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「次――」
ついに蓮の番となった。古謝に挨拶していこうとして、眠りこけているのを見た蓮は呆れてしまった。
選抜の場へと向かう途中、前を行く楽人がなぜか気づかわしげに振り返ってくる。
「おぬし、楽器は何を扱う?」
蓮がもっとも得意とするのは龍笛(りゅうてき)だ。持参したそれは黒い竹製の横笛で、長さは人の手首から肘くらいまである。今は背中へ、目立たぬよう袋に入れ腰紐にひっかけてあった。
「三味線が得意です」
けれど蓮はそう答えていた。嘘ではない。三味線も筝も笙(しょう)も、月琴(げっきん)だって蓮は扱える。いずれも人並みよりうまく弾く自信はある。一番得意な楽器を答えなかったのは、なにかあるとふみ用心したからだ。手の内はなるべく明かさないほうがいい。
「あー、三味線以外ひけぬのか?」
「なぜでしょう?」
中年男性の楽人は顔を曇らせて「いや」と会話を終わらせてしまった。蓮は知るよしもなかったが、実はこのとき中庭では三味線の名手と呼び声高い少年少女たちがすでに連続で三人屠られていた。中年男性の楽人は蓮に三味線は止めたほうがいいと忠告しかけてやめた。どちらにせよ美蛾娘の気分しだいだと思ったのだ。
「着いたぞ。幸運を」
中庭の入り口で蓮は唖然と立ちすくんだ。石畳は血に染まり空気は赤くけぶっていた。楽人たちは震え、青ざめた顔で真ん中に転がる死体を見ていた。血だまりに浮かぶそれはふたり――伯玖蛇(ぺくじゃ)兄妹だ。遠く天山寺(てんざんじ)に名の聞こえた兄妹で、ふたりで合奏する響きは何者をも癒すといわれていた。伯玖蛇兄妹は蓮の前にこの場へやってきていた。蓮は知らなかったが、美蛾娘は先に三味線を奏した妹を「気に入らぬ」と斬らせ、その次に兄がくると知るや、死体を運ばせずにそのまま放置した。死んだ妹を見た兄はまともに演奏もできなかった。楽器を放り出し泣き叫ぶ兄が斬り殺されるのを、楽人たちはすでに目にしていたのだ。
この拷問のような時がいつまで続くのか。
楽人たちは、この場から生きて帰れる心地すらしない。次に現れた蓮にいっせいに哀れみの視線が投げかけられた。あの少年もすぐに殺されてしまう、そう思ったのだ。
場の注目を集め、蓮は目を閉じる。
(落ちつけ。俺の目的は天帝を殺すこと。周りがどうであれ関係ない)
ゆっくりと目を開き、まわりを見る。
場の右手にはあらゆる楽器があり、左前方に死体の赤い小山ができている。道の両脇にずらりと楽人が震え立ち、その最奥には天帝のいる建物が――。
前方を窺い見て蓮はすぐに目を伏せた。己の瞳にこもる殺意が見咎められることを恐れたのだ。天帝の姿は黒御簾に隠され見えなかったが、代わりに艶やかな美女が黒御簾の横で足を組みふんぞり返っていた。それが悪名高い美蛾娘だと蓮はすぐに気がついた。
(あれが呂家(ろけ)の天敵か)
後宮を支配する美蛾娘の噂は呂文官から何度も聞かされていた。美蛾娘は息をするように人を殺すという。彼女の周りには死がまとわりつき、その視界に入っただけでも冥途へ片足を踏み入れたも同然なのだと。おとぎ話のようだと思っていた話も、この惨状をみればあながち嘘でなかったとわかる。
「次。早う来やんか」
美蛾娘がねっとりした声で遠く呼びかけてくる。蓮は奥歯をかみ楽器のほうへ歩いていった。
(すぐそこに天帝がいる。殺せる距離にいるのに――!)
楽器に悩むふりをして、周囲を慎重に見た。槍や刀を携えた黒ずくめの鎮官たちがざっと十人は控えている。美蛾娘のそばや楽人たちの後ろ、楽器の横にも三人はいる。墨染の袍衣(ほうい)に身を包んだ鎮官たちは顔の前に黒いうす布をつけている。こちらからだと彼らの顔は見えないが、向こうからは光の作用で外が見える仕組みだ。視線に気づいたのだろう、近くにいた鎮官が蓮を見下ろし、血脂がこびりついた槍を見せびらかすように揺らした。
蓮はとっさに睨みそうになった顔を慌ててふせた。怯えたふりを装い、三味線を手に取る。
(やつらに捕まらずに天帝を殺す方法があるか。どうせならもっと近づいてから……そうだ、楽器を演奏しながら近づけばどうだ?)
つかんだ三味線が積年の恨みで軋んだ。
場の異常さも死の恐怖も蓮には無意味だ。あるのは焦げつくような怒りのみ。
両親を奪われた嘆き、乳母や異母兄を殺された恨みつらみ、暖かな当然うけるはずだった未来を壊されたことへの復讐心と、雨露でしのいだ苦節の記憶。
(ようやくここまできたんだ、今日こそあいつを殺してやる!)
ここへ来るまでに考えていたことは頭から消え去った。呂文官から言われたことも、自分の立場も怒りを前に忘れ去った。いまここで天帝を殺せば呂家に迷惑がかかることも失念していた。視界が赤一色に染まり、蓮は怒りのままに三味線をつま弾かんとした。
天帝に近づく第一歩。その一音をはじこうとして、
「やめよ」
美蛾娘の静止に足を止めた。殺意に気づかれたか。
美蛾娘は呆れたように欠伸をしていた。
「妾は三味線に飽いたわ。他に弾ける楽器はないのかえ?」
美蛾娘は金扇子のうちで笑っていた。多種の楽器を流麗に扱える楽人は少ない。御前で披露するのだから、よほど腕におぼえのある楽器を使わなければ失礼にあたる。ただ楽器を嗜む程度では王宮では弾けることにならないのだ。
居並ぶ楽人たちはやり取りを見て絶望していた。これまで選抜に来た者たちはみなひとつの楽器しか扱えなかった。そのことに味をしめた美蛾娘は、この手法ですでに三人の少年・少女たちを屠っている。他に弾ける楽器がなければ無能とし、即死罪になる寸法だ。
「かしこまりました」
けれど蓮は動揺すらしなかった。その場から他の楽器を手に取るかと思いきや、自らの背にさした龍笛(りゅうてき)を取り出し、口もとにあてる。
紡ぎ出された低く細い音は夏を想起させた。
若竹の香り。真夏の蒸し暑い土の匂い、落ちる雨音。蛙の鳴き声。
うつむいていた楽人たちがぎょっと蓮を見やる。
「これは『夏の調べ』か?」
基礎中の基礎、有名な曲で楽人たちにも聞き覚えがある。しかし奏でられたそれはよく知る響きではない。
「なんと刺々しい音か。いやちがう、これは」
抜き身の刃に似た響きなのだ、そうとしか形容できない。本来の『夏の調べ』は涼やかで人を癒す音楽なのに、奏でられた曲はそれとは似ても似つかない。
ぴんと張られたひと筋の殺意のようなのだ。
優雅に表現されるはずだった若竹のくだりは、鋭い刀に似た音で小気味よく切られてしまう。
真夏のうだる土の響きは、激しい怒りの炎によって一瞬で焦土と化した。
しずかな雨音を表現するとみせかけ嵐が吹く。雨を喜んでいたはずの蛙の声は雷鳴に打たれ、かき消えた。
蓮は『夏の調べ』を奏でたが音にのる憤怒は隠しきれない。居並ぶ楽人たちは蓮が美蛾娘への怒りを表現したのだと思った。この惨状におじけもせず凛々しく前へと歩く姿に感服した者もいる。
しかし蓮は黒御簾の奥しか見ていなかった。ふつふつとした怒りを眼底に湛え、こらえきれない思いで黒瞳に涙すら浮かべて天帝のほうへと歩いていく。
(この音で殺してしまえたなら。こんなに気持ちをこめているのに、なぜ死んでくれないのか。どうしてまだ生きているのか)
蓮の演奏は壮絶だった。ただ笛の一音、そこに言葉や詞はない。しかしなにより雄弁に感情と心を物語る。
天帝のすぐ近くに控えていた鎮官たちは、近づいてきた蓮への対応が遅れた。いつの間にか音に惹きこまれていたのだ。鎮官たちが蓮を止めようと槍を掲げると、穂先に亀裂が入り砕け散ってしまう。まるで蓮の歩みを止めぬように、透明な意志が槍を破壊したようだ。唖然とする鎮官たちの横を蓮は笛を吹き、ゆっくりと通り過ぎる。止められぬ意志の風が吹きさっていくようだ。
蓮は階段を優雅に上がり、黒御簾のすぐ前まできた。壇上の美蛾娘はあまりのことに固まっていた。青ざめ白くなった顔からは蓮への怒りと恐怖が窺える。
美蛾娘の後ろに控える鎮官の長・魔醜座(ましゅうざ)は、蓮を見た瞬間に理解していた。
「間違いない、この少年も神触れ人(かみふれびと)!」
魔醜座には蓮のうしろに、憤怒の形相でうごめく毘沙門天神の姿が見えていた。地獄の業火をまとう雄々しい男神(おじん)はなにより覚悟と正義を重んじる。強い信念と揺るがぬ決意にこたえて、毘沙門天神は蓮に加護を与えると火の粉を散らし誓っていた。
黒御簾の前まで来た蓮は演奏を止めていた。音で殺せぬなら武器で天帝を屠るしかない。けれどここへきてようやく途方にくれたのだ。手持ちは古謝から返してもらった白鳩の根付の毒と、鈍器として使えそうな龍笛だけ。そのいずれかで確実に天帝を殺せるだろうか。
笛の音が止むと毘沙門天神の影も薄らいでいく。酸素が戻ったように自然と場の空気が緩むなか、ひとり美蛾娘だけは怒りに頬を染めていた。彼女が何か言う前に、御簾奥からしわがれ声がした。
「すばらしかった。下がるがよい」
天帝自身の声だった。
美蛾娘は唖然としていた。天帝自ら下々の者に声をかけるなどあってはならない、それは天地がひっくり返るほどの賛辞であり、蓮が気に入られた証だ。
美蛾娘はしかたなく腰をおろした。忌々しいことに蓮は天帝の寵を得たのだ。この場でわかりやすく殺してしまっては不興をかってしまう。
蓮は呆然と黒御簾の奥を眺めていた。
(すばらしかった?)
いま聞いた言葉が信じられなかった。褒められるために吹いたわけではない、あわよくば死ねと、殺したいと思って出した音なのに――。
立ちすくむ蓮を鎮官たちが引きずっていく。天帝に「下がれ」と言われたのだから、この場はなんとしても下がらせるしかない。引きずられていく蓮を見て美蛾娘は怒りに目をぎらつかせていた。
「許せん、許せん! あやつは天河(てんが)に送り必ず磔(はりつけ)にしてくれる!」
美蛾娘の怒りはここへきて最高潮に達した。これから選抜にやってくる楽人たちをひとり残らず殺すと決めた。
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