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暗くかび臭い地の底のような香り。真っ暗闇で少年は目をさました。
明かりひとつない周囲にぼんやりしていると、すぐそばで優しい火明かりがともされた。
「おお、気がついたか、蓮」
手燭の炎に照らされていたのは髭面の風虎(ふうこ)だ。蓮は茫然と寝転びそれを見ていた。
「……死んだのですか?」
ここがあの世かとそう思った。それなら風虎も死んだのだろうか。髭面の大男はくしゃりと苦笑いだ。
「儂が死んだようにみえるか? まあ、見えるかもしれんが」
顔を曇らせた風虎は己の衣を見下ろしている。以前は紅の上質な楽人服だったのに、今や見る影なくうす汚れ汗と泥水でぼろぼろだった。
風虎は楽人の位を剥奪され、後宮の水番として働いていた。仕事はよほど厳しかったのだろう、ぼろ切れのようになった服とは反対にその身はたくましく鍛え上げられている。日に焼けた太い腕が唯一の明かりを身近に置くのを、蓮はぼんやりと見ていた。
「どれ、傷の具合を見よう。まずはこれを」
口もとへ運ばれたのは水薬の入った茶碗だった。飲みやすいように頭を抱えてもらって、蓮はそれを受け取ろうとして肘のあたりで途切れた腕に息をのむ。
「あ――」
手がなかった。両腕は肘のあたりまでしかなく、包帯がきつく巻かれている。衝撃に息がつまった。
「落ちつけ。大丈夫、大丈夫だ。止血したから死にやせん」
知らず息が荒くなり震えていたようだ。落ちつくのを待ってから、風虎は水薬を飲ませてくれた。苦い。ものすごく。
「全部飲め。吐き出すなよ、そうしないと儂が先生に怒られる」
「っ、せ、先生って?」
飲みきったのを確認し、風虎はそっと身を横たえてくれた。包帯をとり傷の具合を確かめている。
「柳(りゅう)先生だ。元は待医だったお人でな、たまたま近くにおられたのだ。お前は運がよかった」
「あの、ここどこです?」
蓮はくらくらと眩暈をおぼえていた。寝転んでいるのに地面が揺れたようなのは、飲んだ水薬に強力な鎮静作用があったのだろう。そうでなければ両腕を切られこんなに痛みがないのはおかしい。風虎は渋い顔で反対側の暗闇を見る。つられて目を凝らすと、闇に慣れてきた目が地底の様子をとらえだした。
(針山……)
折しも頭上で月がのぞき、穴底をいっそう明るく照らし出した。
間近にそびえるのは無数に輝く銀の剣山だ。そびえる、そう形容するのが正しい。
ひとつの「針」は風虎の背より高く、横幅は両手を回してもつかみきれそうにない。尖端はするどく、銀色の剣山にはところどころ茶色い染みがついている。うす汚れたそれは人の血だ。誰かがあそこに落ち命を落とした――おのれの身にふりかかったことを思い出せば、総身が震えだす。
(もしあそこへ落ちていたら)
どうして自分は助かったのだろう。表情から心を読み取り風虎が答えをくれた。
「お前はあそこへ落ちたのだ」
風虎が見上げたのは木の階段だった。らせん状に折り返した段は古く、脆くなっているのか一部が崩れかけている。階段の降り口はちょうど今いるこの場所になっていた。
蓮が寝ていたのは針山の壁の真ん中あたりの高さだった。壁を奥へくりぬき造られた平坦な通路である。左が針山で、右には風虎の後ろにどこまで続くかわからない真っ暗なほら穴が、微風をこだまさせ延々と伸びている。
「お前は運が良かった。儂がたまたまここにいなければ、あるいは柳(りゅう)先生が水汲みの用で儂と会わなければ助からなかったかもしれん」
「なぜここに?」
しだいに意識が朦朧とし眠気が襲ってくる。飲んだ水薬のせいだ。蓮は眠気をこらえ必死に意識をたもっていた。
「この奥に地下水の汲み場がある」
あっけらかんと風虎はこたえた。元々、この針山の穴は地下水を汲み上げるために作られたものだ。それを刑場として改造し、針山を設置してしまったのは美蛾娘だ。
血なまぐさい刑場になってからも地下水の汲み上げにはここへ来るしかなく、水番の仕事につく者たちは刑場を避けようと、穴倉の壁奥にある通路を通ってここまでくる。
「本来はあの階段で上から直接に降りてこられるのだが、ここが刑場になってからは誰も使わん。仲間うちでは無駄な階段だと言っていたが、まあ壊れた段がお前の落下の衝撃をやわらげたのだ、役には立ったな」
昨日の夕暮れのことだった。風虎が水汲みにきて通路を歩いていると、雷が落ちたような音がしたのだという。ここまでやってきてみれば、上から落ちてきた蓮が木の段を三階分ぶち破り、割れた段に引っかかっていたのだと。
「ありがとうございます。でも……」
「でも?」
眠気のせいで朦朧とし、とっさに言葉がまとまらない。風虎は包帯を巻きなおし、考えがまとまるのを待っていてくれた。
「でも、そうだ。死体の検分は? どうなったんです。俺の死体が見当たらなければ、誰かが助けたとすぐにばれてしまう」
「それは」
「儂が工面したのだ」
低い老人の声がぴしゃりと空間に割り入った。静かなしわがれ声の持ち主は風虎の後ろからコツコツ歩いてきて、ため息まじりに告げる。
「その巻き方では腕が腐ってしまう。何度教えればわかるのだ、風虎よ」
「す、すいません。先生」
「どけ。儂がやる」
風虎の巨体が恐縮したように身を引き、影から現れたのは骨と皮ばかりの老人だった。
白髪を頭上で結い清潔な白衣をまとっている。風吹けば飛んでしまいそうな老体だが、鷲鼻の奥にある両目はするどく奥底しれない気迫がもれている。傷ついた蓮の腕を取ると、痛みに声がもれるほどきつく包帯を巻いた。苦痛の声すら咎めるように老人は睨みつけてくる。
「情けない、このようなことで」
「っ、ッ、あなたが、柳(りゅう)先生?」
「気安く呼ぶな」
静かに恫喝される響きに身がすくんだ。なぜかはわからないが目の前の老人からは並々ならぬ敵意を感じる。ひとつ包帯を巻き終えると嘆息し、柳先生は話し出した。
「儂はお主ら楽人のことが大嫌いだ。どいつもこいつも口を開けば音楽、音楽と馬鹿のひとつ覚えよ。どうせこの腕だって愚かなことで失ったのだろう。楽人はみな愚かしさに呪われておる」
「どういう意味です?」
包帯をぎゅっと巻き締め、柳先生は鼻で笑った。
「命より楽が大切だと吐(ぬ)かす者が愚かでなくてなんとする? おのれの生より大切なものがあるというのは馬鹿者の考え方だ」
とっさに言い返そうとして言葉につまった。自分はそこまで音楽に人生をかけてはいないが、復讐には命をかけた。それを達すればどうなってもいいと確かにそう思った。それが失敗し殺されかけて一命をとりとめた。死の際になって鮮やかになった生への執着心を、目の前の老人はなにより大切にしろと言う。以前の自分なら鼻で笑い飛ばしただろうその考えは、今は痛いほど身にしみる。
「先生、今日はなぜこちらへ? また水がご入用でしたか」
怪訝そうな風虎に「いや」と老人はゆるやかに首を振る。
「風虎よ、すぐに後宮を出なさい。今ならまだ巻きこまれない」
「何にです?」
「お主は本当にどうしようもない。だから水番などに回されるのだ」
呆れ顔の柳先生はちらりと蓮を見て顔を歪めた。
「この小僧も連れてゆけ。混乱に乗じて逃げろ」
「だからなにが」
「内乱だ。美蛾娘が挙兵したのだ」
唖然と固まる風虎に柳先生は苦笑いだ。
「あれだけ騒がしかったのに、お主は気づかなんだか」
「わ、儂は、この穴に籠っておりましたので」
「情けないのう。美蛾娘が蛮族をひきいれ、安寧宮(あんねいきゅう)に向かっておる。上はいま大騒ぎだ」
安寧宮――後宮での天帝の寝所だ。そう理解するや蓮はいてもたってもいられず飛び起きた。
「ざ、柘榴は?」
帰り支度をしていた柳先生はちらりと振り返った。
「知らん。儂はもう行く」
風虎が慌てて引き止めようとした。
「どこへ? 儂らとともにゆかんのですか。まさか不花(ふばな)のところへお戻りに?」
ぴたりと足を止めた柳先生は振り返らずに言う。
「不花皇子は死んだ」
立ちすくむ風虎に、柳先生はすこし笑ったようだった。
「今朝がたな。その死体を使って、そこの楽人が死んだと見せかけたのだ」
それきり歩き去る痩せ細った背を、風虎は茫然と見送っていた。
「柳(りゅう)先生は、第一皇子・不花(ふばな)さまの修行を手伝っておられた」
「修行?」
「神衣曲(しんいきょく)だ。地下通路の奥で、十年近くもずっと不花さまの面倒をみておられた。儂も話を聞いたときには驚いた」
蓮は風虎におぶわれ、後宮の安寧宮(あんねいきゅう)を目指していた。美蛾娘が兵を率いているのなら柘榴帝を殺す気だ。なんとしても向かうという蓮に風虎が根負けした形だった。
せっかく助かった命を無駄にするのかと問われ、蓮は迷いなく答えていた。
(無駄ではない。せっかく助かったからこそ出来ることがある)
柳(りゅう)先生は「命が何より大切だ」と説いたが、蓮に言わせれば大切なものには使いどきがある。以前の自分にはその価値がわからなかった。命を投げ打つように生きてきた、けれど今は違う。
(成したいことを為すために人生を使いきる。それで息絶えても本望だ)
蓮はひとりでも安寧宮へ向かうつもりだった。元々怪我と水薬のせいでまともに歩けない状態だったのだ、情にあつい風虎は安寧宮まで自分が背負い運ぶと言ってくれた。
地下通路の出口まで来ると、外の闇に剣戟(けんげき)と兵の声が響いている。躊躇して風虎は身を震わせた。
「ええい、儂は死にたくないのに!」
やけくそのように夜のかがり火のなかへ飛び出した。争いを避け、土煙に隠れるようにして進んで行く。
「待って、どこへ……!?」
風虎が向かっているのは安寧宮のほうではなかった。遠ざかる目的地にその背から降りようとすると、風虎は周囲の騒音に負けじと声を張り上げた。
「あの混乱の中は突っ切れん! 遠回りして楽舎のほうから向かう!」
風虎は殺し合いの激しい箇所をよけ迂回していくつもりのようだ。進む先に浮かび上がる楽舎は争いの後宮の中で見知らぬ場所のようで、ひどく不気味に見えた。
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