【4:暁の君】

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【4:暁の君】

 ピアノの音が聞こえる。ジャックは微睡みの中、それを子守唄に二度寝しようとして――目を開けた。窓の外はとっくに明るい。ばっと飛び起きて着替えもそこそこに階下へ降りていく。  転げ落ちるように階段を降りたらば、ピアノを弾いていた人物がぴたりと演奏をやめて振り向いた。 「ジャック、危ないわよ。階段を走って降りないの」  口ではそう言いつつ、振り向いた人物は苦笑していた。烏の濡れ羽のように艶やかで豊かな黒髪、ジャックと同じ紅玉の瞳、楚々とした美貌――ジャックの自慢の姉、マルグリットである。年がかなり離れていることと、亡き母の代わりにジャックを育ててくれていることもあって、まるで母親のようでもあった。 「だって姉上、今日は父上の船が帰ってくるんだよ! 早く港に行かなくちゃ。ねえ、姉上は本当に行かないの?」 「慌てなくても船は逃げたりしないわ。それに私はお父様たちを迎える準備をしないと」  だから気をつけて行ってらっしゃいとジャックの額にキスをひとつ落とした姉に、ジャックは照れ臭くなった。この都市で一番綺麗で優しい女性は姉で、だから都市中の男は皆姉に尊敬と親しみを込めて「暁の君」と呼ぶ。縁談も引きも切れない。でもマルグリットは全然嫁ぐ様子もなかった。それはそれで姉をまだ独り占めできるような気がして、ジャックはちょっぴり嬉しかった。 「行ってきます!」  ジャックは軽やかに家を飛び出した。  ジャックの生まれ育ったフォルツォーネは、港町が発展した一大都市国家である。町中に道路の代わりに水路が張り巡らされ、馬車ではなく舟で移動するのが当たり前で、世界中の国との交易が盛んで、異国めいた文化も珍しくない。  張り巡らされた橋を渡り、時に水路の飛び石を軽やかに飛んで、まるで風のようにジャックは街を走り抜ける。やがて見えてきたのは港。今日は今季一番の商船団が入港するとあって、見物人が大勢いた。  人と人との間を縫って、前の方に出れば、やがて次々と船が入港してきた。歓声があがり、歓迎の花が降りしきる。海の神々の名前がつけられた船の中でもいっそう大きく立派な船が入港してきたとき、ジャックは思い切り手を振った。 「父上! 父上!」  泊められた船から人が降りてくる。誰も彼もが、自分の大切な人たちを迎えようと駆け寄った。ジャックもまた父の姿が見えたとき、その小さな体で飛びついた。父もまた「ジャック、大きくなったな!」と嬉しそうにジャックを抱き留める。船乗りであり、商船を航行させている船長の父とは一年の半分も一緒にいられるかいられないかだ。でもジャックはこんなに大きな船を操ることができる父を尊敬していた。 「父上、俺もいつか父上と船に乗りたい! 今回の船旅の話も聞きたい!」 「そうか。じゃあ、まずは学校へ行きなさい。今この時間は、学校のはずだろう?」  からかうように叱られ、ジャックはへへと笑ってごまかした。どうしても父に会いたくて、学校はサボった。マルグリットは見て見ぬふりをしてくれたが、父はそういうところは厳しかった。もとより幼いころから、読み書きはできるくらいにマルグリットが仕込んでくれていたので、今さら学校に行かなくてもと思わないではないのだが、そういう問題でもないらしい。  父の腕から降りて、学校へ向かうことにした。どのみち父もすぐには帰宅できない。荷下ろしやら事後処理やらやることが山積しているからだ。「父上、約束だからな! 今日は早く帰ってきてくれよ!」と手を大きく振れば、父はにこやかに「ああ」と返してくれたのだった。
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