[野望の残り火]

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[野望の残り火]

 一九四五年、六月は上旬。  アメリカ合衆国ワシントンD.C.ホワイト・ハウスのオーバル・オフィス(大統領執務室)。  在日本アメリカ合衆国大使および国務長官代理のジョセフ・クラーク・グルーは、アメリカ合衆国第三十三代大統領のハリー・S・トルーマンを眼前にして憤りと困惑をしていた。  第二次世界大戦末期下。  前大統領のフランクリン・デラノ・ルーズベルト以来、アメリカ・イギリス・ソ連(現在のロシア)・中華民国(現在の中華人民共和国)の大国が世界平和の維持を務めるという、「四人の警察官構想」に楔を打つべく、つい先頃の五月にソ連への「武器貸与法」による軍事援助の凍結にかかる発表を、アメリカの代表としてグルーは行った。つまり、言わば連合国軍の同胞であるソ連への兵器供給を、アメリカ側は取り止めにした、という事を示す。ソ連への軍事援助の断ち切りである。  はたして、国際平和を目的として、カント的なコスモポリタニズムを掲げる四人の警察官構想に、どうしてアメリカはそのような水を差す行動に出たのか。  資本主義を掲げるアメリカではあるが、前任の大統領であるルーズベルトは、共産主義にいささかの希望を見出しており、共産主義国家と大同盟する事で、多少の懸念はあるものの、理想的な国際社会が築き上げられるのではないか、と模索していた。だが、ルーズベルトが急死して、世情が変わるにつれ、次なるトルーマン政権になる頃には、共産主義は自由主義、資本主義に対する脅威と見做されるようになっていた。  つまり、第二次大戦後の国際社会をアメリカがリードしていく上で、ソ連や中国などの共産主義国家とは協調は望めない。それは即ち、戦後の覇権争いが、資本主義と社会主義ないし共産主義との対立構造になると見越しての事だった。  そこでアメリカは直近の戦争の終結を予期して、ソ連への武器貸与援助を断った。この方策を推したグルーに対して、現大統領のトルーマンも賛同していた。だからこそグルーは思っていたのである。もうすぐ、この戦争は終わる、と。イタリア、ドイツの枢軸国が降伏した現在、残る日本に対して後は降伏勧告を通知すれば、悪夢のような世界規模の今次の戦争は終結するはずだ、と。トルーマンも同じ考えで、気持ちは汲んでいるはずだ、とも。  しかし、グルーは困惑しているのである。  グルーは東京空襲、大阪空襲、さらには沖縄本島での上陸作戦を経て、日本が気息奄々(きそくえんえん)たる状況である事を、トルーマンは理解していると考えていた。また、知日派でもあるグルーは、これ以上の日本への攻撃を望まない。だからこそトルーマンには王手(チェックメイト)を宣告して欲しかった。もはや日本が連合国に歯向かう力はないのだから。米国側からの日本の降伏を突きつけるそれの提示を望んでいた。  それ以上に、むしろ日本に対して降伏勧告を躊躇していると、ソ連が対日参戦をしてきてしまう。そうなると戦後の国際間における、アメリカとソ連のパワーバランスに支障をきたす事になる。  グルーは危惧する。  ソ連が対日参戦してくれば間違いなく日本は自らの側から降伏を申し出るはず。そうなれば今次の戦争は終わる。だが、そのようなシナリオになれば、ソ連が戦争を終わらせた立役者になり、アメリカの沽券にも関わってくる。そうなってしまえば戦後、アメリカが世界のリーダーシップをとっていく上で、かなりのイメージダウンとなる。威厳あるアメリカ合衆国のカリスマ性を高めるためには、ファイナリストの覇者となるのは絶対条件だった。  そのようなリスクがあるにも関わらず、グルーの日本への降伏勧告の提言を、アメリカ合衆国第三十三代大統領は棚上げにする。  グルーはどうにもトルーマンとのソ連の国際的位置観に齟齬というか温度差を感じ始めた。  グルーのソ連を警戒する心構えの意識はかなり高い。グルーはこう考えている。大戦が終わったら、ソ連はポーランドやルーマニア、ブルガリアやハンガリー、さらにはオーストリアやチェコスロバキアやユーゴスラビアを乗っ取って、ひいては欧州全土を社会主義化する気である。ソ連はまずは欧州の小国の首を締め上げて、ソ連の衛星国化を促し、それをきっかけに太平洋を飛び越えてアメリカにもその脅威を向けてくるだろう、と。さらにソ連が日ソ中立条約を破り日本への参戦を決め込めば、蒙古(モンゴル)や満州や朝鮮は、日本ともどもソ連の植民地となり、その勢いあってアジア支配も現実化してくる。  だからこそアメリカは、資本主義と自由主義の御旗を守るためにも、そのようなソ連の侵略行為を妨がなければならない。その為には各国との協調が必須である。ソ連の社会主義の増長が脅威になるのであって、まずは他の国々からのアメリカに対する理解と、その信頼性を確保する。その出先としてアメリカが日本に対して早期に降伏勧告して、資本主義陣営に日本を取り込むべき。もしこれ以上日本の降伏を遅らせるとソ連が日本に侵攻し、日本が独裁国家の形態そのものにさらに社会主義思想が広がり、次なる戦争を引き起こす結果になりかねない。そして、今次の大戦はアメリカ主導のもとで終わらせたという印象を各国にもたらせる為にも、日本に降伏を促したのはアメリカである、という役割を米国自身が演じるべきだ……と。  そこまでグルーは慮っているのだが、トルーマンにはそのような深謀遠慮が窺えなかった。  今、この時も。 「しかし、大統領閣下(プレジデント)。このまま日本を放っておいた状況におくとソ連の侵攻が危ぶまれます」 「まだ、な。まだ……なんだよ」  直立しているトルーマンはグルーには背を向けたまま、窓の景色を眺め、淡々と答えた。グルーにはその表情は窺えない。グルーは一つ咳払いすると語気を荒めて、 「ですが事態は一刻の猶予も……」 「まだ終わらすわけにはいかんのだよ」  グルーの強い口調を遮ったトルーマンの言葉は、あくまで短く静か。だが、低く重たい声音であった。微動だにしないその背筋からは、相変わらず気色は窺えないものの、小ぢんまりした後ろ姿から放つ異様な気迫に押され、グルーは閉口してしまった。  しかし、終わらすわけにはいかない、というトルーマンの一言から、グルーは一つの疑念ともつかない考えが浮かぶ。顎をさすって目を細めてみる。  もしや、あの、爆弾、の完成を待っているのでないか? 不意によぎる思い。同時にそれを思い出すと奇妙な徒労感に襲われる。一方で自分と同じく中老も半ばにある目前の男の背からは、弱気な気配はもちろん、倦(う)むべき衰えも、一片の老いすらも感じられない。  ハリー・S・トルーマン。前大統領の急死によって副大統領から自動的に昇格した大統領のポスト。実力、というよりは射幸的な意味合いが強かった大統領就任劇。実際に最初の選挙戦においてはKKK【付注:クー・クラックス・クラン。アメリカの白人至上主義団体で、有色人種や同性愛者、果てはフェミニストからカトリックまで範囲を広げ差別的活動を行なっている秘密結社】に加入して、その支援者からの得票をバックに当選したという経緯を持つ(すぐにKKKから脱退してしまうが)。その縁もありカリスマ性という部分でフォロワーする者は多くはなかった。だが、今、目の前にいる眼鏡をかけた優等生然たるこの男からは、はたして強い後光(ハロー)すら垣間見えた。  自らと等しい「老い」を、トルーマンは持っているとグルーは思っていた。年老いて精神も脆くなっているはずだ、と。しかし、この男には意気が感じられた。強さが溢れていた。壮(そう)が漲(みなぎ)っていた。だが、若さではない。清く澄んだ若さとはかけ離れている。それはもっと黒く歪んだある種の妄執。  そして、グルーは顧みる。 この男は自らの存在意義(レーゾンデートル)を、『原子爆弾(アトミック・ボム)』に仮託しているのではないか、と。
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