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 一九三九年、八月。  ドイツはソ連との間に独・ソ不可侵条約を結ぶ。反共的な思想を持つドイツがソ連と手を組んだ事は世界各国を揺るがせた。だが、ドイツとしては次なるステップを踏むためには、ソ連の中立化は必須の要件だった。結局、ドイツともどもソ連も独裁的政治というポジションから各国から注視されている点では同じく、また、ソ連は社会主義を是とする国家なので、資本主義が専横する世界情勢からはさらに敵視されつつある。さらにはお互いが睨みをきかせているポーランド国内の割譲権益を含め、詰まる所、両国の利害は一致し調印に至った。  そして、同年の九月一日。  ドイツは同盟軍のスロバキア軍とともにポーランドに侵攻。  第二次世界大戦の口火が切られる。  だが、この戦いの始まり、ドイツとしては一種の賭けでもあった。  それは、イギリスとフランスは参戦してこない、という打算。  彼ら資本主義国の敵は社会主義、共産主義国家であって我々ではない。彼らが敵対視しているのはソ連だ、という目論見である。  実際、ドイツがそう睨んだのにも、もう一つ理由がある。  一九三六年の三月に行った、ヴェルサイユ条約で非武装地帯に認定されていたラインラントへの進駐である。こちらも一か八かの賭け。この戦略に対しては、フランスが軍事行動を起こす理由にもなり、また、イギリスもフランスの援軍という名目で、参戦する事ができる。当時のドイツの軍事力では、フランスとイギリスの両軍に対抗する術はない。だが、ヒトラー率いるナチスは、フランスとイギリスは反撃せず、という判断を下し、実際に両国は介入してこなかった。ナチスがその考え方に対して確信があったわけではない。あくまで推量。せいぜい利害的な側面から、ラインラント進駐ぐらいでは動かないと踏んだからではないか。事実、その僥倖は成った。内実としても、フランスはドイツの進駐を予測していたものの、戦力の準備が間に合わず、イギリスはそもそもラインラントの進駐自体をあまり問題視していなかった側面がある。結局、そのまま傍観の姿勢。後のアンシュルス(一九三八年の三月に行われたドイツによるオーストリア併合)の際も、フランスやイギリスら国防軍は干渉行為を行わず沈黙。ドイツはこれらの経緯を踏んだ上でポーランド侵攻を行ったのである。  だが、穿った見方をすると、ドイツの一連の行動は、国際連盟加入国をして、ドイツを踊らせていたのではないか。  資本主義、自由主義の国々からすれば、コミュニズム(共産主義)も「危機」の面では同じではあるが、ファシズムやナチズムの台頭はさらに都合が悪い。全体主義の温床となる。悪い芽は潰さなければならない。それは正当な理由をもって。そこでドイツを暴走させる。時機が来るまで放置する。  そして、時機は来た。  ポーランドへの侵攻。「悪の国」ドイツのイメージは決定的となった。ならば悪に立ち向かう善こそが立ち向かわなければならない。大儀の図式は熟した。実際、同月の三日にフランスとイギリスはドイツに早々と宣戦布告し、片や同月の十七日にやはりポーランドに侵攻したソ連には宣戦布告をしなかった。ナチスの読みははずれたのである  だが、大戦勃発時、ドイツは破竹の勢いで進攻を始める。ポーランド侵攻後、次々とヨーロッパ戦線を拡大していき、一九四〇年のダンケルクの戦いでは連合国をヨーロッパから撤退させる攻勢ぶり。その勢いのままに、ドイツは日本やイタリアと日独伊三国同盟を同年の九月に結ぶ。すぐさまイタリアが参戦。イタリアはエジプトやギリシアへと攻めていく。一方でドイツもバトル・オブ・ブリテン(対イギリス空軍を中心とした、一連の空中戦)で打撃を受け戦略変更を迫られるが、フランスやベルギー、オランダなどを陥落させていき、ヨーロッパの覇権を我がものとしていく。  さらに一九四一年の六月。短期決戦を想定していたドイツであったが、戦術路線を変更し長期戦を見越して、より多くの物資の確保を目指すために、独ソ不可侵条約を一方的に破棄し、ソ連西部に侵攻。ドイツは連合国に加え、ソ連とも対峙する。一見すると無謀な行為に思えるのだが、当時のドイツの権勢からすればもはや、戦い即ち勝利の常道、を呈していたので問題にはしていなかった。  一方でナチスはユダヤ人のゲットーへの移送を開始。それは強制収容所。また、絶滅収容所とも呼ばれる、アウシュビッツ=ビルケナウへの道程である。 フランクフルト学派の哲学者でもあり、自身もユダヤ人の混血であるテオドール・アドルノはこう言った。  アウシュビッツ以後、詩を書く事は野蛮である。 その意味するべきは人類の文化や文明、理性の閾値(いきち)を越えてしまった所以からなのか。ホロコーストという所業をナチスという枠組みだけの行為として捉えるのではなく、人間としての倫理や道徳の限界を感じて諳んじた言説だったのか。  とまれ、ユダヤ人の迫害は静かにだが、確実に進行し始めた。  そして、枢軸国の一角である日本。  ABCD包囲網(アメリカ・イギリス・中国・オランダによる、日本に対する貿易制限)で経済封鎖を受け、アメリカからはハル・ノートによって不利な交渉文書を突きつけられていた日本は、その硬直状態を打開するため、ソ連との間で日ソ中立条約を結ぶと、博打的な部分はあるものの、戦略の素地の仕上がりを確信し、日独伊三国同盟のもと、大戦に参加。  一九四一年十二月八日。  日本はアメリカのオアフ島の真珠湾を(外交上の手違いで、宣戦布告が遅れた結果)奇襲。俗に言うアジア・太平洋戦争の勃発である(厳密に言うと、真珠湾攻撃のおよそ一時間半前に、イギリス領のマレー半島で日本海軍は英印軍とすでに交戦開始)。  世界は再び戦渦におののく。  事の起こりの趨勢はドイツを筆頭とする枢軸国にあった。戦力では上回るはずの連合国側は、資源を持たざる国々ゆえに意匠を凝らさねばならなかった、小国集団である枢軸国の科学兵器にひるんでしまった。  だが、資源が少ないとは地力がないという事でもある。  枢軸国側は短期決戦に持ち込みたい思惑があった。それ即ち、連合国側も容易にその戦略は理解できたはず。ならば当初の枢軸国の快進撃は想定内、という事にもなる。今の内に調子乗るだけ乗っていれば良い、とまるでほくそ笑むかのように。連合国側の現時点での萎縮がポーズであるかのように。つまり、開戦当初、もしくは少なくとも日本が第二次世界大戦に参加し、太平洋戦争を起こした時には既に連合国の掌に躍らせていたのではないか。  日本はABCD包囲網(アメリカ、イギリス、中国、オランダによる対日石油輸出禁止政策)やハル・ノート(日本へ対する中国大陸、仏印からの全面撤退、三国同盟の解消などが記された、日米の交渉条件文書。日本はこのような条件は飲み込めないとして最後通牒として受け取る)などによる国際的圧力に見舞われ、最後の最後まで避けたかった日米開戦に踏み切る。だが、もはや開戦時から日本軍の暗号電文は解析され、真珠湾攻撃も宣戦布告なしの奇襲とされたが、ルーズベルト大統領はその情報を知っていたが、国民の戦意高揚をしたかったので、あえて情報をもみ消したという説もあるほど、米国政府は大戦参加を待望し準備万端であった。さらに日本は開戦の端緒では、ABCD包囲網の打撃から、石油の確保が先決になるであろうとアメリカは見越していたので、マレー半島やオランダ領インドシナ(現在のインドネシア)などの南方を狙ってくる事を確実視していた。つまり、太平洋戦争の始まりからアメリカは日本の動きを完全に読み切っていたのである。  このようにアメリカは既に第二次世界大戦および太平洋戦争における下地は出来ていて、事実、再三イギリスのチャーチル首相はアメリカの参戦を持ちかけていた。  一方、アメリカのルーズベルト大統領もその要請に応えたかったのだが、選挙公約としてルーズベルトはモンロー主義に従い、欧州の情勢には不干渉でいる、つまり、当時で言えば大戦に率先して参加しない、という事を宣言し、また、世論的にも厭戦気分が広がっており、参戦条件としては甚だ不利な状況にあった。しかし、アメリカは日本を挑発するかの如く外交上、度重なる厳しい態度に出る。それはまるで相手からケンカをふっかけさせるような案件を突きつけて。そして、切羽詰った日本はものの見事にアメリカの手中に踊らされ、真珠湾を奇襲し必戦を決断。アメリカ国民は一気に「リメンバー・パールハーバー」を合言葉に盛り上がり、戦争への参加を肯定する。極東の島国に大国の正義の鉄槌を下し、早期決戦にて勝利を掴むはずだった。ただ計算外だったのはアメリカが日本人を、原始的なただのイエローモンキーとして侮っていたこと。日本がアジアの中ではトップクラスの軍事力があるのは認めていたが、アングロ・サクソンから由来するアメリカ国が、血筋も顕でない蛮国の日本に貶められるはずがない、と。  だが、実際の戦闘になると想像以上に日本軍は強力だった。日清戦争や日露戦争、第一次世界大戦、ひいては日中戦争を経ている日本は、強大な軍事国家となっていた。だからこそ欧米が想定していなかった、太平洋戦争の初期の日本軍の圧勝が続いたのである。それは同じ枢軸国側のドイツも同じで開戦当初は連覇の道を闊歩している。  長期戦における国力の差という目論見を無視して、ただただ短期決戦に勝機を見出しているという計算しか鑑みていない結果とも知らずに。  そして、もう一つ枢軸国側には誤算があった。  枢軸国、厳密に言うと日本を除くドイツとイタリアは、ユダヤ人の迫害を敢行している。これは結果、有能なユダヤ人科学者が身辺の危機から逃れるため自国を脱出し、他国にその頭脳が流入してしまった事となった。特にナチス・ドイツのユダヤ人の大量虐殺(ホロコースト)の脅威は、科学者に限らず多くのユダヤ人の国外逃亡を促す。  一方、ムッソリーニのファシズム吹き荒れるイタリアでも、一九三八年の九月にユダヤ人排斥法が施行されていた。 そして、その流れを受けて、一人のイタリア人科学者が、当時のイタリア王国を翻し、アメリカへと向かう決意をする。  彼の名はエンリコ・フェルミ。  先の人工放射性元素の実験にも多大な貢献をし、フェルミ統計やベータ崩壊の理論で輝かしい業績を残したノーベル物理学賞物理学者。 そして、後に原子核分裂の安定的な連鎖反応を成功させ、世界初の原子炉である「シカゴ・パイル一号」を完成させた立役者でもある。  いわば史上初、核の力を制した科学者こそがエンリコ・フェルミその人であった。  そして、原子炉開発を経た事によって、原子爆弾製造のキーマンになる人物でもある。  他方、核分裂の発見は斯界(しかい)を騒然とさせた。  自らが所属するデンマークはコペンハーゲンの理論物理学研究所に戻ったオットー・フリッシュは、上司でありノーベル物理学賞受賞者でもあるニールス・ボーアに一連の報告をする。ただすぐにはその話をボーアは理解する事はできなかった。というより信じられなかった。中性子一つを照射したぐらいで核が分裂するというその事実が。  だが、 「実に興味ある話だ。お陰で面白い土産話を携えて海を渡れるよ」  とボーアは自らの細面の顎をさすりながら、自分とは一回り以上若い而立(じりつ)も半ばを過ぎたフリッシュに告げた。二つの瞳を子供のように輝かせながら、破顔して。  ボーアはハーンらが核分裂を発見した翌月(一九三九年の一月)からアメリカはプリンストン高等研究所で、アメリカ人物理学者のジョーン・ホイーラーと共同研究を行う予定であった。核分裂の話が真実味を増せば、自分たちの研究にも後々深く関わってくるだろうとボーアは考えた。  また、その頃、プリンストン高等研究所には光量子仮説や相対性理論で著名なアルバート・アインシュタインも在籍していた。この年の十月にアインシュタインは、原子力の軍事応用の必要性を当時のアメリカ大統領のルーズベルトに説き、結果、米国による原子爆弾製造の着手の一翼を担うことなる【付注:ただしこの時点でのアインシュタインの進言は核分裂の脅威性を示しただけで、その核分裂反応が原子爆弾として転用されるとは具体的に記されていない。元来は核分裂のエネルギーは動力や電力に活用するという、言わば民生利用的な扱いを考えており、軍事的なそれとは無縁であった。だが、核分裂が発見された時代が悪かった。ドイツを初めとする欧州の国々が緊張状態。ちょっとした火種で戦争が勃発するという趨勢。結果、第二次世界大戦の直前にその核分裂連鎖における強大かつ破壊的なエネルギーが顕わになった事により、奇しくも早急に軍事兵器への利用を容易く思いついてしまった。核分裂の発見のタイミングや時期が、後々の不幸な偶然を招いた……のならば皮肉以上の恐懼ではある】。  後に『マンハッタン計画』と呼ばれる事となる原子爆弾開発プロジェクトの発端に。  兎にも角にも、かくしてニールス・ボーアは核分裂の詳細な報告を片手に、アメリカへ渡る事となる。  同時期、イタリア人物理学者のエンリコ・フェルミもアメリカへ向かっていた。  一九三八年にノーベル物理学賞を受賞したフェルミは、授賞式のため夫人とともに、スウェーデンのストックホルムへ渡航。イタリアを出国。だが、その後はイタリアに帰る事なく、アメリカへと針路を進める。妻のラウラがユダヤ人であったので、ファシスト党の迫害から逃れるため、そのままアメリカへと亡命したのである。結果、一九三九年の一月にはフェルミ一家はニューヨークに集う。そして、間もなくフェルミは核分裂のニュースを知る事となった。ボーアの手土産はフェルミにとって文字通り、アメリカに着いてからの早速のギフトになった。  訥言敏行(とつげんびんこう)。  同年の一月も下旬の頃。フェルミは助手のアンダーソンに核分裂の追試実験を任せた。すると結果はハーンらのそれと同じになった。ここで核分裂の確信を得たフェルミは核分裂の連鎖反応の構想を浮かべる。一回の核分裂で弾き出されるエネルギーは約二億電子ボルト。ウランには一キログラムあたりに十の二十四乗個の原子核が存在する。それらが連鎖反応によって分裂していけば、どれほどのエネルギーが放出するであろうか。熱エネルギーに換算すれば、一千万度を超える。  その「炎」は太陽の中心温度に近い【付注:正しく言うと、太陽活動のエネルギー反応は『核融合』であり、『核分裂』ではない】。 ただ、驚異的であるウラン原子核の核分裂ではあるが、無論、それを起こすには様々な要件がある。  一度の核分裂で二個以上の二次中性子が生成される。次に全ての二次中性子がウラン原子核に吸収される。吸収されたその核が必ず分裂を起こす。原子核全てが分裂し終えるまで未熟爆発を発生させない。かつ、全ての原子核の分裂を百万秒の一程度ですませること。そのような条件が全て揃った上で、莫大なエネルギーを生み出す核分裂連鎖反応は成る。 「この核分裂をうまくコントロールして、エネルギー問題に貢献できないものだろうか」  フェルミは夢想した。人類が史上かつてないエナジーを手にしつつあるこの状況に、眩しい科学の未来を見た。ニュートン力学を経て、二十世紀に入る頃には、数学の黄金期が十八世紀であったように、すでに物理学も終わった、という風潮すらあった。しかし、物理の世界は再び新たな「明日」を呈示した、と。  むしろ科学はその道程でマイルストーンに差しかかっていたともいえる。アインシュタインによる相対性理論の発表から、巨視的(マクロ)な科学観が生まれ、また、量子力学の確立によって、微視的(ミクロ)な見地からの研究もなされるようになった。ともにニ十世紀に揺籃(ようらん)した理論。マクロな理論とミクロな理論。 「その両輪がバランスよく機能しつつある、今。それこそ二つの理論が接近していけば、二十世紀こそが科学の飛躍の世紀として、後世に語り継がれるかも知れない」  とフェルミは期待し、また、熱望した。  科学の進歩は止まらない。フェルミならず世界の科学者は核分裂の可能性に興奮していた。  だが、その可能性こそは一つ間違えれば、人類にとって決定的な隘路(あいろ)にもなりうるはず。一方でそのように世のサイエンティストは冷静に把握していた。  この核分裂反応は容易に軍事兵器に転用できる、と。  当時、カリフォルニアで大学の教鞭をとっていたユダヤ系アメリカ人物理学者のロバート・オッペンハイマーも、核分裂の報せを聞いた時、そう考えた一人だった。  さらに核分裂の連鎖反応も構想し、それは莫大な爆発兵器となる、とも。 「核爆弾(ニュークリア・ボム)、と言うよりは原子爆弾(アトミック・ボム)と名乗った方がインパクトはあるか」  オッペンハイマーは不敵な笑みを漏らす。この爆弾がどれほどの威力をもたらすか。今までの近代兵器とは桁違いの破壊力を持った、史上最大の大量殺戮兵器になるに違いない、と想像し武者震いもする。 「だが、原子爆弾という命名では、多少ニュアンスが異なってしまうか」  青白い気色をした一人の物理学者は顎を摩る。  原子爆弾。  そう呼称するのが厳密に言えば誤りとオッペンハイマーはどうして思ったか。それは原子自体が起爆するのではばく、原子に内在する核が爆発するからだ。原子の構造を簡単に説明すると、核子と呼ばれる陽子と中性子からなるプラスの荷電を持った原子核(厳密に言うと陽子がプラスの電荷を持ち、中性子は電荷的には中性)と、その原子核を回るマイナスの荷電を持った電子によって形成されている。その構造をもって原子と呼ばれるので、本来ならば原子爆弾というよりも核爆弾と言う方が正しいとも考えられる。オッペンハイマーはそこまでを見抜いて原子爆弾という名称に僅かな違和感を抱いていた。 「とはいえ、やはりセンセーショナルかつキャッチーなネーミングの観点からすれば、原子爆弾の方が世に浸透しやすい名前だな。そう、俗世間にとっては、クックック。核エネルギーの平和利用など、この時勢にそぐものか。軍事潜水艦の原子力潜水艦化による動力利用や、まさしく核分裂を利用した爆弾の開発にこそその科学技術は眩しいものになるのだ。少なくとも、今、この時代においてはな」  オッペンハイマーの長い薄ら笑いは、やがて小さな喜悦として声に現れるようになってしまった。  一方で、 「だが、問題はある」  と狡猾な科学者は冷静に分析する。  原子爆弾の要となるのはウランである。極端に言ってしまえば原子爆弾とは、臨界量のウランの塊を作ればいいだけの話。後は勝手に爆発してくれる。だが、地上で採れる天然ウランの鉱石から、核分裂にとって、つまり、原子爆弾にとって必要なのは「ウラン235」という元素。しかるにウラン鉱石の九十九.三パーセントは「ウラン238」というアイソトープ【付注:同位元素。陽子の数は同一だが中性子の数が異なる元素。つまり、元素番号は同じだが、質量数は異なる。同位体とも言う。化学的性質は同じだが、物性に違いがある】で構成されている。このウラン238原子核の核分裂では、百万電子ボルト以上の中性子の入射運動エネルギーを必要とし、それ以下では核反応を示さない事が分かっている。必要なのは大分を占めるウラン238ではなくて、ウラン鉱石の僅か〇.七パーセントにしか当たらないウラン235。ウラン235ならば中性子の運動エネルギーの大小関わらず、分裂確率がゼロにはならない。つまり、限りなく核分裂が成るということ。要はこのウラン235をどのように天然ウランから抽出し凝縮していくか。 「必要なのは施設だな。相当な機材を用意しなければ、天然ウランの分離は無理だ。それこそ国家予算規模を費やすほどの研究所の建設をしないと。設備投資が莫大すぎて民間レベルでは不可能」  狐の様相を帯びた、こけた頬に伝わる笑い皺に、曇りを見せるオッペンハイマー。だが、その瞳は自信に満ちている。 「ふ、科学者としては食指をそそる話なんだがな」  ジュリアス・ロバート・オッペンハイマー。  後にマンハッタン計画において、原子爆弾開発のために作られたロスアラモス国立研究所の所長を務める男。  彼はさらに構想を深める。 「問題はウラン235の塊をどう作るかだけ。一度解き放ったエネルギーを制御する必要はない。その破壊力を抑える理由もない。開けてはならぬパンドラの箱なら、全てを全て吐き出してしまえばいいのだ」  エンリコ・フェルミは核エネルギーを抑制する事によって、いわゆる平和利用を念頭に置いていた。片やオッペンハイマーは核エネルギーそのものを制御せず、もはや自由自在に暴れまわれと鼓舞する。つまり、気ままに、身勝手に、爆発し、散乱せよ、と。  両者の核エネルギーにおける、根底の部分は共鳴しているとは言い難い。だが、そんな穏健思想のエンリコ・フェルミですらも、戦いの渦とともにマンハッタン計画の中心に流れていく。  優れた頭脳というのはいつの時代も、その矢面に翻弄される運命なのだろうか。  そんな行く末を露とも知らないフェルミは当時、ユダヤ人物理学者のレオ・シラードとともに、核分裂後に放出される二次中性子の個数の確認実験を行っていた。このシラードも核分裂に魅せられた科学者の一人。  不惑辺り、同年代の科学者のフェルミとシラードではあるが、シラードは先に記したアインシュタインがルーズベルト大統領に送った原子爆弾開発進言の信書に連名した人物でもある【付注:アインシュタイン=シラードの手紙ともいう】。つまり、アインシュタイン同様、後の米国における原子爆弾開発に寄与した人間になる。  ドイツが核開発に着手し始めているかも知れない。その危機感から発せられた提言ではある。また、アインシュタインにしろ、シラードにしろ、ともにユダヤ系の人間。同胞がナチスの迫害によって苦しめられているのは放っておける事柄ではない。恐らく、そのような使命感からの原子爆弾開発の提言には違わない。ナチスを断ずるためのルーン(神の槍)として、原子爆弾は必要だ と。  だが、運命は皮肉である。  その神の一撃にも匹敵する破壊は、結果、ドイツを矛先とせず、ヨーロッパからは遠く離れた、極東の島国に下されるのだから。 時はその後もブレる事なく突き進む。  一九三九年、四月。  パリでフェルミらと同じような実験を行っていた、ジャン・フレデリック・ジョリオ=キュリー(キュリー夫人の娘婿)が二次中性子による平均核分裂個数を確認。核分裂の連鎖反応の実用化が現実味を帯び始める。  同じ頃、アインシュタインらが属するプリンストン研究所に、ハンガリーからユージン・ウィグナーというユダヤ人理論物理学者が、核分裂連鎖反応の個人レベルでの実験は困難である、とコロンビア大学物理学科長のジョージ・ペグラムに主張。ペグラムはその意見を汲み入れアメリカ政府に打診。その要件を重くとらえた政府は、フェルミをアメリカ海軍研究所に呼び寄せ、核分裂反応の理解や原子爆弾の製造可能性について、方々の研究者へ説いてもらった。  さらに一九三九年の十月には、アインシュタインとシラードによる、原子爆弾の必要性の書簡が、第三十二代アメリカ大統領のフランクリン・ルーズベルトに渡る。人種改良論者(異人種間の交配を奨励する立場)というややエキセントリックな一面を持つ大統領ではあるが、一方、柔軟で明晰な頭脳の持ち主でもあった彼は、すぐにその重要性を認識し、同月に「ウランに関する諮問機関」を設置し、原子爆弾製造の検討に入る。その行動力はまさに快刀乱麻。  そして、一九四一年の七月。イギリスのモード委員会(一九四〇年、イギリス政府がアメリカよりも先駆けて設立した、原子力エネルギーの戦時利用可能性を検討した委員会)は、フリッシュ=パイエルスの覚書(オットー・フリッシュとイギリスの物理学者であるルドルフ・パイエルスによる、核分裂エネルギーに関する論文)を受けて、「ウラン濃縮」による原子爆弾製造の可能性を示唆。そして、この調査報告書はアメリカへと渡り、原爆開発のガイドラインが着々と完成していく。  一方で戦局も苛烈さを増してくる。  イタリアは思うような戦果を残せていないものの、ドイツは猛進し続ける。ソ連侵攻では北部地域の厳しい寒冷に阻まれ作戦は難航してしまったが、一九四一年までにドイツが延ばした版図は広い。ヨーロッパの内陸であるフランス、ギリシア、デンマークなどは言うに及ばず、北欧のノルウェーも制圧。苦戦を強いられている対ソ連領土でもキエフ地方を占領。  だが、領土がどんどん拡大していくにつれて、支配される人種、人間も増え続ける。アーリア人(インド・ヨーロッパ語族を主とする人種)優良主義を唱えるナチスとしては、自国の選民思想にそぐわない純血かつ健全でない人間は抹殺のターゲットとなる。ユダヤ人はもとよりポーランド人、同じゲルマン民族でも精神疾患を伴う者、障害をもった児童、また、障害の恐れのある嬰児の強制的な断種(堕胎)。果ては同性愛者から浮浪者まで、崇高なるアーリア人のみの帝国を築くために、それに適さない人民は次々に排除されていった。狂乱のホロコーストは、ドイツが進軍していくたびに、熾烈さを極め、広がっていく。  しかし、このホロコーストという行為ではナチスのユダヤ人の大量虐殺が俎上に挙げられやすいが、その実、枢軸国であるイタリアや日本もドイツとは規模が違うとはいえ、それぞれ敢行している。  イタリアは第二次世界大戦寸前のエチオピア戦争の際に毒ガス爆弾などを使用。また、イタリア人犠牲者一人に対して十人のエチオピア人を処刑する、という命令を下して、さらに強制収容所でも大量の餓死者を出し、エチオピア人七十万人を虐殺したと言われている。  また、日本も毒ガス兵器を用いて、台湾での霧社事件(一九三〇年に起こった台湾原住民による反日暴動)を征討した事実もあり、日中戦争では南京事件(一九三七年に起こった日本軍が行なった中華民国の南京市での大量虐殺)でも同様に化学兵器【付注:そもそもは原則的に一九二五年のジュネーブ議定書の締結によって、化学兵器の戦争使用は禁じられている。だが、生産や開発や保有は認めてられていて、毒ガスや毒性細菌物質などの化学および生物兵器の使用禁止の徹底化はなされていなかった】である毒ガスを使用。二十万人から三十万人にのぼる捕虜や民間人などを含めた中国人にホロコーストを実行したというデータもある。  そして、その大日本帝国。マレー沖海戦における不沈艦と呼ばれたプリンス・オブ・ウェールズの撃破、グァム島と香港全島の占領。一九四二年の上半期における、マニラ、シンガポールの制圧。さらにジャワ島への上陸、バターン半島の領有など快進撃を展開。いまだ連合国側は劣勢に見舞われていた。 だが、そんな悪戦を強いられる状況下、アメリカ合衆国では原子爆弾開発・製造のための一大国家事業『マンハッタン計画』が、極秘裏に幕を下ろそうとしていた【付注:遡ること一九三九年十月二十一日。その日にウラニウム会議が開かれ、全米物理学研究協議会が時の大統領のルーズベルトに対して、原爆製造のための五十トンのウラニウム鉱の輸入を進言。やがて原爆開発の研究は容認され、一九四一年十二月六日には予算決議が通る。つまり、日本がアメリカの真珠湾攻撃をした一九四一年十二月八日以前に、アメリカは既に原子爆弾の製造と使用を画策していたのである】。  時は一九四二年の八月十三日。  それは太陽ばかりがやけに眩しい、とある夏の日のことであった。
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