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真夏の天然冷房
康史と早奈英はお試し同棲をして4ヶ月。日帰りで出掛けることになった。夏の定番の海や花火大会ではない。栃木県県北部の有名リゾート地の那須、世界遺産のある日光ですらない。フラッと二人で出かけたのは栃木県の県央部宇都宮市にある大谷石採掘場跡。
県南部に住む二人にとって、大谷石採掘場跡は微妙な観光地。ただ、夏に行くと涼しい。ひんやりとしていて冬のような寒さを体感出来る。二人は一緒に住み始めて、気の張ったデートよりもフラッと気分で出掛けることが増えた。大谷石採掘場は有名アーティストPLAYがプロモーション動画で使ったことをきっかけに観光地としての人気が復活していた。PLAY世代の二人にとって聖地巡礼のような感覚だった。
「涼しいっていうより寒いね」
早奈英がカーディガンを羽織り、康史に春物のジャケットを手渡す。ジャケットに袖を通しながら康史は、
「こんな寒いところであの動画撮ってたのか。ボーカルのYOUYAの息が白くなってたもんな」
「ベースのTAKEとギターのSINも笑ってたけど、指先凍りそうだったって雑誌に書いてあったよね」
「そうそう。ドラムのREMだけ衣装がタンクトップで鳥肌立つほど寒くて風邪引いたってオチつけて、テレビで話してた」
PLAYの話になると二人とも熱が入る。ひんやりして薄暗い大谷石に囲まれているのに、メンバーがここで動画を撮ったと思うと自然とテンションが上がる。体温まで上がりそうだ。ブレイクする前の名曲について、CDを買うために頑張った学生時代のアルバイトの話、チケットが取れなかった伝説的なライブビデオを早奈英と康史の二人で見たときの冷めやらぬ興奮、話が尽きない。採掘場の中は音が反響して小さな声もかなり大きく聞こえる。
「PLAYごっこしない?」
普段は優しく冷静な康史が両手を大きく広げる。ボーカルのYOUYAがサビを歌うときによくやる決めポーズだ。
「人は少ないけど恥ずかしくない?」
「旅の恥はかきすてっていうじゃん」
「じゃあ私はREMやる、エアドラム」
時々見回りに来る大谷資料館の係員さんは、
(またか最近の馬鹿者、いや若者は)
という顔で生暖かく見守ってくれている。聖地巡礼として、この大谷石に囲まれた空間でPLAYの真似をして『pure love』を歌っていく人が少なからずいるらしい。
「僕を心まで受け止めてくれた
あなたに今 夢の花束を添えて」
康史が手を広げてYOUYAの真似をする。私は立ったままREMの真似のエアドラムで盛り上げる。腕をクロスさせてドラムを叩く所も忠実に再現していた。次は歌詞通りなら、『ときめきの始まりを告げよう』だ。
「同棲の終わりを告げよう」
康史はわりと上手な音程でサビを歌い上げた。早奈英は思わずエアドラムの手が止まった。康史の顔は真剣だった。同棲の終わり…。なんて凝った別れ話の切り出し方。長過ぎた春だったのか、同棲して生活感が出て飽きられたのか。早奈英は一瞬の間にありとあらゆる別れの原因を探して頭をを高速回転させている。
突然、地面の下と上が同時に横に揺れて早奈英、康史、他の観光客、資料館の係員さん、その場にいる全員の顔色が変わった。地震だ。あの東日本大震災からしばらくたってるしもう大丈夫…であってほしい。この地下にいる全員がそう思っているだろう。
「落ち着いて、避難しますよ」
係員さんの誘導で、平日の数少ない観光客が地上へと避難していく。さっきまでの高いテンションはどこへやら採掘場跡のひんやりした寒さをが恐ろしくなってきた。ここで閉じ込められて死んだらどうしよう。早奈英の不安を見透かしたように、康史はしっかり早奈英と手を繋ぐ。どういうつもりで別れたいのかは知らないけれど、この大谷石に囲まれた場所から脱出するまではまだ恋人なんだ。早奈英は、岩盤が崩れて直撃、痛みが一瞬で死ねるなら悪くないとふと頭をよぎった。
いや、この地下で石に埋もれて死ぬなんて冗談じゃない。別れの理由を問い詰めてやる、早奈英は他に女でも出来たのかと怒りで避難する足に自然と力が入った。
地上について、避難誘導してくれた係員さんにお礼を言い、二人は駐車場に戻った。
「別れたいってこと?」
早奈英が出来るだけ冷静に言うと、
「どんだけ鈍いんだよ、同棲やめてさ…死ぬ前に結婚しよう。さっき本当に死ぬかと思った」
「もう、なんで紛らわしい言い方するの?死ぬかと思ったよ、私も。今さら別れるなら石が直撃して死んでもいいかと思うほど絶望したし」
「『pure love』の続きの歌詞を思い出してよ」
「この愛に終わりはない 生も死も二人を引き裂けはしない 天国はないけれど楽園はここにあるから」
二人の声が完全にハモって重なった。なんだ、そういうことか。早奈英は康史らしくない、凝って考え抜かれたプロポーズに涙がこぼれるどころかわんわんと子どものように号泣してしまった。
「まさかタイミング悪く地震来ると思わなくて、ごめんな」
「私こそ、疑ってごめん」
二人で人目もはばからず、駐車場で抱きしめあったまお互いのぬくもりを感じていた。冷えきった体に真夏の暑さがじわりじわりと戻ってくる。亜熱帯化しつつある日本で、今一番愛に熱くなっている二人かもしれない。
ひんやりした大谷石採掘場で早奈英と康史が結婚式を挙げたのはそれからざっくりと一年後。9月なのに冬のような温度の結婚式だけれど、披露宴は空調の効く別会場を使って上手くやった。地元に根差した新聞にも取り上げられるなど、なかなか好評だった。
プロポーズされた場所で結婚式。しかも好きなバンドにもゆかりがある場所。最高の門出を祝ってくれる親類や友人達に囲まれて、早奈英だけでなく、康史も目に熱いものが込み上げてきてしまった。お互いの感極まった涙をそっとハンカチごしにぬぐう。ひんやりした大谷石の中で、二人のハンカチを持つ手に感じたぬくもり、誓いの言葉を言うときの白い息、キスの唇の温度、全ての熱を何年経っても鮮明に思い出せそうなひんやりした会場だった。
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