夏の魔物

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 どうして、こんな時に限って……!  (まさる)はベッドから起き上がり、歯ぎしりをした。夏の夜に突如として現れ、安眠を妨害し、吸血していくタチの悪い奴ら。そう、夏の魔物、「蚊」である。ちょうど彼も、出張帰りの夜中に、魔物が襲来した。  とりあえず、と彼は電気をつけ、電気蚊取りをつける。電気蚊取りが魔物に有効になるのはつけてから三十分ほど。三十分経てば静かにはなるだろう。しかし、三十分も起きていられない。明日は初めて任されたプレゼンがある。今は十二時。早く会社に行き、早めに準備をしておきたいのだ。初めてのプレゼンは、絶対に成功させたい……!  彼は壁に背をつけ、プゥーンと何とも聞いただけで痒くなるような音を立てる魔物を、目で追った。小さい。米粒が飛んでいるようなものだ、それはそれは見つけづらいだろう。 「悪いな、蚊。こっちの都合で申し訳ないが、お前を倒す!」  優は手を構えた。蚊は基本的に叩き潰す。優は狙いを定め、手を叩き合わせた――しかし、蚊は彼の手中にはいなかった。  ――消えた。否、まだだ。蚊は、不思議なことに人間の死角に入るように訓練されている。つまり、彼の一番の死角、それは―― 「後ろ」  優は振り向きざまに手を叩き合わせた。良し、タイミングも手の位置も完璧だ。今度こそ――  が、蚊は彼の攻撃を風に飛ばされたかのように避けた。 「な……んで」  完璧に討ち取った。だが、人間と蚊。この圧倒的なウェイトの差は、逆に互いの弱点となり、強みとなる。 (そうか、手を合わせたときの風圧で吹き飛んだのか)  蚊の体重は2グラムから3グラムであり、扇風機の風にも簡単に飛ばされ、雨の雫に打たれても、何事もなかったかのように雫が通り過ぎていく。軽すぎるのだ。 「おもしろい……!」  優は再び壁に張り付いた。すると、蚊も壁に張り付いたのだ。羽を休ませるためだ。 「ここしかない」  ここで、決める! 「うおおおおお!」  優は手のひらを大きく上げると、壁に叩きつけた。蚊は、手のひらの上で潰れていた。 「やっと倒した。さ、早く寝よ」  潰した蚊を捨てようとした時、蚊は話し始めた。 「見事なアタックでした」  優は素直に「どうも」と頭を下げた。 「あなたは、虫を何匹殺したことがありますか?」 「さあ? 覚えてないですね」  蚊はふふふ、と笑うと、「やっぱり」と笑顔で言った。 「私たちからすれば、人間の血は必要不可欠なもの。子孫を残すために、必要なのです。しかし、それがあなた方人間にとっては、迷惑で、邪魔な存在でしょう。でも、少し待ってください。話というのは、視点を変えればどのようにも取ることができます。人間から見れば蚊は害虫だし、蚊から見れば人間は栄養源です。どっちも、生きようとしています。その、生きようとする意思と、意志がぶつかり合うのが、人間と蚊の戦いなのでしょうね。その二つの存在を、誰も批判したり、必要ないと言う資格は、ないのだと思います」  優は頷いた。確かにそうだ。人も、蚊も、生きようとしている。全ての人間には生きる意味があるし、生きなければならないし、その存在を否定することは、許されることではないだろう。それは蚊にも、他の生き物にも言えること。生物、狭く人間は皆、手と手を取り合って生きている。そのどこかでも欠けてはいけない。自らを自らで殺すことなど、法に裁かれないだけで殺人である。 「ありがとう、またどこかで会いましょう。今度は、人間として」 「私も、そうしたいわ」  蚊はそう言って息絶えた。優は、電気を消すと、深い眠りについた。  五年後、優は結婚し、娘ができた。今から、生まれるところだ。陣痛が始まったと聞き、急いで産婦人科に駆け込んだのだ。妻の手を握り、「頑張れ、頑張れ」と応援することしかできない自分に、どうしようもなく腹が立った。  おぎゃあ、という泣き声と共に、赤ん坊が生まれた。優ら夫婦は、涙を流して喜んだ。優は我が子を抱くと、何か思い出しそうに、頭の記憶が一気に溢れ出た。そして、たどり着いた。 「あの時の、蚊か」  泣き叫んでいる赤ん坊に確認は取れなかったが、そうに違いないと優は思った。  成長し、言葉が話せるようになったが、娘はそれらしい事は何も言わなかった。前世の記憶なんてないだろう。それが普通だ。  ある夏の日、小さい娘の隣に妻と共に寝ると、蚊が現れた。妻は心底嫌そうな顔をし、電気をつけた。 「蚊なんてさっさと潰しましょ」  妻はそう言って立ち上がり、一発で蚊を潰した。さすが、と優と娘は手を叩いた。 「少し見せて」  娘の頼みに妻は応え、潰した蚊を見せた。 「可哀想だと思う?」  妻はこう尋ねた。特に意味は無いだろう。 「ううん、思わない。だって、人間だって蚊だって、生きなきゃいけないんだし。どっちかから見ても、どっちかが悪くなるんだもん。どっちも悪くないのに。ただ、一生懸命生きているだけなのに」  優は、全身の細胞が震えたような気がした。やはり、間違いではなかった。あの時の、蚊の生まれ変わりなんだね。  優は思わず娘に抱きついた。 「そうだね。本当に、その通りだよ」  優は愛娘の頭を撫でると、自らも感傷に浸り、眠りについた。
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