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午後のやつ時、古謝が宮へ戻ると蓮はめずらしく机に向かっていた。
窓際に腰かけ一心不乱に墨をすっている。蓮の手元にある墨はすでにどろりとして濃く、彼がいつからそうしているのかわからない。古謝は生唾をのみこんだ。
「蓮、話があるんだけど」
来訪に気づきもしなかった蓮はようやく顔をあげた。
「――なんだ」
顔色があまりにも悪く土気色で、古謝は言葉につまってしまう。泳がせた視線の先、机上に割れた龍笛があるのを見つけて、後ろ手に隠し持ってきたものを差し出した。
「あの、それもごめんなー。これ使ってよ」
古謝が楽舎で作ってもらった新品の龍笛だ。黒い笛は塗りも新しく、窓からさす夕陽につやと光っている。蓮は感情のこもらない目でそれを一瞥し、部屋の壁際をどうでもよさげに示した。
「そこに置いておいてくれ」
「うわぁ」
壁際にはさまざまな贈り物が積まれていた。各宮の妃嬪、文官や武官、そして柘榴帝からよこされた品々だ。高価な衣装に金銀細工が見事な髪飾り、宝石をちりばめた装身具、書物や詩書の類もある。ひとたび天帝の寵を得た者は後宮で破格の扱いをうける。その権力におもねろうと、賄賂がわりにお祝いと称し贈られてきた品々だ。笛を置こうと床に屈みこんだら、横長の高価そうな桐箱がすでに五つあった。すべて名工の作った龍笛だった。
古謝はしかたなくその上に笛を置いておく。蓮には必要なかったのだろう。これだけの笛があるのに、それを箱から開けずに放置しているくらいだ。
(あれだけ演奏できるのに、一度も吹こうと思わなかったのかな)
古謝にはまったく理解できないことだ。もし自分が蓮なら、積まれた高価な桐箱を片端から開け、名工の髄でつくられた笛の響きを存分に味わいつくすだろう。それとも笛を吹けない理由でもあるのか、まだ体調が悪いのかもしれない。
蓮は黙って墨をすり続け、こちらを見もしない。部屋に流れる微妙な空気を古謝は咳払いでかき消した。
「聞きたいことがあるんだけど」
蓮は無反応なままで顔も上げない。古謝は喉につまる重たさを感じたが、言葉を続けた。
「体調はもういいの? なにか欲しいものはある?」
沈黙、こたえはない。うつむきどろどろの墨をさらに濃くし続ける蓮に、戸惑いつつも手元の紙を見て古謝は聞いた。
「えっと……花は何が好き? 色は? 好きな香(こう)はある?」
「お前、誰に言わされてる?」
貸せと、見もせずに片手が差し出された。古謝が誰かに質問用紙を渡されたことに気づいている。すこし迷って古謝はそれを手渡した。柘榴帝からは「これを聞いてきてくれ」と言われたが「この紙を見せるな」とは言われてない。極論、蓮に質問してきたという事実さえあればそれでいいと考えたのだ。
蓮はしばらく流麗な手からなる質問をじっと読んでいた。紙を最後まで読んでいない古謝は知らなかったが、続きにはこう書かれていた。
『俺のことが嫌いか』『伽をするのが嫌か?』『会いにいったら迷惑か』
最後の『俺を殺したいか』という項まで目を通した蓮は、喉奥で呻き頭を抱えた。
「なんて書いてあったの?」
蓮はしばらく固まっていたが、諦めたように紙を机に放り投げる。その顔はひどく疲れている。
「なんで俺を気にかける」
天帝なのだから好きなように振るまえばいいと蓮は言う。会いたいなら来ればいいし、抱きたいならそうすればいいのだと。いっそ横暴に振舞ってくれたほうが楽だという風だ。人の心の機微にうとい古謝は、柘榴帝から言われたことをそのまま伝えるしかない。
「蓮のことが好きだって。あいしてるって」
「ッ、あいつは俺が好きなんじゃない。昔の俺が、晧(こう)月(げつ)が好きなんだ」
神妙に言葉を返す蓮は苦々しく、それでも本音を少しずつ口にしていった。
「いつも伽で、呼ばれる名前は晧月だ」
柘榴帝のなかで蓮は昔のままなのだ。彼は今の自分をけして見ようとしないと、蓮は苦悩している。
「俺が天帝を憎んできたことを無かったことにはできない。この恨みも消えてない。それをあいつは」
どの口で『好き』とのたまったかと蓮は恨めしげだった。天帝なのだから何をして言うのも好きにすればいい。ただ蓮の気持ちまで推し測り、支配しようとすることに戸惑っている。もう昔のままの子どもではない、蓮は晧月とは違うのだ。それなのに柘榴帝が晧月として扱うから、蓮の中でもそこがうまく整理できなくなってしまう。昔の自分、晧月は理性と反する場所にいて、薫香の匂いを嗅ぐと途端に体の主導権を奪ってしまう。無意識に柘榴帝にすがりついてしまうのなら、それが本心なのだろう。けれど蓮にはそれが認められない。
柘榴帝のことは嫌いではない。ただ薫香のない理性的な空間において、それを認めることはできないと蓮は懊悩する。復讐心と記憶、理性と本音に挟まれ精神的にも肉体的にも潰されかけている。
話を聞いた古謝には当然、そんな細やかな機微はわからない。曖昧な説明では蓮の気持ちがどこにあるのかも理解できなかった。
「じゃあ結局、なんて伝えればいい? 好き嫌いを聞いてきてくれって言われたんだけど」
「そんな簡単な話じゃない。あいつが好きなのは昔の俺だし、俺にもこれまでの恨みというものが」
「そんなのどうでもいいよー。俺が聞いてるのは、今の蓮のことなんだから」
過去がどうとか、柘榴帝がどう思っているかは関係がないのだ。ただ蓮に質問しその答えを持ち帰る。全部とはいかなくてもひとつくらい答えを渡せば満足してくれるだろう。そうすれば古謝は神衣曲を教えてもらえるのだ。
柘榴帝になんと伝えるか。帝を好きか嫌いか、ひと言で済むその質問に蓮はたっぷり十分は悩んだ。眉を寄せ虚空をにらみ、しびれを切らしかけた古謝にひと言、
「わからない」
かぼそい声でそう零した。
けれど古謝にはそれだけで十分だった。翌日手に入るはずの神衣曲のことを思うといてもたってもいられず、すぐさま宮を飛び出した。それから次の日までひと晩近く、古謝は楽舎で筝をひき待っていた。
****
「『わからない』?」
翌日の昼、古謝から話を聞いた柘榴帝は裏庭で頭をかかえた。
「本当に蓮はそう言ったの? それだけ?」
他にないのかと問えば、古謝は上機嫌でにっこり笑う。
「そうだよー。それだけ」
さあ早くとばかり片手を差し出され、柘榴帝は苛々と天をあおぐ。古謝に伝言や使いを頼もうとしたのが間違いだった。
「ねぇ約束だろ? 早く!」
「わかった、わかったから」
柘榴帝が持ってきた不花(ふばな)皇子の手記を渡すと、古謝はなめるようにそれを読みはじめた。期待に輝いていた古謝の顔はけれど固まり、驚きに変わる。柘榴帝は満足げに頷いた。
「そういうことだよ、神衣曲を習得するっていうのは。兄さんがどこまで進めたかはわからないけど」
「これ、だって死んでるよー!?」
「死んでない。死んだら曲をひけないだろ」
古謝が見ているのは、神衣曲を習得するための絵図だ。柘榴帝の兄、第一皇子の不花(ふばな)は本当にそれを実行したようだった。細かな手順や設計図、日数、時間までもが手記には実際的に記されてある。
不花が神衣曲を習得できたとは柘榴帝は思っていなかった。おそらく死んだか廃人に近い状態になっているだろう。そもそもこんなこと、常人に耐えられるわけがない。
「もし君がそうしたいなら」と、だからあえて柘榴帝は言った。
「俺が手配してあげる。容(い)れ物も手伝いの人も、全部」
きっと断るだろうと柘榴帝は思った。古謝はまだ成人すらしていない子どもだ。人生これからという時におのれの命を危険にさらしたくないはずだ。
古謝はぎゅっと下唇をかみしめていた。その顔色は白いが、黒目にぎらつく決意がのぞき見えた。
「俺、やってみる。やりたいんだ」
「どうしても?」
頷かれてはかえす言葉がない。今の古謝を見れば、やめろといなすのが無駄だとわかる。
「わかった。じゃあ手配させるけど、なぜそうまでしてこの曲にこだわる?」
古謝には無限の才能があるのに、それを一曲のために捨ててしまうのか。神衣曲などとるにたらないつまらない曲かもしれない。わからない、誰もその音色を聞いたことがないのだから。柘榴帝には古謝が己を軽んじているようにしかみえなかった。若さゆえの無謀や無鉄砲なら言葉をつくし守ってやらねばならない。わずかとはいえ顔を合わせるようになって古謝のことを憎からず思ってもいる。蓮のことも話せるし、対等な関係で話してくれる人間は貴重なのだ。
「俺、あとちょっとしか生きられないんだよ」
「なんだって?」
「臓器の病なんだ。寺にいたころ薬師にそう言われた」
寝耳に水だった。それならそうと言ってくれれば王宮の待医をすぐにでもあてがったのに。再診を薦めようとして柘榴帝は口ごもる。寺の薬師は王宮の待医と同じかそれ以上の腕だ。実際、王宮が高名な寺の薬師を呼びよせることも多い。古謝の命はその言どおり、残りわずかなのだろう。だから神衣曲を習得したいと言えるのか。残りすくない命ならどうでもいいと、そう思っているのか――けれどそういうわけでもなさそうだ。
「俺さ、もうすぐ死ぬってわかったとき、音楽と離れるのが一番怖かったんだ。もう弾けなくなる、歌えなくなるってそればっかり。なら死ぬまでは好きなことしようって思った」
古謝の言葉に偽りはない。彼は残された時を大切に、本当に身を削りたいことのためだけに使うという。どうせ死ぬからと命を粗末にするのではなく、神衣曲の習得こそがもっともやりたいことなのだと。
「だから死にたくなんてないし死ぬつもりもないよ。できればだけど、長生きしたい。そしたらもっとたくさんの曲を弾けるから」
「……そう」
柘榴帝はまじまじと目の前の古謝を見直した。おかっぱ頭の小さな少年、とても幼くみえる彼もそういえば立派な王宮楽人だ。
死の際にまで音楽を求めるその心は帝には微塵もわからない。けれど楽人とはそういうものなのだろう。
(蓮ならわかるかもしれないな。蓮なら)
「それで、いつ練習できるの?」
わくわくと目を輝かせる古謝の正気を柘榴帝は疑ってしまう。本気だろうか?
けれどやはり古謝は生粋の楽人だ。音楽の価値は命より勝る、それを理解できてこそ真実、本物の楽人になったと言える――そう兄の不花が常々言っていたのを、柘榴帝は思い出していた。
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