緑色のブドウ

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 その日の放課後、図書室に向かうと、入室してすぐ、カウンターから声を掛けられた。図書委員会の後輩である藤野(ふじの)陽介(ようすけ)だった。「お久しぶりです」と少し緊張したような面持ちの藤野に、「久しぶり」と、先輩後輩の間柄に、いちばん適していると思われる笑みを返す。藤野の視線が、彼と由衣との間を不安げに彷徨ったけれど、それには気付かないふりをして、目的の棚に向かった。  借りようと思っていた本はすぐに見つかった。このまま貸し出し手続きをして帰るのはもったいない気がしたので、図書室内を散歩するように眺めて回った。目の前を、ふわふわと埃が揺蕩ってる。窓から差し込む光に照らされて、それはきらきらと輝く光の塵となる。普段は借りないような、自然科学の書棚なんかも見に行った。数学や化学はやっぱり苦手だなぁ、などと思いながら室内を一周したところで、由衣は足を止めた。『話題の本』のコーナー。並んでいるのは、先日、豪華俳優陣を起用してドラマ化されることが決定した、源氏物語だった。桜色の紙に筆ペンという、和が意識されているポップには、「受験対策にもお薦め」と書かれている。授業でも使うような、ハードカバーの分厚い全集の隣には、アニメ風の絵柄が入った薄いムック本も置いてある。美しい貴公子から顔を背け、切なげな表情をしている姫は、光源氏最愛の女性、紫の上か。それとも、光源氏が初めて恋い慕った藤壺の宮か。ムック本を手に取ってみて、姫は藤壺の宮だと分かった。この本は第一巻で、源氏物語五十四帖のうち、桐壺の(まき)から若紫の巻までを取りあげているとの表記があったからだ。若紫の時点では、紫の上はまだ少女だ。  由衣は薄い笑みとともに、微かな息を漏らした。源氏物語の巻名からその巻のあらすじが分かる生徒なんて、この学校にいったい何人いるだろう。  その物語に綴られていることをきちんと理解できていなかった小学生の頃から、背伸びをして、源氏物語を読んでいた。正直に言えば、ドレスを着たお姫様が出てくる外国の童話や、魔法が出てくるファンタジーの方が好きだったけれど、中学の国語で勉強する源氏物語を読んだら、自分もセーラー服を着た中学生と同じになれるような気がしていた。そして何より、源氏物語が好きな圭人と同じ話ができることが嬉しかった。 「先輩」  後ろから呼びかけられて、由衣はびくりと肩を竦める。咄嗟に、警戒する目つきで振り返ると、立っていたのは藤野だった。目が合うと、藤野は慌てたように瞳を揺らめかせた。 「すいません、びっくりさせましたか。その、……ぼーっとしとるみたいやったけん、大丈夫かなと思って」 「あぁ、ちょっと考え事してたかなぁ。全然、大丈夫だよ」  視線を外しながら答えると、「だったらよかったです」と藤野はほっとしたように笑った。 「ありがとう」  視線を微妙にずらしたまま、微かな笑みを返す。その表情のまま、手にしていたムック本を元の場所に戻し、借りる本の貸し出し手続きを藤野にお願いした。
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