかな時に。幸せな瞬間がずっと続くものだと幼いころは考えていた。ただ無知だったのだと今ならわかる。
柘榴帝は穏やかに笑っている。
「薫香は天帝になる者に移るからね。昔はまだ兄さんがいた。それに、こんなことになるなんて思ってもみなかったよ」
喉に引っかかるもの言いをしたのは、父帝のことを口にしかけたからだろう。
蓮は先帝を恨んでいる。幼い柘榴の暗殺を目論んだとして蓮の一族はとり潰しとなったのだ。その命をくだした先帝だけでなく、きっかけとなった柘榴帝をも蓮はゆるせないままだ。それを彼はよく知っている。
「なぜ殺さない?」
天帝の暗殺をもくろんだ者は九族みな殺しだ。死よりつらい拷問を受け必ず殺される決まりなのに。
柘榴帝は膝に乗せた簡易筝を物憂げに眺めていた。最後に会ったときに約束をした。次に再会できたときには、
「いつかまた筝と笛を合わせようって。昔、そう約束したね」
「憶えてない」
絶句する相手に蓮はもう一度告げてやった。
「それにそんなこと、今さらどうでもいい」
落胆の表情をみせる相手が蓮にはおかしかった。いったい何を期待しているのだろう。昔に戻れるはずもないのに、自分に幼いころの日々を重ね見ているのか。
柘榴帝はそっと簡易筝を床へ降ろした。本当に演奏をするつもりで、約束をはたせると思って持ってきたものだとしたら滑稽だ。自分はもう昔のようには振舞えないし柘榴帝におもねるつもりもない。そう失笑した瞬間に薫香の匂いがいっそう強まった。
「蓮。本当に、憶えてないの?」
視界が回った。後ろに倒されたと理解したときには柘榴帝が上に乗っていた。
「ッ、離せっ!」
頭が、身体が心がしびれていく。甘ったるい匂いが鼻腔に満ち、吸いこむまいとしても徐々に指先から侵されていく。蓮は本能的な恐怖におののいた。自身のコントロールがきかないのだ。身体だけじゃない、心の自由も曖昧になってくる。
水色の憂いを帯びた目が降りてくる。綺麗な瞳だ。白くて大きな手のひらがこちらに伸びてくる。その手にすがりつけばいいのか。そうすれば、すべてを忘れ昔に戻れるのだろうか。
「っ、やめろ!」
とっさに握っていた龍笛を渾身の力で振り上げた。伸ばされていた手のひらに赤い筋が走る。蓮はそれを茫然と見た。うすく切れた柘榴帝の肌から血がひとたま滴り落ちている。たいした怪我じゃない、かすり傷。けれど振り上げた尖端をもう一度と相手に向ける気にはなれない。
(どうして。どうしてどうして)
殺すつもりだったのだ。たかが血の一滴、怪我のひとつくらいで動揺していたらきりがない。こんなことになるなんて。これじゃとても暗殺なんて無理だ。自分は柘榴帝を殺せないのか、元々殺せなかったのか。いつから――どうしてこんなことに。こんなことになるくらいなら。それならそれなら、いっそのこと。
「殺せよ」
真上で息をのむ気配があった。
「蓮、俺は――」
「殺せ!」
涙にくもる視界でやみくもに舌を噛みきろうとした。止めようとした帝の片手が伸びてきて、その手に思い切り噛みつくことになった。自害もさせない気か。手をひっこめろと強く噛みつくと、痛そうにしながらも相手はそのまま耐えていた。
「殺す気はない聞いてくれ! あれからずっと俺は君のことを」
うるさい、うるさいうるさいうるさい、聞きたくない!
「――っ! ―――ッ!」
振りきろうとあがく耳に祈るような声が届けられた。
「晧月(こうげつ)」
びくりと全身が固まった。すでに捨てた自身の本名が見えない縄のように身を縛っていく。
「晧月、晧月」
何度も名を呼ばれた。唇が頬を、鼻先や瞼をかすめていく。茫然と凍りついていると頬をぬぐわれた。どうやら自分は泣いていた。
「晧月。君は呼んでくれないの?」
目の前にあるのは水色の瞳だ。時を経てなお変わらないうつくしい色。過去の思い出が怒涛のように押し寄せ、現在と未来が混濁する。自分がどの地点にいるのかわからなくなる。確かなのは、手を伸ばせばそこに見知った顔があるということだ。
頼れる友、兄のような存在で、いつかまた会いたいと願ってきた記憶の奥底の存在。そっと閉じこめていた思い出は、蓮のなかではたしかに昔から特別で甘美なものだった。外界の出来事に壊されないよう、しまいこんできたそれが勝手になだれこんでくる。
「紅呂(くろ)……」
それが柘榴帝の幼名だった。皇族は成年すると名に一字足す。そんなことですら蓮は思い至らなかった。
水色の目が暖かく笑んでいる。
これは誰だ。
誰だ。誰。
「誰……?」
「俺は紅呂だよ。昔のままの、紅呂だ」
手のひらが頭を撫でていく。昔はよくそうやってほめてもらった。遊んでもらった、甘やかしてくれた懐かしい紅呂。大好きだった憧れの人との思い出は優しく、少し切ない。
「紅呂、紅呂」
やさしい笑顔が降りてくる。甘い匂いだ。
幼子に戻ったように蓮はすんと鼻を鳴らした。目を閉じる。ここに紅呂がいる。昔のように紅呂に会えたのだ。混濁する意識が優しい思い出を呼び起こした。またおやつをくれるだろうか。紅呂は思い切り甘やかしてくれた、いつも。武官である厳しい実の父より、時たま会う紅呂のほうが蓮は好きだった。自分もいつか彼のようになれるだろうかと憧れていた。無条件に彼を求め、いつも会いたいと焦がれていた。美しい瞳の気品に満ちた少年。今思えばそれは恋心に近かったかもしれない。
(また、いなくなってしまうだろうか)
「大丈夫だよ。もう大丈夫」
心を読んだような紅呂の声がする。手放しつつある理性と意識の片隅で蓮はほうと息をつく。もうなにも怖がることはない。考えることを放棄すれば、後に残るのは薫香(くんこう)の甘さと与えられる快楽だけだ。堕ちるときは甘美で無心だった。理性が消えた瞬間に、蓮は昔のままの紅呂を晧月(こうげつ)として受けいれた。
****
まばゆく白い光で目が醒める。朝の光を背に、寝台に腰かけていた柘榴帝が振り返る。逆光で見えづらいが笑っている。
「蓮」
蓮は身を動かさずに顔を腕で覆い隠した。
一夜明け、冷静に事態を考えられるようになってきた。理性が戻れば戻るほど心と矜持が傷つき刻まれていく。
自分はなんと愚かだったのだろう。薫香の匂いに惑わされ、何もかもを放棄してしまった。敵に身をゆだねたのだ。
(なんて醜態を。目の前にいるのはもう紅呂じゃない、柘榴帝なのに)
「蓮……?」
伸びてきた手をよけ首を振る。かすかな抵抗をそれでも相手は受け入れてくれた。衣擦れの音とともに気配が遠のき、そっと離れていく。
「また来る」
完璧に身なりを整えた帝は振り返らずに去っていった。
蓮はひとり寝台で茫然と壁を眺めていた。自分は一族を、血族を裏切ったのだ。柘榴帝を殺すどころか失敗し、逆に生かされこのざまだ。なぜ彼を受け入れてしまったのか。微睡みの中で思い出す時間が甘美であればあるほど、戻りつつある理性が鋭く蓮を苛んだ。
(なぜこんなことに)
答えの出ない問いだけが延々と繰り返され息がつまる。柘榴帝の考えがわからない。そして彼が紅呂であったとしても、その考えもわからないのだ。涙が感覚のない頬を伝っていく。
(憐れみから生かされたのか。同情から、あるいは蔑み辱めるために?)
もはや自分の生死すらどうでもいい。生きる目的を失くした蓮は、柘榴帝に矜持を奪われ自身の心にも裏切られた。薫香の匂いが消え理性が戻るほどになにもかもわからなくなる。この世のすべてが混沌として自死するだけの気力もない。
(死ぬ意味ですら見つからないのに)
蓮は茫然とそのまま寝転がり天井の継ぎ目を眺めていた。朝も昼も夜も、時間がかってに流れ過ぎていった。
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楽舎の裏手、倉庫が並んだ林の奥には誰も足を運ばない秘密の庭がある。紅(あか)いサルスベリと白い夏ツバキの花が咲く風の強い庭だ。
古謝は足しげくそこへ通っていた。
蓮が柘榴帝の寵を得てからというもの、自分の宮が賑やかで慌ただしくなった。運ばれてくる高価な品々や増えた警護、とりまきの鎮官たちを避けて落ちついた場所で筝の研究をしたかったのだ。新たな弾き方を工夫したり弦糸を変えてみたりして、筝の奥深さを踏破しようとしている。最近では新しい筝作りにも夢中になっている。木の胴を大きくし本来十三本の弦を十七本にまで増やせば、より多彩な音が出せることに気づいたのだ。
見本品の十七弦筝をつま弾き、今日も古謝は裏庭で譜面づくりにいそしんでいた。
誰に言われたわけでもないが、古謝には自然とどうすればいいのかがわかるのだ。音楽の探求は楽しく古謝はいつまでもこうしていたかったが、あいにくと自身の体が限界を訴えはじめていた。近ごろ視界がますます暗くなり、手に力が入らぬ日が増えている。急速に衰えつつある視力に抗い、古謝は紙と目を極限まで近づけて必死に譜を書き記す。視力は楽器の演奏にも大きくかかわる部分だ。目が見えなくなる前にやらなければならないことが古謝には多くあった。
そんな鬼気迫る古謝のもとに、今日も柘榴帝がふらりと現れた。
前にここで会ったときには誰だかわからなかったが、近ごろ蓮に会いに頻繁に宮へ顔をのぞかせるのでそれが柘榴帝だと古謝もわかっていた。わかったところで互いの態度が変わることもなく、会えば世間話に興じるくらいの仲だ。けれど古謝は一人になりたかった。静かな場所で譜を書きたいからわざわざここへ来たのに、柘榴帝の相手をしている暇はない。無視して譜を書き続けていると、黒衣の青年はかってに隣に座り物憂げにため息をついた。
「最近、蓮の様子がおかしいんだ」
古謝は無視をきめこんだ。柘榴帝はかまわずしゃべり続けている。
「一日中ぼうっとしてろくに何も食べない。俺がこまごま様子を見に行って、昼を一緒にとったり夜に食べさせたりはするけど、食欲もないみたいだ」
たしかに蓮の様子は最近おかしかった。演奏を邪魔された件でまだ怒っている古謝は面とむかって話さないが、遠巻きに見てもそれはよくわかる。
蓮は近ごろ寝台でずっと虚空を眺めている。あれだけ真面目でだらしないことにうるさかったのに、己の髪も整えず寝間着のまま一日中じっとしている。抜け殻のような蓮と一緒にいたくなくてここへ来ているのもある。あの淀んだ空気のなか、顔色の悪い蓮のそばにいるとこちらまで気分が沈んでしまう。
「君、何か聞いてない?」
問いを向けられ、しかたなく口を開いた。
「知らない。どうして蓮を罰さなかったの?」
うるさい相手を黙らせようと刺々しく聞いたら、相手は痛そうに顔を歪めた。
「なにも起きてないのに、何を罰する必要がある?」
「嘘。俺、知ってるよー」
蓮が柘榴帝を殺そうとしたこと。「七夕の会」で複数の鎮官が不慮の事故で死に、その原因がどうやら蓮にあることも。
(それから俺の筝も、弦を切られたんだ!)
握りしめた鉛筆の先が怒りで折れてしまった。それをどうとったか柘榴帝は目をすがめている。
「君は蓮のことが嫌いなの?」
「そんなことないよ」
不思議な質問に古謝は思わず手を止めていた。古謝は人を好き嫌いで判断したりしない。どんな人にだって好きな時もあれば嫌いになる時もあるし、人間とはそういうものだ。だから白黒つけるように好みの問題で人を判断する考えは、古謝にとっては新鮮だった。人の好嫌なんて、その時の気分しだいでどうとでも変わってしまうものである。
柘榴帝は真っ直ぐにこちらを見て言う。
「俺は、蓮のことが好きだよ」
愛しているとはっきりそう口にした。
だから「七夕の会」の事件をなかったことにしたのだろうか。
あの場にいた限られた人間は――楽舎の長・球磨羅(くまら)楽人、鎮官の魔醜座(ましゅうざ)、それに古謝とその他一部の者だけが、蓮のやろうとしたことに気づいていた。楽人席の隅、高燈台の下にあった白い導火線に火が移ればどうなったか。竹涼殿の床下から大量の爆薬が見つかったと球磨羅楽人からこっそり教えられていた。
『他言無用だぞ。このことは我らしか知らぬ。外に漏らした者は殺される』
球磨羅楽人が異様におびえていたのは、たぶん柘榴帝のせいだ。帝は蓮の件を完璧にもみ消していた。あの場では何事もなかったように倒れた蓮を介抱し、「演奏に魅せられたのだ」とそのまま寵妃にまでしてしまった。
「俺は蓮のためだったら何でもできる。今度のことでそれを思い知ったよ」
「ふうん。なら、早くあいつのところに行きなよ」
古謝には関係のないことだ。話が済んだなら立ち去ってくれるかと期待したが、柘榴帝は「分かってない」と顔をしかめる。
「できることならそうしてる。俺だってそうしたい。ただ、その」
古謝は苛々と折れた鉛筆を置く。帝を追い払わないと落ちついて譜も書けやしない。
「彼は……蓮は俺のせいで、その……俺がいないほうがいいんだろうか」
「知らない」
「なにか話してなかった?」
「だから、知らないって!」
堂々巡りのやりとりに古謝は苛々したが、相手も腹立たしそうな顔だ。言いたいことが伝わらずにもどかしいといった表情だった。「はっきり言え」と言いそうになるのをこらえた。面倒に巻きこまれたくない。けれど柘榴帝のほうが意を決したように表情を引き締めた。
「頼む。蓮の気持ちを聞いてきてくれないか」
「なんで俺。いやだよ、忙しいんだ」
「頼む。礼ならどんなことでも、物でもやるから!」
その言葉が記憶にひっかかった。似たようなことが前にもあった気がする。
「この前、頼んだことはどうなったの?」
「前?」
「神衣(しんい)曲だよ! 調べておくって言ったじゃないか」
はじめてこの庭で柘榴帝と会ったとき、神衣曲について調べておくと彼は約束してくれた。なにかひとつ礼をしてくれるというなら、古謝はそれをこそ欲している。
柘榴帝はしばらく無表情で黙っていたが、やがて頷く。
「教えたら、蓮に話を聞いてきてくれる?」
「いいよ。教えてくれるなら」
「わかった。俺が神衣曲について知っていることをすべて話そう」
古謝は紙と鉛筆を放り出し喜びに胸をふるわせた。ようやく神衣曲の譜が手に入る!
柘榴帝はもったいぶるようにしばらく黙りこんでいたが、やがて諦めたようにそっと目をふせ語りはじめた。
「神衣曲に譜は存在しない」
「えー!?」
思わず悲鳴をあげると、柘榴帝は「まだ続きがある」と視線で制した。
「譜は存在しないが、弾けないわけではない」
「どういうこと?」
「神衣曲は習得するものなんだ。譜や音といったありふれた事象からじゃない。体の五感と精神のすべてをつかって至高の音を降ろす仕組みだ」
意味がわからなかった。呆けていると柘榴は顔を曇らせる。
「俺が神衣曲について知っているのは、兄さんを探していたからなんだ。兄の不花(ふばな)は神衣曲に熱をあげていた。失踪した彼の日記にそのことが詳しく書かれてあったよ。兄は誰よりそれを求めていた」
「その人は曲を習得したってこと?」
古謝は体が空に浮き上がるようなときめきを感じた。やはり神衣曲は後宮にあったのだ。実際にそれを追い求め習得した人がいたのだから。
「いや、わからない」
けれど柘榴帝は白い顔を強張らせ、躊躇うように続ける。
「たぶん、無理だったんじゃないかな。あの手記を読むかぎりは――ねぇ、悪いことは言わないからさ」
「なんで止めようとするの?」
柘榴帝の兄・不花とやらはどうなったのだろう。たかが曲の習得ひとつ、どれだけ難解だったとしてもそれほど深刻に考える必要があるだろうか。今や古謝はありとあらゆる筝譜を習得しきっている。どんなに困難な奏法や音並びであっても軽やかに弾くだけの自信はあった。
「明日、この時間にまたここへ来てほしい。その時に兄の手記を持ってきて直接見せるよ」
だから蓮の気持ちを聞いてきてほしいと柘榴帝は言う。神衣曲の習得法を渡すのに、それが条件だと。
「わかった。何を聞いてくればいい?」
「その筆貸して」
柘榴帝は聞きたいことを紙へ細かく記していった。音楽以外のことにはひどく物覚えの悪い古謝のことだ、質問内容を頭で覚えていられるか不安だったのだろう。
「頼んだよ」
「任せてよ。ああ、楽しみだなあ……!」
うっとりと神衣曲に思いをはせる古謝を柘榴帝は神妙な顔で見ていた。柘榴帝の兄は神衣曲を習得しようとしてから行方不明になっている。安否も行方も杳として知れない、ただ彼が何をやったかはわかっている。神衣曲の習得。『神』の『衣』を纏うのがどういうことか、知れば古謝も諦めるだろうと柘榴帝は考えていたのだった。
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