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波の穏やかな海、晴れ渡る空――まさしく航行には絶好の日和の中、複数の護衛艦に護られて進む商船。おそらくあそこには東国から持ち帰った香辛料や金銀財宝がどっさり載っているはず――『海の悪魔』の長であるジャックはにやりと笑んだ。
「おーおー、図体ばかりでかくて泣けてくるねぇ」
「余裕こいてると泣きを見ますよ」
参謀たるカイルの藍色の瞳が冷ややかな視線をよこしてくる。けれどそんな嫌味にすっかり慣れてしまっているジャックは、肩をすくめただけだった。
いつも通り狙いを商船に定めて、船団を航行させる。護衛艦もどうやらこちらの存在に気づいたのか砲撃をしてくるが、当たらない。護衛艦の砲手の腕が悪いのではない、こちらの艦の性能がいいせいだ。
小型で小回りが利き、速さも格段に違う。この海賊船と比べれば、各国の護衛艦――特に最近出始めた大砲を積んだ戦列艦の動きなど驢馬に等しい。動きを攪乱させ、こちらからも砲撃をし、相手方の動きを止めて、あっという間に接舷距離に入る。
「行くぞ! いつも通り、女子供にゃ手を出すなよ!」
おー! と勇ましい声が甲板中であがる。商船に体当たりを食らわせ、接舷した海賊船から、意気揚々と海賊たちは次々と乗り込んでいく。ジャックもいつも通り、商船に乗り移った。しかし。
(おいおい、なんだこりゃ……)
甲板で繰り広げられていた光景に思わず唖然とする。
そこは商船ではなかった。正確に言えば、乗員が商船のそれではなかったのだ。仲間たちが戦っている相手は誂えられた揃いの軍服を着ている。つまり全員、海軍の人間だったのである。
見かけは商船。だが乗員は全員海軍の兵士。しかも海賊相手の変則的な動きについてくる訓練も積んでいるらしく、今まで戦ってきた見掛け倒しの護衛兵士たちとは違った。本気でこちらを殲滅するか、捕縛するつもりらしい。要するにこちらが嵌められたのだとわかって、ジャックは吹き出しそうになった。
「お頭、早く撤退した方が……」
お宝は当然積んでいないだろう。まともにやりあえば、こちらに出る被害も尋常ではなくなる。カイルの言う通りに撤退するのが得策と、ジャックもわかっていた。
「ああ、わかってるよ、ってぅお!?」
カイルの言葉に従って、撤退合図を出そうとした時だった。目にもとまらぬ速さで、ジャックを貫こうと何かが迫ってきた。咄嗟に交わしたが、頬にぴっと嫌な痛みを感じた。ちらりと横目で見やれば、頬をレイピアが掠めていた。
一度引かれるも、再度繰り出された神速の攻撃に、今度はジャックもレイピアを引き抜き、それを受け流す。きちきちと金属同士が拮抗しこすれる音が耳に残った。相手もまたレイピアを繰り出していたのである。
そのレイピアの使い手は、驚くべきことに女だった。藍色のリボンでくくった黒髪を潮風にたなびかせ、黒曜石にも似た瞳はこちらをまっすぐ射抜いている。
――それはあの日、望遠鏡ごしに見た女兵士だった。
真っ向からその瞳と向き合った瞬間、ジャックの背筋をぞくりと快感にも似た衝撃が走った。
「あなたが長ね。――捕縛させてもらいます」
彼女の凛とした声音は涼やかにジャックの耳を打った。
◇◇◇
「あなたが長ね。――捕縛させてもらいます」
クロスチアは目を細めて長を見つめた。ほどよく日に焼けた肌、精悍な顔つき、濃く明るい茶の髪に印象的な紅の瞳。異国風の衣装を身に着け、目に捉えることができないはずのクロスチアの攻撃を動じずに受け止める。ただものではない。
「確かにそうだが、俺を捕縛? いいぜ、やってみな。……できるもんならな!」
紅の瞳の海賊の長は口笛でも吹きそうに、飄々と言ってのけた。そして次の瞬間にお互い飛び退って距離を取る。クロスチアはもう一度、レイピアを突き出した。
だが驚くべきことに長は、もうクロスチアのスピードを見切り始めていた。たかだか数合打ち合っただけで、クロスチアの神速のレイピアを見切った者は今までにいなかった。それはもはや、獣にも似た、本能的な戦闘の勘が大きい。
不意に長の姿が視界から消えた。――と思ったら、足に衝撃が走り、クロスチアの視界がぐるりと回転したかと思えばしたたかに背中を打ち付ける。足払いをかけられたのだと気づき、受け身を取って跳ね起きようとした瞬間、激痛が肩に走った。長のレイピアがクロスチアの肩を貫いて、甲板に縫い留めていたのである。
「……っあ」
あまりの激痛に、クロスチアは声を上げることさえままならなかった。代わりに甲板にクロスチアのレイピアが転がる虚しい音が響く。
それでも肩に刺さっているレイピアを引き抜こうとした瞬間、長はクロスチアにのしかかった。レイピアを引き抜けないよう、クロスチアの腕を拘束する。少し離れた場所で藍色の髪の男――カイルと交戦していたクライドは悲鳴をあげた。
「少将! ……っく」
「よそ見してる暇はないでしょう。あんたも死にますよ」
淡々とカトラスをふるい、クライドがクロスチアのもとへ駆けつけようとするのを邪魔するその太刀筋は、海賊にしてはいやに洗練された動きで美しかった。海賊というよりは訓練された海軍士官、もっと言えば暗殺者の静かで無駄のない動きに近い。油断をすれば、その研ぎ澄まされた動きで確かに死ぬだろう。
(だけど、ここで負ければ、中将に顔向けができない……っ!)
なんとかクロスチアのもとに行こうとクライドが奮戦している一方で、クロスチアを押さえつけている長はにやりと笑った。
「少将ってことは、あんたが指揮官か。動きは悪くないが、相手が悪かったな。それとも貴族のお姫様のお飾り人形で、実質はあの副官が握ってるのか?」
なら体に傷をつけちまって悪かったなぁと男が笑う。刹那、クロスチアの中で何かがはじけ飛んだ。女だからとなめられているのだとすれば、とんだ屈辱である。
「……っの、なめんじゃ、ないわよ!」
クロスチアは足を思い切り振り上げた。勢いよく振り上げた足が行きついた先は、長の急所。
――その瞬間、周囲で戦っていた男たちの動きがぴたりと止まった。直撃を受けた長は笑顔のまま凍り付いた。
次の瞬間、長は紅の瞳を極限まで見開いて、クロスチアの拘束を解いた。代わりに急所を抑えながら「ぐぉおおおお」と苦悶の声をあげ、甲板をもんどり打つ。さすがにクライドとカイルでさえも息を呑んだ。特にカイルに至っては、今回ばかりは嫌味を言う気にもなれなかった。
クロスチアはその間に、肩のレイピアを引っこ抜き、自分のレイピアを拾うと、もんどり打っている長の首根っこを引っ掴んで、投げ飛ばした。甲板に長をたたきつけ、全体重をかけて長の首を甲板と自身の腕で挟んで締め上げる。クロスチアの肩からは血が流れて痛んだが、自身の体の悲鳴は無視した。
動けないようにレイピアの切っ先を長の涙ぐんだ紅の瞳すれすれに突きつければ、先ほどとは形勢逆転。クロスチアが主導権を握った。
「……ってぇな。仮にも軍人なら正々堂々と戦うもんじゃないの?」
「奇襲が得意な海賊にそれを言われる筋合いはないわね」
「まあ、そりゃそうか。で?」
「で、って何?」
「俺を捕縛してどうするつもりだ? お嬢ちゃん」
「当然、このまま港へあなたを連れて行くわ。そしたらあとは刑務官たちの仕事よ」
クロスチアの言葉に、長はくつくつと笑った。何がおかしいというのだろう。クロスチアは怪訝な表情をした。
次の瞬間、クロスチアはある気配を感じて長の上から飛びのいた。一拍置いて、耳をつんざくような銃声とともに、今までいた場所を弾丸が通っていく。振り向けば、クライドを相手にしながら、こちらへ銃口を向けているカイルがいた。
当然拘束のとけた長も跳ね起きる。「野郎ども、撤退だ!」そう長が叫ぶと、海賊たちは一斉に戦闘をやめて退却を始める。よく取れた統率にクロスチアは内心感心しつつも、捕縛を諦めない。
「逃がさない!」
殿を務めるらしい長を、突き出したレイピアで止める。だが長の反応速度も異常に早かった。訓練された動きというよりも、もはや本能的な動きに近い。
紙一重でかわされ、手首を掴まれる。クロスチアは苦々しげに顔を歪めた。けれどもそうされながらも、空いたもう片方の手で、クライドに向けて砲撃準備の合図を出す。周囲の部下たちが走っていくのが見えた。
長を睨みつけたが、長はそれに動じず、愉しそうに笑った。
「あんた、立ち居振る舞いからして貴族のお姫様だろうに、よくやるなぁ。根性あるよ。……それに俺に怪我を負わせた女は、あんたが初めてだ。俺の名前はジャック。あんたは?」
まるで口説き文句のような言葉にも、クロスチアは動じない。
「海賊に教える名前はないわね」
そう言い、強く手を振り払おうとした刹那、長――ジャックの武骨な手が、クロスチアの手首についていた認識票をしゃらりと鳴らした。
「そうか、あんたの口から聞けなかったのは残念だ。……また会おうぜ、クロスチア」
そうしてジャックはそのまま甲板を走り、勢いよく飛んだ。既に海賊船は動き始めていたので、艦との距離はだいぶ離れていたのに、驚いたことに見事に向こうへと着地した。恐るべき脚力である。
離れていく海賊船に、砲撃が始まる。だがあちらはクロスチアの知る限り、おそらく大砲を積んだ戦列艦に対応した小型船であった。小回りが利き、スピードもこちらの艦とは比べ物にならない。確かに国同士の海戦は砲撃戦に移行しつつあるが、海賊は移乗して荷を略奪することが目的であるため、利にはかなっている。
結局、砲撃はすべてかわされ、海の彼方へと海賊船は悠々と消えていく。深追いをしても、逃げられることは必須。それに今回の目的は商船の護衛だ。捕縛の狙いはもちろんあったけれど、本来の目的を見失うわけにはいかない。肩を落としながらも、クロスチアは訊ねた。
「商船は無事に逃げ切ったかしら?」
「はい、先ほど港に到着したとの狼煙が確認できました」
部下のひとりが答える。クロスチアはほっとした。少なくともこれでうるさいお偉方の口は黙らせることができそうである。
クロスチアが事前に幼馴染みである情報部の調査員ウィステリアから聞いた情報によると、「海の悪魔」は純粋に商船の略奪のみを行い、艦隊は邪魔をするなら潰すだけということがわかった。
ならば商船の積み荷と船員はすべて護衛艦に乗せて、先に港に逃がしてしまえばいい。そうすれば略奪の対象からは外れる。
あとは偵察用の商船に扮した艦を囮にして、航行し、狙ってきた海賊たちを捕縛すればいい。案の定、海賊たちはたやすく引っかかってきた。取り逃がしてしまったことは残念だが、ともかく船員と積み荷は守れたのだから、よしとした。
「負傷者と損害の確認を。重傷者から順に手当てをして、私たちも帰港します。進路を変えて」
「承知しました。が、まずは少将のお手当てを先にさせてくださいね」
貴女が一番の重傷ですからねというクライドの言葉に、肩の痛みが思い出された。今さらながらずきずきと痛むし、止血をしていなかったから、藍色の軍服は血でどす黒く染まっていた。
ちらりとクライドの表情を伺えば、クライドはにこやかに笑っていた。笑ってはいたが、その瞳は笑っておらず、端的に言えば怒っていた。クロスチアの背中を冷や汗が伝う。クライドは基本的に優しい性格ではあるが、昔からクロスチアが無茶をすると激怒するのだった。それも静かに。
「お、怒ってる……?」
「ええ。まあ、肩をそれだけ負傷して、あれだけの無茶をすれば。利き腕が使えなくなったら、軍人生命が絶たれるっての、わかってるんですかね」
「ご、ごめんなさい」と謝っているうちに、乗船していた軍医が駆け寄ってくる。ふと他の部下たちを見渡せば、少なくとも死者や命に関わる重傷者はいないようだった。
クロスチアがそれに安堵の溜息をこぼしていると、駆け付けた軍医が「まったく兵士というのは無茶ばかりしやがって!」とクライドとまったく同じ内容を怒鳴りつけてきた。クロスチアはその声に、思わず首をすくめたのだった。
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