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蓮は一日中、宮で墨をすっていた。濃くどろつくそれは水分が抜け固まりかけている。無意味に水を足し墨を小さく磨りへらし、蓮は白紙を前にぼんやりしていた。
手紙を書こうと思ったのだ。
自分を拾い育ててくれた呂家の義父へ。また、今は亡き己の父母や、古謝へ問いをもたせた柘榴帝――紅呂(くろ)にも。けれどいざ筆を取ろうとするとなにひとつ言葉が浮かばず、書くべきことが手からすり抜けてしまう。朝も夜も蓮は墨をすり呆然としていた。時おり自分が何をしているのかわからなくなる。
(そうだ、手紙を書こうと思って)
気づいたときに水を足し、また新たに墨をすって、記すべき言葉に惑う繰り返しだ。
書く内容はおそらく遺書になる。人生で最後の別れの言葉を、けれどそれが思い浮かばないのだ。自分の命そのものに意味を感じられず、目的を失くした生が無価値となった今、蓮には死ぬことにすら意味が見いだせない。
(そもそも言葉を残すことに意味があるのか)
後宮で寵を得たことで養父の呂文官は地位を盤石にした。呂家には十分に恩返しできたのだから、自分の遺書など不要だ。実の両親はすでに他界していて、考えてみればそちらも遺書など必要ない。では柘榴帝は、――紅呂はどうか。筆を取りかけ、またそれを置く。言葉が浮かばない、何をどう言っていいのかわからないのだ。延々と墨をすっていると、宮の扉が勢いよく開けられた。
「蓮楽人はおるか? 美蛾娘様の命により、この宮を捜索する!」
中へ入ってくる鎮官たちを、蓮はぼんやりと眺めていた。
鎮官たちは幽鬼のような蓮を見てぎょっとしていたが、構わず宮内を捜索していった。
なにを探しているのだろう。
ひとりの鎮官が居丈高に教えてくれた。
「おぬしに第三皇子・紫香楽(しがらき)さまの暗殺容疑がかかっておる。その証拠があるとたれこみがあったのだ」
「暗殺……?」
蓮が殺そうとしたのは先帝と柘榴帝だけであり、第三皇子の紫香楽など眼中にもない。
やがて部屋奥から慌てふためいた声が聞こえてきた。
「大変です! あっちに異様なものばかりが」
「なに?」
驚く鎮官に蓮は失笑してしまう。暗殺の証拠というなら部屋には証拠品ばかりだ。隠してはいるが、隈なく探されれば当然見つかるだろう暗器や毒虫、呪具の数々。
部屋奥で鎮官が悲鳴を上げ派手に倒れる音がした。毒虫にかまれたか不用意に暗器に触れたか――運び出されてきた者はすでにぐったりと息絶えている。現場で指揮をとっていた鎮官が声を震わせた。
「蓮楽人を捕らえよ!」
すぐに床に押さえられ後ろ手に縛られたが、蓮はされるがままだった。抵抗する意志も気力もなかった。
その時、通りがかった鎮官がおずおずと黒い呪い人形を掲げた。
「見つかりました。第三皇子を呪っていた証拠品です」
蓮は怪訝とそれを見上げる。あれは自分の持ち物ではない。黒い呪い人形には赤墨でたしかに第三皇子の名が書かれてあるが。
「お、おお。よくやった。これで美蛾娘さまによい報告ができる」
その戸惑ったような声と自分を見る恐怖の気配に、蓮はことの絡繰りを察し笑ってしまった。
(これは美蛾娘の企みごとか。そうまでして俺を殺したいのか)
「何がおかしい!?」
横面を思い切り蹴られ、口の中が切れて血を吐いた。けれど笑いが止まらない。
まとめていなかった黒髪が頬に落ち、笑い続けているのがよほど不気味だったのか、鎮官たちのほうが怯えた気配になってくる。
(俺にもまだ価値があった。こうまでして俺を消したいと思う奴がいるなんて)
死ぬことに意味などないと思っていた。だから自死すらできなかった身にようやくその機会が訪れたのだ。
「この者を天河(てんが)へ連れていけ。美蛾娘さまの采配をあおぐ」
なかば引きずるように連行されて、蓮はようやく死ねると安堵していた。美蛾娘がそんなに己を消したいというのなら構わない、最後にこの命をくれてやる。
天河の針山は川べりを深く掘った、底の見えない四角い穴だった。
虚無と死を湛える穴の淵へ、蓮は引きずられていった。
飛びこみ台のように細い板が穴の中央へと渡され、その先に丸木の括り棒と「切断装置」が置かれている。装置の木のレバーを引けば、横向きの大刃が罪人のいる括り棒のほうへ襲いかかる仕組みだ。鎮官のひとりが蓮を括り棒に吊るすと、刃の位置を首元へくるように調節している。
(あの大刃が俺の両肩と首を斬る。するとこの身は針山へ真っ逆さまに落ちるのか)
おのれの身に起こる死の手順すらどうでもいい。
刑場にやってきた美蛾娘は反対に、蓮の死に方に異様なこだわりをみせていた。
「待て。もうすこし刃を下げよ」
用意された椅子に座り、きらびやかな衣装をみせびらかす後宮の悪姫は、これまで見た中でも一番輝いて見えた。目はほんのりと恍惚に蕩け、まるで恋する相手を前にしたように喜んでいる。彼女にとっては人の死は愉しくてしかたない、これ以上ない娯楽なのだろう。
蓮は自分の死がこんなにも誰かを喜ばせるとは思ってもみなかった。不思議と暖かな気分になっている。死ぬことに恐れや後悔はまったくない。
「蓮楽人。第三皇子を呪った罪で、針山での死罪を申し渡す」
鎮官が罪状を読み上げると、美蛾娘が愛らしく小首をかしげてみせた。
「なにか申し開きはないのかえ?」
黙って首を振れば何が気に入らなかったか、美蛾娘は顔をしかめた。
「見せてやれ」
彼女の指示で括られていた棒が軋み、横へ傾けられる。真下の様子がはっきりと見えた。
「どうじゃ、妾のつくらせた針山は。美しかろう?」
足元にあるのはどこまでも深い闇と、そこに浮かびあがる銀色の無数の刃だ。距離の差から豆粒のように見える銀刃は、実際にはかなり大きいものだろう。
(ひとつで腹に大穴があくだろうな)
この針山は、刺殺や失血死を狙ったものではない、どうやら落下による衝撃で死に至らしめる仕組みのようだ。針に当たれば五体の一部は確実に吹き飛ぶし、そうでなくとも穴底までの落差で死ぬ。ぼんやりとそう理解はしてもなんの感慨もわかなかった。生きる意味がない以上、死にも恐れや現実感がないのだ。
美蛾娘は不服そうに棒を元の位置へ戻させた。なにやら違う反応を期待されていたらしい。
「もうよい」
美蛾娘が合図をしたことで大刃の横にいた鎮官が動いた。レバーに手がかかる。それを引けば首元に刃が飛び出してくるのだ。
蓮は静かにその瞬間を待っていた。死とはこれほどに穏やかなものだろうか。だとすれば先に死んだ家族はさほど苦しまなかったろう。
(それとも、あの刃で死ぬ瞬間には痛みを感じるのか)
それも大した苦しみではないはずだ。この世に後悔することなどなにひとつない、残したい言葉も伝えたい事柄も何もなかったのだから、と――。
「蓮っ……!」
美蛾娘の後ろ、天河の上流から柘榴帝が駆けてきた。背後に数名の鎮官をともない、金衣をからげて蒼白な顔で走ってくる。
止めにきたのだろうか。けれど距離があった。彼が到着するまでに刑の執行は可能だ。美蛾娘はそれを見るなり周囲の動揺を一喝でおさえた。
「何をしておる、殺せ!」
動揺した鎮官がレバーをゆるやかに引く。大刃が飛び出す勢いはおそろしく早かった。風鳴りのする刃の黒錆を間近に感じる刹那、蓮は駆けてくる柘榴帝の姿を見ていた。
(ああ、そうか――)
言えばよかったのかもしれない。考えたことや感じたこと、思いのたけをすべて全部伝えてみればよかった。
言葉が急にあふれ出し、刹那に激情の波にのまれていた。
ここ数日ずっと手紙を書こうとして、けれど書けなかったのは、伝えたいことが書ききれないほどにあったからだ。文字では伝えきれない、何から言えばいいのかもわからない。未整理のそれらは養父や実の両親への想いではなく、柘榴帝への感情だ。
憎悪、嫌悪、愛情に恋慕、そして憧憬と恐怖――その先に何があるのか。
すべてをぶちまければひょっとして、受け止めてくれたかもしれない。それを恐れてまぎれもない執着心を無かったことにしたのは自分だ。
今になって後悔をおぼえはじめていた。もっとできること、やるべきことがあった。自分の人生を失う前に伝えることも助けることも、わかち合うこともできたはずだ。
(もっと生きていられたら。せめてあと一瞬、刹那だけでも)
けれど遅い、遅すぎた。人生はいつだって一瞬の希望をちらつかせた後に、どうしようもない絶望を運んでくる。
もう助からない、そう諦めた蓮とは反対に柘榴帝は諦めていなかった。
間に合わないと見るや鎮官から弓を奪いとり矢を放つ。柘榴帝の狙いは大刃の根元、刃の接着部だったが、軌道をわずかにそれた矢は切断装置に当たり、装置自体をかすかに揺り動かした。結果、刃は蓮の首の位置から頭ひとつ分上へと飛んでいく。刃の向かう先には括られた蓮の両腕が――唯一棒に身を括り支えている肘から上の部分があった。
蓮は最期の言葉を伝えようとした。
遠くに立つ青ざめた柘榴帝と目があう。うつくしい水色の目に見たこともない恐怖と怯えのいろがある。
かすかに口を開き、一音を紡ごうとした。
ぶつりと音がして大刃が蓮の両腕を切断する。括られていた腕を切られ、蓮は真下の針山へ落ちていく。
落ちる瞬間、四角く切りとられた茜空が見えた。
夕焼け、そのうつくしい空を目に焼きつけて。
耳元で風が、誰かの叫びのように鳴っている。
目を閉じる。
一瞬でおのれの人生を振り返った。なにも成せず、誰も殺せず、ひと言も伝えられなかった。後悔ばかりの人生がこれほどまでに愛おしく、いまさら鬱陶しくも生への渇望をかき立てるとは。
(でもこれでいい。せめて次に産まれ変わるときには)
柘榴帝を助けられる人生がいい。恨まず憎まず、快い感情を伝えられる人間であれたなら、それだけでよかったのに、どこで間違えてしまったのだろう――……。
その日、呂家の神童とうたわれた蓮楽人の死が確認された。
引き上げられた遺体は無惨なもので、五体はちぎれ、体といえる部位はほとんど残されていなかった。括り棒に残された両腕を見た柘榴帝は生気を失い、悄然といつまでもその場に座りこんでいた。
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