[滅びの序章]

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[滅びの序章]

 クリスマスも近い十二月、夜のドイツはベルリン。  ドイツの冬は十二月と一月がもっとも酷寒となる。北東に位置するこの都市は、冬期でも市街地の建築構造によりヒートアイランド現象が起こり、周辺地域よりも多少気温が高くなって、降雪したとしてもそれほど積もる事はないが、こと北風に関しては厳しい地域にある。  霧深く、凍えた風に見舞われる街。  そんな首都・ベルリンに位置するカイザー・ヴィルヘルム研究所(現在のフリッツ・ハーバー研究所)で、還暦も近い科学者と三十代は半ばの働き盛りの科学者の両者が、思慮深く静かに、一方で息荒く上気しながら頭を抱えていた。  時は一九三八年。  この前年、ドイツはスペイン内戦の最中、小都市ゲルニカに対して大規模爆撃を行っている。スペインの内乱とは、一九三六年の七月から始まった、左派であるマヌエル・アサーニャ首相率いる人民戦線政府と、右派であるフランコ将軍が指揮する反乱軍との権力闘争である。フランコ反乱軍をドイツとイタリアが支持し、一方、反ファシズムを標榜するソ連は人民戦線政府を支援。また、人民戦線政府では、イギリス、アメリカ、フランス他五十数カ国の労働者約三万五千人が集まり、国際義勇兵として援護。  この戦いの構図は後に第二次世界大戦の前哨として位置付けされる事になる(スペイン内戦は一九三九年の三月に、フランコ反乱軍の勝利をもって収束する)。そして、スペイン内戦を機に、イタリアとの結束を深めたドイツは、第三帝国思想における世界首都ゲルマニア計画(ヨーロッパを支配して、一大ドイツ帝国を築く理念)を確信し始め、翌年の九月、ポーランドに侵攻し二度目の世界大戦の緒(いとぐち)を仕掛ける行動にでる。  そんな情勢下の、一九三八年の冬も厳しいドイツの都市の片隅で、二人の科学者はとある実験結果に興奮し、また、困惑していた。そして、一つの答えを導こうとしていた。  二人の科学者。  六十近い年齢とはいえ、その風貌は壮健な感のあるオットー・ハーン。もう一人は若さも充実期のフリッツ・シュトラスマン。ともにドイツ人の化学者である。  彼らはかねてから人工放射線元素の実験に没頭していた。一九三四年にイタリアの物理学者のエンリコ・フェルミが行った、中性子照射による人工放射性元素の生成以来、当時はそれらの元素の人工変換の実験は有名な所となっていた。カイザー・ヴィルヘルム研究所以外でも、ローマのエンリコ・フェルミ研究所グループや、パリのフレデリックとイレーヌのジョリオ=キュリー夫妻【付注:夫人のイレーヌは、放射線の研究で二度のノーベル賞に輝いた、マリー・キュリー夫人の娘。自身も一九三五年にフレデリックとともに、やはり放射線の研究の功績により、ノーベル化学賞を得ている】とユーゴスラヴィア人科学者のパヴェル・サヴィッチによる共同研究グループらが、放射線元素の人工変換実験に取り組んでいた。  彼らが実験していたのは、ウラン原子核に対する中性子照射による、超ウラン元素の生成。人工放射線元素(ここでは超ウラン元素のこと)への変換とは、平たく言ってしまえば、物質に中性子(電荷がゼロの核子)を浴びせ、別の性質の元素に変えてしまうこと。極論してしまえば、それは鉄をダイアモンドにするような、別の物質に変えてしまう作用である【付注:余談ではあるが物理的に、水銀などの元素から金を作ることが現在の科学では可能(厳密にいうと金の同位体)になっている。ただこの錬金術、金の発掘よりも莫大なコストがかかるため実用化は厳しい】。  だが、ウランに浴びせた中性子が生み出したはずの超ウラン元素。理屈でいえば中性子を吸収した分、超ウラン元素は元のウランよりも、(原子核内の陽子と中性子の質量数による)重い元素になっているはずだった。  ハーンとシュトラスマンの二人も、そのような実験結果を期待していた。  しかし、結果は予想に反して、ウランよりもずっと軽い人工放射線元素になってしまった。当初はその一つが放射性元素のラジウムではないかと思われた。ラジウムはウランの原子番号(その番号は陽子の数と同値になる)である九十二に近似値の八十八であるから、それならばウラン原子核よりも軽い、と。だが、さらに調べていくうちに、どうやら問題の元素はバリウムであった事が判明した。バリウムの原子番号は五十六。ウラン原子核に潜む九十二個の陽子が、中性子一個を吸収しただけで、三十六個も奪われた事になる。  質量数もウランのほぼ半減したバリウムを生成してしまった事実。この結果は二人を驚嘆させた、というよりは戸惑わせた。めいめいどのように結論付けていいか、正直、手をこまねいてしまったのである。  そこで二人は以前同じくカイザー・ヴィルヘルム研究所で研究をしていた、オーストリア人の物理学者のリーゼ・マイトナー女史に意見を聞く事にした。化学ではなく物理学の観点からの解決を期待した。  当時、マイトナーはナチスの台頭以降、人種差別の迫害を受けて、スウェーデンのストックホルムの研究所に逃れ、研究を行っていた。そこに届いたハーンとシュトラスマンからの、『ウラン原子核に中性子を照射したところ、ウラン原子核よりも小さな原子のバリウムが検出された』という内容の手紙。  狐につままれたような実験結果を掴まされたマイトナーは頭を悩ます。甥であり同じく物理学者でもあるオットー・フリッシュにアドバイスを求めるも、実験結果が間違っているのではないか? とやはり困惑気味。だが、マイトナーとしては信頼の置けるかつての同僚の試みである。無下には否定できない。そこでマイトナーとフリッシュの二人はより物理的に、論理的に考え、その原因を探ろうとした。  そこでまず原子核の液滴模型からアプローチを始める。核を一つの液体とみなし、核に対して中性子をぶつける事によって、表面振動を起こした結果、核は励起状態となってポテンシャル・エネルギー(位置エネルギー。物体の質量・高さ・重力加速度の積から得られるエネルギー)を発揮する、という考え方を持ったモデル。中性子を吸収し励起振動した核は、球形の水滴からくびれを持ったひょうたん型に変わっていき、やがて二つに分かれる。つまり、核子が分裂する。  すなわち、後に開発される原子爆弾の爆発の基礎となる、『核分裂』の事を意味する。  そこでマイトナーたちが算出した、核分裂によるエネルギー放出の値は驚くべきものだった。中性子一つを一個のウラン原子核が吸収した際に発生するエネルギー値は約二億電子ボルト(電子ボルトとはeVとして記される、エネルギーの単位のこと)。一つの化学反応から得られるエネルギーは五電子ボルト程度。だが、核反応によって得られるエネルギーはその四千万倍である【付注:化学反応は分子構造の入れ換え、つまり、物質内のエネルギーが異なる内部エネルギーに変化する過程からなる。だが、核反応は物質そのものを直接エネルギーに変化させるエネルギー反応。具体的に言うと、質量一グラムの物質がエネルギーに変化した時、それは石炭三千キログラムの燃焼(化学反応)エネルギーに等しい】。  原子核一個の大きさは約十兆分の一センチメートル。そのような極小、ミクロの物質が分裂しただけで、これだけの甚大なエネルギーを生み出すことになったのだ。いや、分裂しただけ、というよりは核子を裂いた結合エネルギーから発生した驚異的な数値なので、その小さな分裂こそが最重要の現象である。字義通り核の分裂であるのだから【付注:なお核分裂の説明は液滴模型だけでは不備があり、後に殻模型を折衷して補正している】。 マイトナーとフリッシュからの報告を手紙で受け取ったハーンとシュトラスマン。腕を組み歯軋りしながらも、二人は一つの解答を導き出す。 「ウランのような重い原子の不安定核が分裂して、軽い元素が二つ以上発生する……」  ハーンは口ひげをなぞりながら、僅かに呼吸を乱して呟いた。そして、続けて、 「これは核分裂反応(ニュークリア・フィッション)と考えられる」  と断じた。 「核分裂、ですか」  横にいたシュトラスマンは囁くように言うと、徐にハーンの方へ顔を向けた。若い科学者がやや口角を引きつらせて笑うと、かつて放射性トリウムを発見した物理学界の領袖もつられて笑顔を見せた。世紀の大発見である事は理解できたからだ。追試の必要はある。だが、二人は間違いないと確信していた。だからこそ口数は少なくとも喜色を表した。  核分裂。  それに至るまでの経緯には、放射線との関わり合いも忘れてはならない。核分裂の原子核の反応から放射線が生まれるからだ。放射線元素の発見自体は一八九五年、ドイツ人のヴィルヘルム・コンラート・レントゲン、所謂、今日でいう「レントゲン撮影」の名で広く膾炙(かいしゃ)している、物理学者のレントゲンによって発見されている。そのレントゲン、真空管の陽極から未知の光線が発し、陰極線の進行方向とは逆の方向に置いた白金シアン化バリウムを、その光線が光らせている事に気づいた。その光線をレントゲンは「X線」と名づけ、それこそが人類が初めて発見した「放射線」であった。  補足ではあるが放射線は時に、「放射能」とも混同した使われ方をされる事が多い。だが、厳密にいうとその性質、というよりも意味合いは異なる。放射線はα線やβ線やγ線などをさす、(放射性)物質から放たれる光線の事であり、放射能は放射線を放出する能力を有する(放射線)物質それ自体を示す。その故なので、巷間で時折原発の事故の際に、放射能漏れ、という言葉を聞くが、それは誤りであり、放射線漏れ、が精確には正しい。放射能それ自体は物体なので、放射線を発する訳ではないのであるから。  さらに蛇足ではあるが、放射線の発見は世界的な観取(かんしゅ)にも関わらず、それをレントゲンは自らの名を冠しないX線(現在ではレントゲン線の名称も使われている)と命名し、発見その後もX線に関する論文は一度発表しただけで、また、それらの特許も取らず、放射線の研究からは遠ざかり、本来行なっていた研究に戻っていった【付注:レントゲンは放射線の研究をしていたわけではなく、物質の比熱測定や電流の識別の実験を行っていた。X線の発見はそれらの過程の副産物だった。レントゲンは科学者として忌憚な姿勢を崩さず、後の一九〇一年に記念すべき第一回のノーベル物理学賞を受賞する】。  放射線の発見の翌年、加えてベクレルによって放射能の存在が明らかになり、キュリー夫妻らによる身を挺した実験によって、ラジウムやポロニウムなどの様々な新しい放射性物質の発見に繋がっていく。  また、もう一方、核分裂で切り離させない事項で電子の発見が挙げられる。  原子というもの自体は電気的に中性でなければならない。世に存在する物質そのもののほとんどが、プラスやマイナスに偏らず文字通り電気的に中性であるからだ。だからこそ物それ自体に触れても、電気で痺れるような事はない(静電気などの電荷を帯びた物理現象は除く)。だが、その原子の構造に不明瞭な点が多く、何故、原子が電気的に中性を保っているかが分かっていなかった。  一八九七年、イギリスの物理学者であるジョゼフ・ジョン・トムソンはある条件下であれば金属板の表面から、マイナスの電気を帯びた微粒子が大量発生する事を発見する。それは金や銀や銅など、どんな種類の金属からも同じ現象が起きた。この電気的にマイナスの荷電を持った微粒子こそが電子であった。そして、このマイナスの電荷を持った微粒子こそが、後に素粒子と呼ばれる最小単位の物質の発見でもあった。つまり、電子というマイナス荷電粒子の発見は、人類史上初の素粒子(ただしこの頃は素粒子という概念はない。なお素粒子の種類自体は電子以外にも複数存在する)の発見でもあった【付注:ジョゼフは一九〇六年にノーベル物理学賞を受賞しているが、息子のジョージ・パジェット・トムソンも一九三七年に電子の波動性の発見によってノーベル物理学賞を受賞している。父と息子ともに電子にまつわる功績で受賞したのは興味深い】。  こうして原子には電子というものが存在して、その粒子にはマイナスの電荷を帯びている事が判明した。しかし、ここで問題が起こる。先ほど述べた、原子は電気的に中性である、という解釈と齟齬ができてしまう事だ。そうなると原子の性質自体に誤りが生じ、所謂、理屈が合わない事態に落ち入る。  そもそも電気的に中性とは電荷量がゼロである場合を指す。言ってみれば、原子そのものがプラスもマイナスも電気を帯びてない方が都合は良かったのだが、奇しくもトムソンが電子を発見して、さらにそれはマイナスの電気を孕んでいるという結果をもたらしてしまった。つまり、原子が中性ではなくマイナスの電気に偏る。ある意味、電子の発見は原子の構造をより複雑化する事になった。  それならばどういう予想が設けられるか?  原子内に電子のマイナスを打ち消す何らかの物質、つまり、プラスの電荷を帯びた物質が内在すれば、原子の電気的中立性が保たれるはずだ、という事になる。  そこで理論立てされたのが原子核という存在である。そして、後に発見されるこの原子核こそが核分裂、ひいては原子爆弾の開発のエポックになったと位置づけても過言ではない。  二十世紀も初期から原子核の存在はフランスの物理学者のジャン・ペランや日本人物理学者の長岡半太郎によって提唱されてきた。特に長岡の発案である土星型の原子モデル(原子核の存在を想定して、その周りを電子が回っているという構造)は有名である【付注:ジョセフ・ジョン・トムソンもブドウパン型の原子モデル(プラスの電荷を持った粒子がブドウパンの中のブドウのように散らばっているという構造)という原子模型を発表している】。  そのような中、一九一一年にイギリスの物理学者のアーネスト・ラザフォードが放射線であるアルファ粒子(α線)を原子に衝突させる実験から、原子核の存在を確認する。さらに一九一八年にラザフォードは陽子という核子の存在も発見する。この陽子こそが原子核を形成するプラスの電荷を持った粒子で、マイナスの電荷を持った電子とは正反対の性質をもつ、言わば原子が電気的に中立性を保てる要素になり得る存在になった。だが、原子核の質量と陽子の質量では整合性がとれない。つまり、陽子イコール原子核では、陽子の質量が軽すぎるので質量差が出てしまう。そこでラザフォードはその質量差を補完する中性子という粒子の存在を予言した。そして、そのラザフォードの予想通り、イギリスの物理学者であるジェームズ・チャドウィックが一九三二年に中性子を発見。中性子はプラスとマイナス両方の電荷を帯びない、まさしく名前通りの中性な粒子。だが、この無電荷の中性子という核子こそが核分裂の最重要な鍵となる。  何はともあれ、こうして原子の構造は概ね判明した。まずは原子というものがあって、その内部の中心には原子核という陽子と中性子を合体させた物質が存在し、その原子核の周りを電子と呼ばれる粒子(素粒子)が回っている。単純にまとめてしまえばそのようになる。  このように、レントゲンの放射線の検出、ラザフォードによる原子核、陽子の存在の確認。フェルミによる人工放射線元素の創出の成功を挟んだ、チャドウィックによる中性子の発見。それらの一連の核分裂までのロードマップ。そして、そのような原子物理学の発展がバックボーンになり得てこそ、原子爆弾誕生の危殆のベースとなった。  舞台を再びベルリンに戻す。 「そう、原子核の分裂だよ」  ハーンは早い口調で返すと、破顔を交えたまま、静かに笑声し始めた。シュトラスマンもやはりハーンの所作に同調する。しかし、お互いの笑いの声音はどこか乾いていて、何よりも目が見開いたままで、目尻が緩んでいるようには見受けられない。緊張している。強面のまま無理に笑顔を作っている。手には汗を握っているのに、背筋には悪寒に近いものが走っている。二人は語らずとも矛盾した心境、生理現象に見舞われている事を了承していた。  後世、物理学史上に残るはずの発見をしたゆえの興奮からだからか。  それとも人類が脅かしてはいけない領域に入りつつある事を自覚した恐怖心からなのか。 「聖夜(クリスマス)の前のとんでもない贈り物ですね」 「確かに」  冗談めいたシュトラスマンの言葉を、軽やかにハーンは応える。  これは科学の一つの到達点であり、一つの夢の成就かも知れない。  恐らく画期的な発見を成したであろう、科学者両人はそれ以上の言葉を交わさずとも、そのような思いを、胸襟、抱いていた。  ドイツ生まれのユダヤ人である、サムエル・ウルマンはこう詩(うた)う。  冬の夜はオーロラ、夢を紡いで行き来する……と。  二人の科学者は厳寒の冬の夜に夢を紡いだ。  だが、その夢はオーロラ色に満ち溢れていたのだろうか。  兎にも角にも、ハーンとシュトラスマンの機械的な笑いは続き、ベルリンの一角の寂寞さを覚えるラボに虚しくこだまする。  それは後一ヶ月を待たずして、一九三九年になろうとしている、とある三冬(さんとう)の日の出来事だった。
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