緑色のブドウ

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 生徒手帳を落としたことにはすぐに気付いた。通ってきた廊下を戻って、見つけるまでには五分も経っていなかったはずだ。それなのに、その少しの時間で手帳は踏まれていて、挟んでいた写真は、ふたりのあいだでまっぷたつに折れた。  もしかしたら、これが答えなのかもしれない。  そう思いながら、早瀬(はやせ)由衣(ゆい)は、折れた写真に触れ、少女の頬に落ちた埃を払った。水色のワンピースを着たこの少女は、小学六年生の由衣だ。笑う口元がぎこちないのは、好きな人がもうすぐ遠くに行ってしまうから。そして、ほんの一か月前のバレンタインに、言いたかった言葉を、声にすることが叶わなかったから。  今年もクラスの男の子にはあげとらんと? 由衣は可愛くて優しい子やけん、クラスの男の子にあげたらきっと喜ばれるよ。もし来年、好きな子ができたらさ。  優しい声を受け止めた鼓膜の震えは、今でも明瞭に思い出せる。唇まで届かなかった言葉が、喉の奥でばらばらに砕けたせつない残響も。  由衣の隣、真っ直ぐな折り目を挟んで佇む、学生姿のその人は、少年を確実に飛び越えて、大人の領域に足を踏み入れている。埋められない差があることなんて、とっくに、嫌と言うほど分かっていたはずだ。それなのに、見つめる先の写真が僅かににじんだ。  高校三年生になったばかりの私は、この写真の中の(けい)くんにさえ、追いつけていない。                 * 「はい、ありがとう小川くん」  少し掠れた優しい声が、教科書の音読を止めた。由衣のひとつ前の席の男子生徒が、軽い会釈をしてから椅子に座った。優しい声を生み出す薄い唇を、睨むように見つめていると、「じゃあ早瀬さん」と名前が呼ばれた。返事をして、由衣はその場で立ち上がる。いと浮きたる心地もしはべる、また、尋ねきこえむにつけては、いかなりけることにかと心えず思されぬべきに――。本文を読み上げながら、ちらりと顔を上げて、教壇の様子を窺う。視線の先の人物は、手元の教科書を一心に見つめていて、こちらの視線には気付かない。 「はい、ありがとう」と優しい声に止められた。着席するまで、伏せられた目をずっと見つめ続けたけれど、今回も、視線が受け止められることはなかった。会釈をしても、それを認識されることはなかった。 「じゃあ宮原くん」  由衣の後ろで椅子を引く音がして、呼ばれた生徒が立ち上がった。  由衣は、先生――真田(さなだ)圭人(けいと)を見つめ続ける。こんな意地を張ったって、視線が重ならないことは分かっている。だって、もう一年間、圭人は自分の視界から、巧妙に由衣を外しているのだ。  圭くん、――ううん、真田先生。私を見てくれないのは、本当に教科書に集中しているだけですか?
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