短編集~プリズム 人ごみの中のただ一人の

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 人ごみは不思議な空間だ。大勢の人がいて、目的地に向かってばらばらに歩いているのに、どこかひとかたまりに見える。  そんな雑踏の中、一人立ち止まっている私は、迷惑な存在なのかもしれない。時々、歩く人が迷惑そうに見ながら私を避けていく。舌打ちの声も聞こえた。  ここでは動かないことがルール違反。移動して、背中を壁に預けた。  黙って立ちながら、流れていく人の波を眺める。群れで泳ぐ回遊魚のようだ。先頭が変わっても誰も気にしない。群れからはぐれて消えても誰にも気づかれない。  そんな想像をしながら秘かに笑った。まるで、自分が特別な存在のように思ったことに。  私だって、この群れの中の一人でしかない。だから、歩き始めれば、あっという間に人ごみに混じってしまうだろう。  靴音だけが響き、人の声は意味を持って聞こえない。人ごみの中で個性は必要ない。ここは、誰でもないことが重要だ。  立ち続けていると、自分を呼ぶ声が聞こえたような気がした。視線を巡らすと、どうしてか、彼だけが色を持って目に映った。個性を失った空間で、彼だけが自分を主張しているようだ。  人の耳は特別な機能を持っているそうだ。特定の音を騒々しい中でも拾えるらしい。確かに、どんなに混雑しても、自分を呼ぶ声はきちんと聞こえる。でも、学説は一番重要なことを教えてくれない。  音を発する方向が特定できないのに、なぜ、自分に向けられたものだけは聞き取れるのか。  その仮説では、親子の識別に利用されているのでは、ということだったけど、それなら、私と彼は他人。当然、血の繋がりはない。  だから、彼の声が聞こえるのは、人の考えの外の作用だ。
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