短編集~プリズム 人ごみの中のただ一人の

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 「ごめんね、待った?」  いつものような優しい声で彼が()いてきた。私は首を振った。  「ううん。さっき来たばかり」  嘘だ。私は十分以上前からここで待っている。でも、構わなかった。約束の時間からは三分過ぎているけど、決して遅いというほどではない。彼が私に気づいて、少し急ぎ足になる瞬間を見ると幸せだから、いつも早く来ているだけ。  彼は私の答えにホッとしたように笑った。少し恥ずかしそうに見える笑みがとても好きだ。誰でもない。この人だから()かれる。  「それじゃ、行こうか」  頷いて、私は差しだされた彼の手を取った。その瞬間、色の奔流(ほんりゅう)が流れてくるのが分かった。色が消えていた私へ、色が(かえ)ってくるのが分かる。彼から私へと伝わってきたのは、自分が、ただ一人の存在なのだという証明である、生命(いのち)の色。  二人は人ごみの中に入って歩き始める。でも、もう大勢の一人ではない。私にとって彼はただ一人の男性(ひと)のように、彼にとっても私は唯一の存在。  相変わらず、色を失った人の群れの中で、私たちだけが鮮やかに色をまとっていた。                                 おわり
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