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【3:もうひとりの好敵手】
優しい子守唄にも似た旋律が耳に届く。現とも夢ともつかない世界のはざまで女は微睡みながら、そのしなやかな腕を伸ばした。けれどもその腕が捉えるはずのものはそこにはなく、むなしく空を切り、やわらかな敷布の上に落ちる。それで目を開けると、隣で寝ていると思ったその人物はそこにいなかった。
「ジャック……?」
身を起こし、落ちていた衣を羽織る。リュートの音が隣室から聞こえた。
昨夜の宴の名残りがそのままの隣室に入ると、幾重にも垂れ下がった紗の向こう、海の見える窓辺に彼は腰かけていた。暁に染まる海を背に窓枠に寛ぐように座って、昨夜女が奏でていたリュートを爪弾いている。その曲は古今東西の歌舞音曲に精通している女でも知らない曲だった。一音一音は単純で子供にも弾けそうな、子守唄に似たやわらかな旋律。
けれどもそのリュートを見つめる紅の瞳は、いつもの彼とは違い伏せ目がちで微かな憂いを含んでいる。さながら一幅の絵のような光景に女はしばし見惚れた。
「……素敵な曲ね。どこの国の、なんて曲なの?」
「ん? ……ああ悪い、起こしちまったか」
リュートの弦を弾く手を止め、答えになっていない答えとともにジャックは顔をあげた。先ほどの憂いは瞳から綺麗さっぱり消え失せている。
ジャックは不思議な男だった。時折気まぐれにふらりと立ち寄り、美女好きを豪語しながら、幾度夜を共にしても、最後の一線を踏み越えさせない。時折何かを探す素振りを見せるが、確信に変わる前に持ち前の明るさに隠されてしまう。そう、今のように。
ジャックはリュートを優しく立てかけると、落ちていた上着を拾った。女はそれを見て上着を彼の手から取って着せかける。帯を結ぶ姿もどこか優雅な彼を見るにつけ、港町に多い荒くれた男たちとはどこか違うと女は感じていた。けっして貴族だとは思わないが、だとすれば彼はいったいどこの誰なのだろうと思わないではいられない。
「昨夜はありがとさん。じゃあまたな」
そう笑って彼は出ていった。女は極上の微笑みで見送る。――ほんの一滴、切なさを交えて。
ジャックは女をひどく優しく抱く。睦言を耳元で囁き囁かれ、でも嘘でも「愛している」とは言わない人。彼にとってここは仮の宿に過ぎず、船乗りが港から港へ渡るように、きっとあちこちで同じようなことをしているのだろう。そんなのはどの客も同じはずなのにひどく胸が締め付けられた。
――女は手すさびに、残されたリュートを爪弾いた。
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