[流転する歴史の中で]

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[流転する歴史の中で]

 時を遡り、近世と近代の歴史を簡約して俯瞰してみる。  人類史においてしばし戦争は、その破壊・暴力行為とは別に、分岐点ともなる画期を生むべき事象に成りうる。殺戮の戦争によって文明の未来を拓ける、というそれに。負の副産物の結実というべき詭弁ともとれるが、実際に戦争のそのような側面も否定はできない。そして、それは規模の大きな戦争ほど顕著に現れる。特にイタリアで十四世紀に起こったルネッサンス期以降の戦争では。  十三世紀では主に、十字軍による虐殺遠征、チンギス・ハンによる蒙古の制圧、オスマン帝国の隆盛などが極めた時代であった。だが、それらはユーラシア大陸内で起こった、あくまで海を越境する事のない戦争。しかし、十五世紀頃から始まったヨーロッパ諸国による「大航海時代」の到来により、世界の相対振幅は広がった。海を跨ぐ帝国主義の侵攻の徴候としても。  確かに、近現代に突入するまでヨーロッパでは十四世紀~十五世紀にフランスで起こった王位継承を巡る百年戦争。またフランスとドイツの宗教戦争であるユグノー戦争や三十年戦争。まだまだ初期の大航海時代は新たなる土地の開拓及び貿易に腐心していて、他国への侵略という行為には至ってはいなかった。いまだ戦争の主流は大陸内であり地続きの国家同士で、渡海を介する戦争は稀であった。しかし、海を越える機能を人間が持つようになった時、それぞれの国の思惑が世界の支配という、意識の拡大を芽生えさせ始めたのは想像に難くない。言うなればそれぞれの国の為政者たちの認識範囲が、近隣諸国の占領からワールド・サイトへと広がった。事実、ルネッサンスの時期(十四世紀~十六世紀頃)を経て、各国の海外進出は活発化してくる。大航海時代とは一般的に十五世紀半ばから十七世紀半ばまでとされているが、その間に特にスペインとポルトガルは各々が独自の海路を切り拓いて、世界進出していった。それはルネッサンスの勃興と時を被らせて発展していく。  ルネッサンスの三大発明として、「火薬・羅針盤・活版印刷」が挙げられるが、実は火薬と羅針盤は中国で発明されたもので、活版印刷だけがドイツ人のヨハネス・グーテンベルクによって、つまり、ヨーロッパで発明【付注:グーテンベルクによって活版印刷技術の機械化や実用化が成功したのであって、発明という意味で厳密に言うと、史上初めて木版印刷及び活字印刷を行ったのも実は中国において。さらに紙の発明も加わり、ルネッサンス期の三大発明も含め、古代中国の四大発明に全ては包摂されている。即ち、すでに中国においてそれらの発明の草分けはできていた。このように中国の例をとると、過去の文明水準においての現代観ではヨーロッパ文明こそが東洋のそれより優れている、というのが主流ではあるが、実の所、アジア地域の方が欧州文明より高度であり、西洋文化が常に歴史上優位に立っていたというのは、白人至上主義からの観点によるもので、文明や文化の基準としては否定的な見解も昨今では出ている。ただ、産業革命以後の欧州の工業化の発展ぶりが目覚しく、アジア諸国はそこでやや出遅れ、近代史や現代史の見方からすれば、イギリスを筆頭としたヨーロッパ産業全盛期時代をもって評価してしまう傾向が強いので、どうにも近世以前の東洋文明には正当な歴史認識がしづらい、という隘路がある】されたものである。その内、火薬(爆薬物)が中国で発明されたというのは興味深い。  弾道ロケット・ミサイルの祖となったのは、中国での火箭(かせん)、あるいは火槍(かそう)と呼ばれた武器だと言われている。今日でいう固体燃料ロケットの原型のような物だが、十世紀頃には既に存在し、中国は十三世紀後半の元寇との戦いでも使用していた。そのような素地があったからこそ、中国で火薬の発明は成ったのかも知れない。後の近代戦争で使われる科学兵器は、疾(と)うにこの時代から萌芽し始めていた。  前述した戦争による負の副産物も、兵器の進歩によって科学の発展があった。時代を進めて一九〇四年から一九〇五年。日露戦争時の艦隊戦では、日本軍の高度な無線機でロシアの情報を傍受し、戦局を大きく変え、またそれらの軍事無線機はその後の無線工学に貢献し、レーダー装置やソナーなどの科学機器に発達していった。情報通信分野においても第二次大戦下、弾道ミサイルの計算のためにアメリカでは電子計算機の発明が急がれ、それが後にコンピューターの祖型となり、やがて訪れるIT時代の到来の土台にもなった。航空技術や医学、生体工学の目覚しい発展も、戦時を経てやはり新たな発見や発明したものが多い。それは今日のNASA(アメリカ航空宇宙局)の技術が民間へと転用していく過程に似ているかも知れない。  その嚆矢の由(よし)には双方、大きな隔たりはあるが。  いずれにしても、戦争の裏にはそれ以上に省みるべき、何らかのギフトがある。そして、それは人類初の「国家総力戦」と呼ばれた戦争から、破壊性と凶暴性はさらに増していったのではないだろうか。  第一次世界大戦と呼ばれる、第二次世界大戦および太平洋戦争よりも先の戦争。  人類はその大戦にて有史以来、未曾有の総力戦を繰り広げてしまった。 十八世紀半ばから十九世紀にイギリスで端を発して起こった産業革命は、間もなくヨーロッパに波及していって、各国は生き馬の目を抜くかのごとく、自国の工業化を火急の問題として、それを推進していった。結果、急激な諸国の経済発展に伴い、強硬外交や列強思想が増幅し、偏ったナショナリズムを国民に抱かせ、政治指導もそれらに倣い、世界的に帝国主義の色濃さが加速していった。よりよい経済発展や資本の安定した確保。それらは他国を占領した上で成り立つ、と。産業化の拡大には侵略こそが必須となる、とも。その思惑は二十世紀に入り、より顕著になっていき、不幸にも、否、歴史の必然として一つの形となる。そのような潮流が遠因となり、第一次世界大戦が始まり、また、第二次世界大戦への誘い水へと繋がっていった。  ワールド・ウォーとしての第一次世界大戦と第二次世界大戦。実は人類の戦史的に見れば両大戦はかなり特異な様相を呈している。  人類の戦史における初の総力戦の戦争被害の規模だけが理由ではない。それらの武力衝突は人類に対して、究極にして死線間際の自滅戦争の恐怖を啓示したからだ。つまり、国家間の争いの限界。二度の総力戦は古来より続く数多の戦火の歴史とは格別に違う、群れをなした人間同士の諍い、即ち「戦争」の極限をまざまざと露呈した。  古代の戦争の定義と、近世や近代以降の戦争の定義の分水嶺となったのは、一六四八年に締結された「ウェストファリア条約」と言われている。国際法の祖とも呼ばれ現代の国際法に多分の影響を及ぼしている。ウェストファリア条約は神聖ローマ帝国を中心とした宗教戦争である三十年戦争の講和条約であったが、その三十年戦争の内容が思いの外に甚大な被害を及ぼし、その戦場の版図はヨーロッパの各地に飛び火し、その反省からヨーロッパの大国同士が結んだ国際的な秩序を目的とした講和条約であり、それ以降の欧州の国際政治をウェストファリア体制とも称されるようになる。ウェストファリア体制になって以降は大規模な国家間の宗教戦争はなくなっていった。  そもそも近代以前の戦争は、戦争と呼ぶよりは自然状態による闘争に近い。それはホッブスの説いた「万人の万人に対する闘争」に相似し、自然権に依る無秩序的な争い。所謂、戦争というのは破壊の限りを尽くし、相手に対して徹底的な殺戮を容認して、完全なる恭順と支配を求める、ルール無用の殺し合い。それがまかり通り当然の認識としてあった。つまり、戦争における基準というものが曖昧であった。さらにその胡乱な部分は国家の概念にも及んでいるので、戦争そのもの意義付けも困難であった。  当時、欧州はイタリアやドイツを始め分裂国家の様相を呈していて、その領土は漠然としたまま範囲が不明瞭。また、度重なる大小の戦争による勝敗の結果によって支配領域は変わり、その国境線は幾度も分断や合併を繰り返していった。そのような事情もありヨーロッパの人々には一つの国の国民という意識は根付き難く、どちらかと言うと民族や宗教の同属性に団結力を置いていた。そのような認識からウェストファリア体制以前の戦争は、他国支配や領土拡大の大意以上に宗教観の相違による争いの側面が強かった。特にキリスト教におけるカトリックとプロテスタンとの衝突による争いや内ゲバ。シュマルカルデン戦争、ユグノー戦争、八十年戦争、そして、三十年戦争など。これらの戦争は全て十六世紀と十七世紀に集中して勃発している。詰まる所、欧州で二つの世紀を跨いてきた主な戦争というのは全て宗教戦争だった、と示唆しても過言ではない。そこに誕生したウェストファリア体制というのは、以後の戦争観からみれば宗教と政治を切り離した一助の機能も果たしたと言える。  だが、やはり戦争の本意は占領である。宗教戦争が鎮火したら戦争がなくなる、という虚妄は自明の理。宗教戦争とは別に、かつてはチンギス・ハンやオスマン・トルコ帝国が世界支配を画策したように、戦争というものはむしろ宗教という思想を排除した結果、領土確保というより熾烈な戦争を時代は求めてくる。支配や占領の考え方が濃い、極めて純度の高い強国思想の一路の戦争に。その純然たる近代戦争の端緒のなったのは十九世紀初頭に始まったナポレオン戦争だろう。  フランス革命の失政から嚆矢を発した、ナポレオン・ボナパルト率いる圧倒的な強さを誇ったフランス軍とヨーロッパ列強各国との戦争。ナポレオンのその快進撃とその戦術や戦略こそが近現代への戦争の橋渡しとなり戦争自体を先鋭化していった。  既に当時のフランスでは豊富な軍事力があったので地力そのものもあったのだが、ナポレオンは兵隊の主流であった傭兵を使わず、徴兵制を採用し自国民から彼らを兵士にした。金で雇われ戦う傭兵はいざとなったらすぐに敵前逃亡。何故なら彼らは戦いが営利の手段であって、思想も信念もないただの労働者と同じであるから、必要以上に命を賭けて相手と剣を交える事などまずない。だが、国民の有志で派兵した部隊であったらその士気は高く団結力も強い。故国の平和、欧州の制定のためという使命感と義務感を兼ね備えている。ナポレオンはその一種のナショナリズムを利用し兵士自身の質を高めた。ここに兵士一人ひとりの強さと軍隊としての規律の徹底の強さがある。  またナポレオンは行軍、つまり、軍隊の移動のスピードも重視した。戦闘における物資や兵站は現地調達する事にして、なるべく行軍の際には余計な荷物を減らして移動した。無論、現地調達という意味は進軍していく最中の町や村からの掠奪する事を意味する。だが、その蛮行の功あって行軍の進捗や取り回しが格段に速くなり、臨機応変な戦闘を可能にした。  もう一つ挙げるとすれば殲滅戦と呼ばれる敗走相手の容赦ない追撃である。降伏して投降するならそれで良いが、敗れ際にして背を向けて敵が潰走するのは、かえって自軍の有利戦につながる。つまり、追撃する事が最大の攻撃の勝因になる。この徹底した戦術がナポレオン軍の勝利の方程式となった。  だが、汝、奢ること無かれ。盛者必衰。戦争勝率九割以上とも謳われたナポレオン率いるフランス軍にも落日の時が来る。  無敵のナポレオンが結局敗れ去ったのは何故か。  理由は単純。各国もナポレオンの戦術と手法を真似て戦いを仕掛けるようになったからだ。またナポレオンが自らの軍事的センスを慢心し過ぎたのも原因に見られる。一八一二年のロシア遠征の大敗でナポレオンの威信は一気に下降し、イタリア半島とコルシカ島の間に位置するエルバ島へ追放。以降は一度エルバ島を脱出してフランスへ戻り帝位に戻ったものの、イギリス軍とオランダ軍と相まみえたワーテルローの戦いで惨敗し、百日天下。敗戦の責から南大西洋の孤島のセントヘレナにナポレオンは流される。  そして、一八二一年にナポレオン・ボナパルトは波乱の世紀の中で生涯を終えた。享年五十一歳。  だが、というか、やはり、というべきかナポレオンが後世に残した戦法、戦術、戦略の功績は大きかった。  自身、ナポレオン戦争の激動の時代を生きたプロイセン王国の将校であるカール・フォン・クラウゼヴィッツは、ナポレオン戦争の経緯を念頭に軍事学的な「戦争論」という名著を一八三二年に出版【付注:クラウゼヴィッツの死の翌年の脱稿。執筆期間は一八一六年から一八三〇年にかけてと言われているが、クラウゼヴィッツ自身によって充分に練って書かれたのは全八部構成中の第一章のみで、残りの大分は断片的な遺稿を元に親族や他者によって作成され、また版を重ねる毎に加筆や訂正が繰り返されていった】した。言わばそれは戦術や戦略の定義などを位置づけ、また、戦争そのものの意義や理論を体系的にまとめた、一種の戦争哲学ともいえる著作になっていて、現代の戦時国際法の祖型という見方も出来る。  さらに遡って戦時国際法のルーツとなったのは、オランダの法学者で外交官のフーゴー・グロチウスが著した「戦争と平和の法」と見てもよいが、出版されたのは一六二五年と古く、その時世以降の近現代の兵器の発達の面を考慮に出来なかった分、クラウゼヴィッツの戦争論の方がより現今の戦争観に即しているように思えるので、クラウゼヴィッツの戦争論を戦時国際法のプロトタイプとして措いてみた。  だが、その根幹は両著書とも共通するものがあり、普遍的な戦争観を広げ、それを法律的機能として働かせるような内容であり、通奏低音。戦争は野放図に行うべきものではなく、スポーツのように一定のルールに則ったものとする。クラウゼヴィッツの戦争論からすれば、戦争とはあくまで政治の延長線上の外交行為。詰まる所、拡大された決闘であり相手に自分の意志を従わせる為の暴力的手段である、とされている。  一読すると戦争を肯定するような煽り文句にも見えるがそうではなく、決闘であるからには騙まし討ちや不意討ちはご法度。多勢対多勢の場合もあるが、多くの決闘は一対一の相手同士で暗黙のルールに従って戦う。クラウゼヴィッツは戦争が無差別な殺人行為ではなく、合理的かつ合法的な手段に則り、言わば人間としての倫理をもって行えるものとしたい、と説明したかった。実際にその内容には戦術と戦略の違いなど戦争そのものの方法論は当然として、捕虜の概念や処遇、軍人と民間人の区別、攻撃対象としての人家や軍需工場の適応範囲など、戦争による殺傷行為と破壊行為がどこまで及んでよいかも言及している。戦争は最悪であり最凶の合法的外交手段ではあるが、それでも戦争はなくならない。ならば最低限の戦時中の規律を定めて戦時国際法を制定すべきである、という寓意が窺える。  だが、恐るべきは二十世紀に入ってからの戦争における兵器の急激な進化。通常兵器の強力化はもちろんのこと、化学兵器や生物兵器、果ては光学兵器などの特殊兵器の開発。そして、その行く末はもはやグロチウスやクラウゼヴィッツが前提としていた人間同士の戦いの範疇を超える事となる。 原子爆弾という存在によって。  来るべき核の時代が今までの戦争観を根底から覆し、ある意味戦争の肯定や否定も意味をなさなくなった。人間の頭脳における戦法、戦術、戦略などの戦闘手段は無力化。ただ一つの爆弾が雌雄を決する。  多くの犠牲者の流した血によって平和が訪れた……それはしのぎを削って戦い、血肉を傷つけ争った軍人や国民の死に対して哀悼する重い言葉。だが、核の存在を顕にした戦争ではそのような悔悟や反省の念は語られなくなった。何故ならそこに残るのは流れた血以上の「無」しか残らないから。  そして、その、無、となるべく温床となるのが繰り言になるが総力戦。 クラセヴィッツの戦争論においては、あくまで[戦争は他の手段をもってする政治の継続の手段である]として説き、戦争とは国家の枠内で行われる政治の延長線上の一つであったが、総力戦となると事態は変じて、兵士のみならず自国民にも戦争意識を持たせ、その方法論として国粋主義的なプロパガンダを実行して政府ぐるみで戦意高揚をもたらす。つまり、一般国民も戦争に参加しているという意識を根付かせる。それこそが総力戦が長期化し甚大な被害をもたらす隘路。  クラウセヴィッツの時代には総力戦という概念はなかったので、一応は戦時、軍人と民間人の区別、言わば市民を守るための兵士という矜持が前線の兵隊にはあったものの、一九二0年代以降の戦争観からは第一次世界大戦の反省を鑑みて、もはや一度戦争が起これば国民を巻き込んで総動員。ある意味で戦争の倫理と道徳は壊れた。事実、ナチス・ドイツは来るべき第二次世界大戦の中、宣伝相のヨーゼフ・ゲッペルスはベルリンの大集会にてラジオやニュース映像を通じて、総力戦の重要性と正当性を扇情的に演説していた。戦争は政府が決定し軍隊が行うものではない。それはつまり国民総出の殺し合い、なのであるという宣言にも近い。  だが、第一次世界大戦と第二次世界大戦が他の戦争と異質であったというのは、人類史上における国家総力戦であった事だけが理由ではない。古代、中世、近世、近代と連綿と続いた戦争そのものの常識を悉(ことごと)く変えてしまった事にもある。  その発端となったのは第一次世界大戦。最初の世界大戦と二度目の世界大戦との繋がりはやはり看過できない。つまり、一九一四年に勃発した第一次世界大戦という橋頭堡こそが、「現代戦争」への転換期であり、「無」へのカウント・ダウンを鳴らしたギャラルホルンの角笛(終末戦争を告げる号笛)だったからだ。  一九一二年。  ヨーロッパ東南部に位置するバルカン半島。この地はヨーロッパやロシア(当時)、アジア(オスマン帝国)などのそれぞれの民族が交叉する、複雑かつ困難な緩衝地帯であった。そのような情勢の折、勢力を広げつつあるオスマン帝国(現在のトルコ共和国)に対して、セルビア、ギリシア、ブルガリア、モンテネグロの国々がロシアの指揮のもと、バルカン同盟を結成し宣戦布告(第一次バルカン戦争)。結果、同盟側が勝利をおさめるも、獲得領土内での国境をめぐって同盟間で内紛が起こり(第二次バルカン戦争)、敗れたブルガリアがオーストリア側へと接近。複雑に入り乱れる多民族区域はさらに、ブルガリアを含むオーストリアの同盟国、セルビアやギリシアなどを有した、イギリス、フランス、ロシアの協商国の二大勢力に分かれ、混乱の極みへと進んでいく。  もはやバルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」を呈していた。  そして、時機は熟す。  一九一四年六月二十八日。  オーストリア領ボスニア・ヘルツェゴヴィナの州都のサライェヴォで、オーストリア=ハンガリー帝国の帝位継承者であるフランツ・フェルディナント皇太子夫妻が暗殺される事件が起こる。実行犯は十九歳のセルビア人青年。動機はセルビアが本来獲得すべき領土であるバルカン半島のボスニア・ヘルツェゴヴィナを、オーストリアが横車を押して奪った事に不満を持った思想が端を発する。  同年の七月二十八日。オーストリアがドイツの支援を背景にセルビアに宣戦布告。  欧州大戦とも呼ばれた、第一次世界大戦の勃発。  ドイツ、オーストリア、オスマン帝国、ブルガリアからなる中央同盟国側と、イギリス、フランス、ロシアの三国協商を結んでいる連合国側に二分して、後に日本やイタリアやアメリカも加わり、世界史上初の大戦が始まる。  当初は早期決戦の見通しが濃かった。  だが、戦争は思いのほか長期化する。  クリスマスまでには終わるだろうとも称された欧州大戦。しかし、そもそも事の発端はオーストリア=ハンガリー帝国の皇太子夫妻を、一セルビア人青年が殺害した事件。本来ならオーストリア=ハンガリー帝国とセルビアの間の国際問題で落ち着くはずだったのが、どうして欧州規模の戦争にまで広がったのだろうか。その欧州大戦にまでなった経緯は複雑である。  オーストリア=ハンガリー帝国には東方問題というものを抱えており、国内で徐々に台頭してきたスラブ人の民族主義運動が、帝国政府の中枢にいるドイツ人とマジャル人にとって脅威になりつつあった。その際に第一次バルカン戦争と第二次バルカン戦争が一九一二年十月から一九一三年八月まで連綿として行われたのだが、その戦後処理を巡って大きな問題を残してしまった。オーストリア=ハンガリー帝国の隣国にしてスラブ人国家であるセルビアの領土が約二倍に拡大。故にオーストリア=ハンガリー帝国は国内のスラブ民族運動をさらに危険視する事態に迫られる。しかし、それ以上にセルビア人民族主義者は、オーストリア=ハンガリー帝国の南部は南スラブ連合国家に吸収されるべき、との方針を打ち出していた。かなりの暴挙かつ増長主義的な発想ではあるが、スラブ人擁護派のロシアはその施策の支持にまわる。また、一九〇八年十月にオーストリアは青年トルコ革命の際にボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合していたため、ボスニア・ヘルツェゴヴィナのセルビア人はオーストリアに対して不服を申し立てていた。そのような渦中であったのでオーストリア政府としては、スラブ人の民族主義運動が波及し、言わばそれに乗じてロシアが自国とセルビア間の外交問題に強引に介在してくるのではないか、と警戒する状態になった。  一方でドイツもバルカン戦争の余波を受ける。ドイツはフランスと間で一八七〇年七月に起こした普仏戦争に勝利して以来、アルザス=ロレーヌというフランスの重要な工業地帯を奪取し、さらにフランスを国際的に孤立させようと画策していた。無論、フランス国内では反独感情が高まっていく。その後ドイツはフランスからの自衛のために、オーストリアとイタリアとともに三国同盟を締結。そして、さらにロシアとはバルカン半島の支配を許諾する条件として独露再保障条約を結ぶ。これらの一連の流れをドイツの宰相のビスマルクの名から、ビスマルク体制とも呼ぶが、ビスマルクが政権の座を降りると、独露再保障条約は延長されなかった。しかもロシアは一八九四年一月にドイツの怨敵フランスと露仏同盟を受諾。その結果、ドイツがフランスとロシアの二大列強国との諍いを孕む展開を呈してきた。そのような緊張状態の中、ドイツ軍参謀総長のアルフレート・フォン・シュリーフェンは二大国との戦時を想定してシュリーフェン・プランを発案する。その内実は中立国であるベルギーを速やかに略取して、地政的にフランスの背後に回りこみ、フランス軍に一矢を与え、その後に直ちに反進行してロシアを殲滅する、という計画であった。だが、シュリーフェン・プランは、戦略・戦術的には中立国であるベルギーを侵略するという行為から、国際的避難を浴びるのは自明の理であり、またやはりドイツとはフランスと同様に不倶戴天の対立国であるイギリスを挑発する恐れがあったので、かなりのリスクが伴うプランでもあった。  そして、その大英帝国ことイギリス。イギリスは自国の防衛的観点からベルギーを独立かつ中立化をさせて、他国からの侵攻を防ぐ準備は施していた(ロンドン条約)。さらにイギリスはベルギーが他国からの侵攻を受けた場合、自らもベルギー側に立ち参戦する旨を発表している。  そもそも十九世紀末の頃からロシア、イギリス、ドイツ、フランスともに軍事拡張路線は激化していて、それらは自国防衛のために英仏協商や日英同盟や英露協商などの国際的条約の締結などが証明している。やがてドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟に対して、三国協商として形成されたイギリス・フランス・ロシアと対立図が顕になっていく。特に中近東や極東をめぐる各国の争奪戦は激しく、その中で起こったバルカン半島はボスニア・ヘルツェゴヴィナでのオーストリア=ハンガリー帝国の皇太子夫妻の暗殺事件。さらに犯行を行ったのはセルビア人。要はこの暗殺事件は、その事件そのものの意味性よりも、欧州列強国の第一次世界大戦の端緒の恰好の的に過ぎなかったのである。  そうして始まった第一世界大戦は結局の所、各国の首脳陣の思惑を離れ長期化し白熱していく。ドイツが計画していたシュリーフェン作戦はベルギーとのリージュの戦いや、英仏とのフリンティアの戦闘、ロシアとのタンネンベルクの戦いなどで、敵国を圧倒するものの壊滅状態までには追い込めず、どうにも中途半端感が否めない。さらにドイツ軍は、フランスはパリのマルヌ川にまで侵攻したマルヌ会戦で、堅牢なフランス軍の防衛線を突破できず、その戦いにてドイツ軍は退転。ドイツが必勝パターンと睨んでいたシュリーフェン・プランはここで終了を告げる。  その後の戦いはもはや泥仕合というか、ルール無用の野放図な戦争状態。これこそ先の哲学者のホッブスに言わせれば、まさしく人間の自然状態と化した図なのか。この戦争では化学兵器や生物兵器が無作為に使用され、さらには通常兵器の進化も目覚しく、その攻撃力や防衛力は今までの歴史上の戦争とは一線を画す凄惨なものとなっている。まさしく人類史上初の国家総力戦の様相を実現させていた。毒ガス兵器や火炎放射器、迫撃砲の使用、破壊力のある戦車や戦闘機部隊の重車両兵機などの跋扈……陸・海・空の全てが戦場となり修羅場となり、銃後の一般人たちも巻き込みながら、戦争は刻々と全国焦土さながらに進んでいく。  日本がドイツに宣戦布告し、ドイツ権益地の中国は山東省に進行、さらに日独戦争を開始してドイツ軍の防波堤でもあった青島をイギリス軍と連合して攻略。さらにオスマン帝国が同盟国側として参戦。一九一五年五月にはイタリアがオーストリア=ハンガリー帝国に宣戦布告。さらに同年十月にはブルガリアがセルビアに宣戦布告。  一方、このように多くの国々が参戦する中、大国アメリカはどのような行動を取ったか。  アメリカの立場からすれば、遠方で起きている欧州戦争は対岸の火事でしかなかったが、一九一五年五月にドイツ軍による無制限潜水艦作戦でルシタニア号事件が起こってしまう。無制限潜水艦作戦とは戦時において、戦闘海域に敵国と思しき船舶を見つけたら、軍艦は無論のこと容赦なく、中立船、補給船、救護船、客船も関係もなく、何の警告もなしに攻撃を開始するという、戦時国際法に抵触する軍事行動である。ルシタニア号はイギリスの客船で、そのドイツ軍の無制限潜水艦作戦の被害に遭い、乗客千百九十八人が死亡する大惨事となった。  この行為に憤慨したのがイギリスは勿論の事だが、アメリカも同じであった。この客船には多くのアメリカ人も乗員しており、ルシタニア号事件の犠牲者の内、実に百二十八名が海の藻屑となっているからである。この事件によって厭戦気分であったアメリカ国民の世論は反ドイツ思考を高めていく事になるのだが、アメリカ政府は欧州戦争への不干渉の態度を変えず音無しの構えを守る。そして、ドイツも国際的非難の流れから、無制限潜水艦作戦の中止を宣言。これで一旦はアメリカ側も溜飲を下げたかに思えた。 だが、一九一七年二月にドイツは再び無制限潜水艦作戦を発動。この行為によって遂にアメリカは重い腰を上げ、同年四月に連合国側にまわり参戦。また、参戦の理由としてはドイツの暴虐的な無制限潜水艦作戦の再開による脅威だけではなく、イギリスやフランスにアメリカが多くの借款をしているので、これ以上戦争を長期化してしまうと、英仏が戦争の借金を返済できなくなる恐れがあるため、という経済的事情もあった。  さらにドイツの外相であるツィマーマンがメキシコ政府へ向けた電報で、もしアメリカが参戦してきたらかつて米墨戦争でアメリカに収奪されたテキサス・アリゾナ州をメキシコに返還するので、その際はドイツ・メキシコ同盟を締結しよう、という情報の隠密行動があった。だが、その電報をイギリス側が傍受して解読。その情報を対独国交断絶後のアメリカに通告。当時の米国大統領のウッドロー・ウィルソンは早い時期にはそのイギリスの情報に信憑性をもてなかったが、あっさりとドイツの帝国議会で外相はその存在を認め、アメリカの反感をかい、そして、アメリカの参戦を促したさらなる要因になったとも言われている。  兎にも角にも、アメリカの参戦によって、第一次世界大戦は大きく流れが変わる。またドイツでは一九一八年十一月にキール軍港の水兵の蜂起が発端となって起こった民衆運動がドイツ帝国打倒を掲げ、ドイツ革命(十一月革命)が勃発し、ドイツ帝国は瓦解。ドイツは議会制民主主義となる政治を標榜するドイツ共和国(ワイマール共和国)として体制を立て直す。  このようなドイツの内紛も絡みつつ、結局は幾多の混乱の末に第一次世界大戦はある種それ自身が破滅的な方向へと舵を進行させていった。しかし、一方でそれらは皮肉にも欧州大戦の終結へと収束していく。  一九一八年十一月十一日。  この日、戦争勃発から四年弱の期間に、トルコ(オスマン帝国)、オーストリアで革命が起こり、ドイツ帝国も先の革命で崩壊しドイツ共和国になり、第一次世界大戦は多くの歴史のうねりを受けて閉幕した。  世界規模の戦争という一面もあるが、近代兵器の大量使用という発達した「科学」の脅威も相まった二十世紀初頭の戦争。結果、戦闘員は約九百万人、非戦闘員は約一千万人の死者を出し、負傷者は約二千二百万人にものぼった、と推定されている【付注:一九一八年に始まった鳥インフルエンザ由来によるパンデミック(世界的流行の感染症)である「スペイン風邪」が、第一次世界大戦の終了を早めたという説もある。全世界で感染者は約六億人、死亡者は四千万人から五千万人にものぼると報告され、その被害は第一次世界大戦時の死者以上になる】。  また第一次大戦中の一九一七年、ロシアでは帝政ロシアが倒れる(ロシア革命)。一九二二年に世界史上初の社会主義国家である、ソヴィエト社会主義共和国連邦の成立へとそれはつながった。  時代の趨勢は加速する。時代はさらに苛烈な激動(ディオニュソス)を顕著にしていく。  一九一九年の一月。  戦後処理の水端として、パリ講和会議が開かれる。戦勝側である連合国の二十七カ国が出席。敗戦国側とソヴィエト・ロシアへは招致拒否。議会ではアメリカが提唱する民族自決などを謳った十四カ条の平和原則が俎上にのぼると思えたのだが、実際の内容は敗戦国への賠償問題に重点は置かれた。特にドイツとの講和条約であるヴェルサイユ条約では、ドイツの権益や国益を大きく脅かす結果となった。  その内実。  ドイツがボリシェヴキ政府(ソ連の前身)と結んだブレスト・リトフスク条約の無効化。ドイツ本土面積の九パーセント削減。海外植民地勢力圏の放棄。ラインラント(ドイツ西部ライン川沿岸一帯)の非武装化。アルザスとロレーヌのフランスへの譲渡。つまり、ドイツは植民地の全てを失う事となった。そして、課せられた莫大な賠償金。支払い能力的には二百億金マルクしかないドイツに対して、連合国側が要求した賠償金は、ドイツ側の予想を大きく上回る一千億金マルク(後のロンドン会議でさらに高騰して、一三二〇億金マルクに決定)。それは一国に対しての破産通告でもあった。事実、後にドイツは空前の経済破綻に陥り国内は混迷。よってドイツ国民の疲弊と不満は募る一方。 何故、ドイツが敗戦国とはいえ、ここまで苛烈な条件を提示されたのか。それはヨーロッパ、特にイギリスやフランスのドイツ叩きが、ヴェルサイユ体制に対して強く影響かつ反映をしている。ドイツはヴィルヘルム一世を皇帝として、鉄血宰相と呼ばれたオットー・フォン・ビスマルクの政権になった一八七一年までは分裂国家の様相を呈していた。だが、ドイツ帝国として統一後は、ドイツは急激に高度な産業化が進み、もはや欧州の列強国と肩を並べる、いや、それらの諸国を上回る工業力や軍事力を身に付ける事態になるのは時間の問題として、ヨーロッパ各国は当然、さらにアメリカやロシア(ソ連)も感じていた。特にそのドイツの国力の発展に脅威を感じていたのが、イギリスとフランス。両国は第一次世界大戦でのドイツの敗北を待ってましたかと言わんばかりの機会と捉え、敗戦交渉のどさくさに紛れて無理難題と分かっても一気にドイツの弱体化を推し進めるため、過酷かつ強烈な条件をドイツ、ひいてはドイツ国民に突きつけたのである。  どうして、我々がここまで苦しまなければならない?  煩悶するドイツ国民。  ドイツ国民は勝てる戦争だと信じていた。しかし、結果は敗れてしまった。何故、ドイツ国民は勝利の確信をしていたのか。その一つの要因として、戦場の最前線と銃後のドイツ国民との温度差があげられる。ドイツ軍が戦闘を行なっている各々の戦線では、ドイツ軍の敗走状態がほぼ必至状態なのであったが、その事実は国民には公表されず、前線は常勝、と捏造された情報を国とマスコミは吹聴。実際にドイツ国内ではそれほどの戦闘被害は受けていなかったので、突然の「敗北宣言」は国民の信用足り得るものではなかった。そして、本来はまだ戦えると考えていたドイツ国民は、今次の敗戦は一部の敗北主義者や叛乱者の企みによって行われた【付注:背後からの一突き論、匕首(あいくち)論とも言う】、作為的な敗戦として認識されるようになり、その首謀者たるものが「ユダヤ人」として流布されるようになった。この頃から既にユダヤ人への偏見と蔑視の基盤が、ドイツ国内には築かれていった。経済への大打撃もそうであるが、反ユダヤ主義を掲げる民族主義者や国粋主義者に応えるため、諸般のドイツ国政、内情の混迷の事態を打開する事も含めて、ナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)を期待する温床が、徐々に国民の間に広がっていったのである。  さらにドイツが手放した山東省などの権益を巡り、日本が中国に二十一カ条要求を突きつけ、日中両国の関係は悪化の一途をたどりつつあった。 また、オーストリアはかつての領土から、ハンガリーやチェコスロバキアなどが独立して、国力を窄める事となる。  一方、十四カ条の平和原則に従い、アメリカは国際連盟の提唱を行ったが、当のアメリカがモンロー主義(ヨーロッパ諸国への干渉を極力避けるなどの政治姿勢)を盾に、国際連盟には不参加を発表。この行為は明らかに大きな矛盾を孕んでいる。  そもそもは第一次世界大戦の勃発の要因の一つとされる、自国優先主義的な各々の国家の反省から、ヴェルサイユ体制という国際協調路線を推し進めていた米国。にも関わらず自らが提唱したグローバリスムを否定して、アメリカ・ファーストにも受け止められるような国際連盟の加入拒否。しかも国際連盟の発足を呼びかけたのは時の米国大統領のウッドロー・ウィルソン。どうにも齟齬だらけのアメリカの姿勢だが、一八二三年に発表した第五代米国大統領のジェームス・モンローが主張した七番目の教書演説が、当時の欧州情勢を鑑みて植民地競争を牽制したアメリカが掲げた、排外的かつ他国、主にヨーロッパへの不干渉な態度の政策から生まれたのがモンロー主義。だが、その米国の政策が後々に自国の首を絞める事となり、ヴェルサイユ体制でもかのような背反が発生してしまった。ウィルソン大統領自体は米国がフロンティア消滅以来は自国だけの生産が困難になっていたので、孤立国家的な色合いが強いモンロー主義の打破を図り、心底には第一次世界大戦以前から他国への侵略や侵攻を行いたかったと窺えるが、詰まる所は刻々と変わる世界情勢においてもモンロー主義に米国国民やアメリカ政府の保守層が旧態依然に拘るあまり、それが足かせと知りつつあるも、決定的な解決策や妥協案が見つからず、米国自身の呪縛となって柔軟な対応がヴェルサイユ体制時はおろか、その後の外交政策にも多大に影響していく結果になる。下世話的な言い様で例えるなら、本当は国益なるので戦争を行う、または参戦したいのだけれど、表向きはモンロー主義を標榜しているので、それ相応の大義がないと戦争をできない、という桎梏を負う事に。  ある種のそれらの暗黙の条項が後世の第二次世界大戦、もしくは太平洋戦争の複雑化されたアメリカの参戦要因の一つにもなる。  結局、ヴェルサイユ体制と呼ばれた第一次大戦後の国際秩序は、様々な不安を残したまま、疑問を呈する結果となる。  だが、先の大戦での教訓を踏まえ、初の国際的軍縮会議であるワシントン会議が一九二一年から始まった。各国の軍事力のバランスを考え直す、という体裁で言えば聞こえは良いが、実際の所は列強各国のそれぞれの益(えき)、いや、エゴの向き出し合いになってしまった。海軍軍縮条約によって、主力艦の保有率をアメリカ:イギリス:日本:フランス:イタリア=五:五:三:一・六七:一・六七と定め、主力艦の建造を十年間中止する事とした。軍艦の保有率から既に公平性はなく、特に第一次大戦下に勢力を伸ばしつつあった日本に対するアメリカの牽制は厳しく、日英同盟の破棄や翌年の九カ国条約により、中国と批准していた二十一カ条要求における権益も日本は失う結果となる。出る杭は打たれる。その鬱積は日本にくすぶり続け、後の国際連盟脱退への一因となっていく。  また、イタリアではムッソリーニ率いる国家ファシスト党が政権を握り、世界最初の近代的独裁国家を樹立させた。  さらにドイツでは支払えない賠償金を巡り、国内では極度のインフレ状態に陥り破綻寸前。その最中、ナチスが台頭し始める。  混沌とした世相の中では、人々は新たな指導者を求める。熾烈な時流の渦中にあれば、自ずと「独裁者」が英雄となる基盤が生まれてしまうのであろうか。  一九二八年には不戦条約(国際紛争に平和的解決を規定する多国間での条約)、一九二七年にはジュネーブ海軍軍縮会議、一九三〇年にはロンドン海軍軍縮会議など、国際規模の戦力縮小を目指したが、やはり各国の思惑が絡みほぼ決裂状態。  そして、一九二九年十月二四日。  ニューヨークの取引証券所での株価の大暴落、いわゆる暗黒の木曜日と呼ばれる「世界恐慌」の始まり。この世界的に広がった、一大経済危機により、各国はアノミー化する。アメリカはニューディール政策【付注:ケインズ理論を軸にした、国家の市場介入による、経済復興支援政策】をとり、イギリス、フランスなどの資源の豊かな国々はブロック経済【付注:関税を高くし、他国からの輸入を拒み、経済が安定するまで、国内で自給自足する経済政策】を実行し何とか回復を試みた【付注:結果論としてはそれぞれの経済政策は成功したかと思えるが、その回復はスパンとしてはだいぶ緩慢で、かなりの時間を要している。ニューディール政策でいえば、その政策期間中の実質GDPは初期ではむしろ低迷していて、失業者や失業率もやはり悪化の一途をたどっていった。数値的に見れば経済が回復する傾向が窺え始めたのは第二次世界大戦の前後の時期から。つまり、欧州の戦争には不干渉を明言していた米国のルーズベルト政権としては、日本が真珠湾攻撃を仕掛けるまでは表向きには直接参戦できなかったので、連合国への間接的軍事支援により国家の経済立て直しに一役かったといえる。また、ブロック経済も国際分業という観点から考えると、自国保護貿易のため、世界システムとして巨視的に見直すならば、外交や貿易や輸出入が滞ってしまうので、世界経済に機能不全を起こしてしまうという隘路もあった。つまり、各国の経済格差が大きくなるということ。世界恐慌からこれらの要因が重なり繋がった事が、第二次世界大戦のきな臭さの始まり、および激化の一つになったと考えるのも、戦史の一つの側面として窺える】。  片や「持たざる」国である、ドイツ、イタリア、そして、日本などは輸出に大きく依存しているため、大打撃を被る。そこで芽生え始めたのは、より強い帝国主義的発想。世界恐慌は持たざる国々に、世界規模の人災的有事に対応するためには、多くの資源、たくさんの領土、つまり、植民地による広い版図の必要性を再認識させた。それは為政者だけでなく、国民にも痛感させられた。  植民地支配。  それは戦争によって可能になるもの。人々は自ずと「軍」へと期待を寄せていく。  植民地獲得競争を促す事によって、国内の不満のはけ口を外へ向けさせ、さらには挙国一致の精神を高めて、愛国主義へとつなげる。さらに先進国らは、社会ダーウィニズムや優生学的思想から、第三文明圏各国における「文明開化の使命」という、限りなく欺瞞に近い大義名分も後押しさせて、正論化し他国を支配。経済的にも軍事的にも優位な諸国が、帝国主義を加速させる土台はすでに成っていた。もはや第一次世界大戦の悲惨な記憶は顧みる事はなく、省みる事もなく。  だが、現実的にも事実的にも他国への侵略や支配が、パワーゲームの原理として必須の条件として正当化して、先進国でありながら植民地支配には行進的な列強は、能動的に領土争奪戦に意欲を見出していく結果になった。  以後は後に控えた第二次世界大戦への布石。  イタリアは第一次世界大戦では戦勝国ではあったものの、莫大な戦費は外債で賄っていたので、国内財政は悪化の一途をたどり、その危機的国家状況に乗じて勢いを増してきたのが、ベニート・ムッソリーニ率いるファッショ団。一九二一年にはファッショ団は前述した通りファシスト党と改称し、一九二六年にはファシスト党以外の政党を排除し、議会を完全に制圧。一党独裁体制を確立し、所謂、ファシズムを発生させ、さらにそれを徹底させていき、イタリアはヴェルサイユ体制打破を名目に掲げながら、一九三七年には国連から脱退。 ドイツでは国家主義と社会主義を融和させたような独裁体制を展開したファシズムとは同工異曲であるナチズムを拡大していき、イギリスとフランスのドイツへの宥和政策にかこつけて、徐々に軍備を増強していく。やはりドイツ経済に大打撃を与えたヴェルサイユ体制を打倒するため、一九三三年にナチスのヒトラーが首相になると国連を脱退し、賠償金の支払いも拒否する。同時にドイツはナチスの一党独裁体制が完成する。そして、ナチスの第三帝国思想(西暦九六二年から一八〇六年まで成立していた神聖ローマ帝国を第一帝国として、一八七一年から一九一八年まで続いたドイツ帝国を第二帝国と見做して、その次にドイツを統治するのがナチスであるという事を強調した、国家支配体制の理念)は加速していき、後に史上類を見ない大量虐殺計画が進行する事となる。  一方で日本も、一九三一年、中国における関東軍が仕掛けた柳条湖事件(満州事変)。一九三七年の日本軍と中国軍の衝突による盧溝橋事件(日中戦争の勃発の起点となったインシデント)。また、イタリアやドイツと違わず国連も脱退。さらにロンドン海軍軍縮条約、ワシントン海軍軍縮条約も失効させ、ドグマチズム(独断主義)の道を進んでいった。  日本からしてみればアジア侵略がそもそもの目的なので、本来ならば国際的孤立は望まず、とりあえず日中戦争には何処の国も干渉してほしくはなかったのだが、ソ連は勿論のこと、太平洋を越えたアメリカでも日本の侵略行為は看過できないものだった。  元来、アメリカと日本はパートナーシップである関係であったし、アメリカもそれを望んでいた。  その精神は古く日露戦争まで遡り、当時の米国大統領だったセオドア・ルーズベルトの仲介によってポーツマス条約が結ばれ、終戦が叶ったという経緯もあるので、アメリカとしては日本との協調路線を考えていた。  だが、アメリカにも打算はあってこの条約を機に、満州の権益をかすめようとしたのだが、日本が思うように動いてくれなかった。その一つの事例として、アメリカは満州鉄道を日本と共同経営したかったのだが、それが時の外務大臣である小村寿太郎によって拒否された。これでアメリカの中国進出は困難になった。  また、朝鮮と中国における日本の利益を保護する一九〇二年に結ばれた日英同盟もアメリカにとっては目障りだったので破棄させられた。  その後も一九二四年にアメリカで制定された排日移民法(アメリカにおいて日本人は帰化と入国を禁止させる法律)、またアメリカ本体そのものではないが、国際連盟からのリットン調査団の派遣による、日本の傀儡国家である中国は満州国の非承認なども重なり、アメリカとの関係は悪化していった。 アメリカとしては忠実な部下として活動してほしかった日本が、あまりにも勢いが増してきて強大になるにつれ、飼い犬に腕を噛まれるという事態を避けるために、どうにか日本を国際的に孤立させようとしている米国の算段が窺える一連の流れ。  これらのアメリカと日本の外交的齟齬が、後々の太平洋戦争の温床になってしまった一因としても捉えられる。  そして、孤立した三国は時代が生んだ呼び水を元に、必然的に接近していく。  さらなる戦渦に向かって。  史上空前の激しさ見せる、第二の世界大戦の元へと収束しつつ。  戦争。  それ自体は国際法上で認められた外交手段である(国連憲章で国際関係における武力行使が原則禁止ではあるものの)。だが、その方便をニ十世紀以降の科学兵器がはびこる近代戦に合わせるのはどうであろうか。馬や弓矢を使って敵陣に向かっていった、中世の戦闘のそれとはもはや意味が違う。地には火砲を放つ鉄の獅子、海には機銃を手にした波を分かつ動く要塞、空には爆音を響かせる鋼鉄の翼竜。もはやその超越的な戦力は、人類の手も持て余し気味になっているのではないか。かつての戦争には騎士道精神に戦いの美学とも言えるフェアプレイという理念が働いていたが、近代戦争になるとそのような考えはもはや古色蒼然、美辞麗句の類いに詰め込まれ、その戦時における破壊性や凶暴性ばかりが顕著になる。つまり、イデオロギー(宗教戦争における宗教観の違いから起こる争いからなどではなく、道徳や倫理を交えた観念形態としての戦争)を含意した戦争は空文化してしまったのではないか。  先述したように戦時下での兵器の向上は、文明の利器の発展と同期する傾向がある。科学の進歩とも比例する。言うなれば、戦争が科学を生み、さらには連綿たる戦いの歴史が、科学を涵養(かんよう)していった。また、膨らむ文明が戦争を引き起こし、その戦争がさらに文明を肥えさせていった。奇妙な論法ではあるが、顧みればそのような現実、事実が史実に散見される。文明の開化における、戦争と科学の両輪性は看過出来ない。  つまり、ニ十世紀は戦争の世紀であるとともに、『科学』の世紀でもあった。  科学は時代のパラダイムを刷新させ、時に世を建設し、時に世を破壊し、時に人を救い、時に人を殺(あや)めていった。  科学イコール戦争、戦争イコール科学という図式で片付けてしまうのはあまりにも早計ではある。だが、その科学が戦争を連想させてしまう事こそ、科学が何らかの隘路に立たされているような気がしてならない。  再度、ルネッサンス期以降を振り返ってみる。  活版印刷の発明は人々に等しい知識と教養を与えたが、特権的な書物であった聖書の権威を落とし、宗教への懐疑が広がる一端ともなり、科学万能主義の台頭で人々の内省に変化をもたらした。造船技術の進歩は大航海時代を勃興し、大陸間だけであった人類の活動を大きく海洋に広げ、他国との異文化交流により、お互いの文化や文明をより高く洗練されたものにする事ができた。 だが、同時にエスノセントリズム(自国の文明や文化を最上とする考え方)などの異国への無理解から、過剰な干渉や強要、それらがやがて拡大し帝国主義へと進んでいく経緯も見せた。  かような科学の諸刃のポシビリティーは古来より危惧されてきた事ではある。そのようなデリケートな科学であるからこそ、慎重に人類は扱っていかなければならない。でなければ自らの首を絞める結果となってしまう。だが、人類はその科学をコントロールできる。他の生物とは比肩しえない、高度な知性と理性を合わせ持っている。長い地球の歴史の中でも、最も優れた種である、と。少なくとも人々はそう信じていた。  だが、本当にそうなのであろうか。  かつて地質時代で中生代と呼ばれた頃は、爬虫類が万能の科学がなくとも約一億八千万年は地上に君臨していた。科学による繁栄のみが、生物やその種の永続の決定因になるとは言い難い。  科学を信奉するのは、人類のただの傲慢ではないか。むしろ科学によって与えられた利便性は、知らず知らずのうちに人を縛っているのではないだろうか。  否、科学は偉大である。  否、科学は慄然(りつぜん)である。  畢竟(ひっきょう)するに、科学に対する認識は人によって様々である。  だが、想像以上の科学力を目の当たりにした時、はたしてそれは人類自身が許容可能なものになるのか。  また、一個の人間として彼ら、彼女らはどのような裁定を目前の利器に下すのであろうか。  それとも圧倒的な脅威(ジャガーノート)に対して、ただ人は固唾を飲むだけに留まるのか。  科学。  科学に携わる者として科学者がいる。だが、かつて科学者という言葉は存在しなかった。科学者という語彙が出始めたのは十六世紀から十七世紀にかけてと言われている。その頃までは科学者という地位や職業は認知せず、自然哲学者と呼ばれていた。つまり、ガリレオもニュートンも厳密に言うと科学者ではなく、哲学者だったとも捉えられる。  そもそもとして時代とともに発展していった科学(自然哲学)は危惧を孕んでいた。それは宗教、特にキリスト教に対して。科学はキリスト教の聖典の教えに多岐に渡り反していたからだ。古来より聖書とアリストテレス的自然観に基づいて成立していたキリスト教は、その揺るぎない法則性を神に依拠して、天と地の理は同一ではなく、天は神の領域であり、地は罪深き人間の領域だと棲み分けしていた。つまり、天(宇宙)と地(地球)では物理法則が違うという事を湾曲的に啓示してきたのである。天動説と地動説の争いなどが分かり易い例だ。  だからこそキリスト教は科学の進歩によって明るみになっていく、聖典の欺瞞を恐れていた。千五百年以上保ち続けた絶対的な聖書の教えを、科学の御名のもと屈服するのに怯えていた。やがてそれは干渉、圧力としてキリスト教の間違った権威が世にはばかり始める。  自然科学として発生する事実がキリスト教という強大な権力に押さえつけられる。時に人は罪に問われ、ある者は鞭打たれ、ある者は火刑に処されたり、と。  だが、時代の流れには抗えず、キリスト教も自然科学を容認せざるを得なくなる状況に陥っていく。もはや神であり宗教が絶対的な森羅万象の決め事ではなく、科学が日常の生活の営みで起こる、様々な自然現象が答えを導いてくれる、という事実に多くの人々は啓いていく。  宗教は権威ではなくなった。そして、脅威でもなくなった。科学こそが正しき真実だと人々は信じ始めた。  だが、その科学こそが権威、いや、暴威と脅威へと変貌を遂げていった。果たして科学の正当性が疑われる事になった。そう、戦争という凶事を通じて。科学はこれから何を呈示していくのだろうか。 いずれにしても人々は選択しなければならない。自らが切り拓くその明日を。  結果、自らが審判した未来を。  そして、その時は、近い。
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