神触れ人は後宮に唄う

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 その頃、楽人選抜の場ではちょっとした騒ぎが起きていた。  だだっ広い中庭に楽人たちが集い、最奥に天帝の玉座が用意されている。天帝の姿は黒御簾で奥深く隠されることになるが、その御簾の横に突然、怪しげな美女が現れたのだ。 「これは何事じゃ。みな集まって、楽人選抜をするのかえ?」  後宮の悪姫・美蛾娘(びがじょう)だ。その場にいた後宮楽人たちは愕然とした。 (この毒婦、誰が呼んだ!?)  数十名の楽人たちは美蛾娘に恭しく膝を折り、互いに顔色を窺った。彼らは美蛾娘に気づかれぬよう、こっそりと楽人選抜を行ってしまう予定でいたのだ。そもそも楽人が足りなくなったのは美蛾娘が彼らを大量に殺したせいだ。『気に入らぬ』、そのひと言で彼女は人を殺してしまう。権勢をほこる美蛾娘にはその横暴が許されている。  楽人たちはけして美蛾娘に選抜のことを悟られぬよう、今日まで秘密裏にことをおし進めてきた。 (このなかの誰かが裏切ったのだ!)  楽人たちはうつむき恐怖に身を震わせる。現れた美蛾娘にどう対処すべきかわからない。 「恐れながら申し上げます」  凍りつく空気を破ったのは最前列にいた明風(めいふう)楽人だ。  白鬚をたくわえた好々爺で御年六十、この国の楽の権威にして筝(こと)の名手でもある。  周囲の者はぎょっとしたが安堵してもいた。明風楽人はこの場で一番位が高い。彼は責任をとるつもりなのだろう。  美蛾娘は「申してみよ」と寛大にも許可を出した。彼女の機嫌が悪ければ、この段階で明風楽人は死を賜っていてもおかしくなかった。  明風楽人は間をはかり静かに話した。 「我々は卑賎の身、しかし美蛾娘さまは国の宝であります。楽人が欠けたことは我らの管理が甘く、不手際があったせい。そのことで、高貴なる美蛾娘さまのお手を煩わせるわけにはいかず、また楽人選抜などという面倒事をお知らせするのも恐れ多く、次こそはお耳汚しのないようにと浅慮ながら本日、我らだけで行うつもりでおりました」  明風楽人は慎重に言葉を選んでいた。  選抜を行うとあえて知らせなかったのは、本音をいえば金輪際、美蛾娘に関わりたくなかったからだ。美蛾娘が大量に楽人を殺したのは虫の居所が悪かったせいなのだ。 (下手に選抜のことを知らせれば面倒になると思ったのに)  それに楽人のことは楽舎の長である明風楽人に一任されている。一報を入れなかったのは不敬かもしれないが、それもたいしたことではない。むしろ美蛾娘がそこまで楽人のことに拘るほうがおかしいのだ。彼女ほどの立場なら楽人などの些事は下々に任せおくのが普通だ。 「よい。そちを責めておるわけではない」  美蛾娘の寛大な言葉にけれど明風楽人はぎょっとした。  カラカラと木鈴の乾いた音をたて、美蛾娘は階段を降りてきた。  前衣が大きく開いているので、歩くと白い生足が太ももまで露出する。  おしげなく素足を公衆にさらし、美蛾娘は明風楽人のすぐそばまできた。  思わぬ距離の近さに顔を上げてしまった明風楽人は、その姿を目に入れて凍りつく。顔を下げなければ不敬だという考えすら吹き飛んだ。  にこりと笑んだ美蛾娘は、これまでに見たどんな事象より美しく残酷な生き物だ。  くっきりとした西欧風の目鼻立ち、真白な肌、口もとの紅と額の赤梅化粧が血のように滴りみえる。  齢二十をすぎ満開に咲き誇る豊満な肢体は、金刺繍の衣から妖しい香りを放っている。死の香りだ。何十、何百と彼女に殺されてきた者たちの怨念や血しぶきが混じり合い、なんともいえない蠱惑的な匂いを形成している。 (ひとつあやまてば殺される。しかしそれゆえ美しい)  魂を食べるという悪鬼羅刹のように、美蛾娘は退廃的な妖しさと性的蠱惑術をそなえている。性別が男ならこの魅惑から逃れるのは難しい。たとえそれが近づいただけで死に至る猛毒だとわかっていてもだ。齢六十を越える明風楽人は、しかし魅了され凍りついたわけではなかった。笑んだ漆黒の目の奥を見たとき、そこに己の死を読み取っていた。 「妾はそちを責めておるわけではない。己の不甲斐なさ、監督の行き届かぬ自身の無能さを恥じておる」  美蛾娘はその場で楽舎の上から五位までの、責任ある楽人たちを呼び寄せた。明風楽人以下、国の頂点にたつ達人たちが跪かされ震える。 「そちらのせいで妾は恥を思い知らされた。よって、この場でそちらの首をはねる」  中庭に美蛾娘づきの私設兵がなだれこんでくる。黒い袍衣(ほうい)に身を包んだ彼らは去勢された鎮官(ちんかん)たちだ。  鎮官とは、天帝に仕えて祭儀を執り行う神官だ。国を導き鎮めるのが仕事だが、美蛾娘は鎮官の半数を後宮へ取りこみ、武器をもたせて私兵代わりにしていた。 「お許しください、どうかっ」 「おや。いま言葉を発した者を天河(てんが)へ送れ」 「そんな……!」  天河(てんが)は美蛾娘が整備させた王宮内の刑罰所だ。天河送りにされた者は死より恐ろしい拷問を受けさせられる。  引きずられていく者を見て、残る四人の楽人は白い顔で目を閉じた。天河へ送られるくらいなら、この場ですっぱり殺されるのはいっそ恩情だ。  中庭に悲痛な叫びと血煙が満ちていく。  ひと足遅れてやってきた天帝は、惨状を眉ひとつ動かさずに見ると何事もなかったように御簾奥におさまった。天帝が美蛾娘の行いを諌めることはない。分かっていたことだが、楽人たちはその理不尽な仕打ちを思い知らされ恐怖に震えた。楽人選抜はこうして血生臭い香りとともに始まった。
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