[悪夢という名の奇蹟]

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[悪夢という名の奇蹟]

 「安価な黒鉛を減速材に使ってプルトニウムを生成させた、か。素晴らしい成果だったよ、フェルミ博士。ハッハッハ」  アメリカ陸軍の准将(後に空軍中将)にして、陸軍マンハッタン工兵管区司令官を務めているレズリー・リチャード・グローブスは、その恰幅の良い体格に相応しく豪快に笑った。マンハッタン計画の総指揮を任されている男でもある。  隣席するエンリコ・フェルミは間を置いて、 「ありがとう……ございます」  と曇りがちな喜色を見せて答えた。  一九四二年の十二月は某日。  両者はシカゴ大学冶金(やきん)学研究所にいた。  シカゴ大学冶金学研究所。  そこはシカゴ大学のフットボール場に極秘裏に開発された、プルトニウム239生成のための原子炉、シカゴ・パイル一号が設置された施設。  エンリコ・フェルミはその原子炉創設のために召集された一人。いや、中心人物。世界で初めて核分裂の連鎖反応を制御した物理学者。そして、原子爆弾の燃料となる、プルトニウム239を生産するために作られた、シカゴ・パイル一号という原子炉を完成させた当事者になる。  原子炉とは、核分裂連鎖反応を制御しながら持続させ、核燃料物質を燃料として使用する装置である。つまり、核エネルギーを安定させるためのデバイス。燃料として使用される核分裂性物質には、ウラン235とプルトニウム239などがある。そのプルトニウム239を作り出すために設計されたのが、シカゴ・パイル一号と呼ばれるプルトニウム生産実験炉。  プルトニウムとは、マンハッタン計画にも参加している、アメリカの物理学者、グレン・シーボーグが、一九四一年に発見した超ウラン元素。その名の由来はプルートー(冥王星)。プルートーの語源はローマ神話の死後の世界の王。ギリシア神話では冥界の王、ハデスとして意味する。暗示的な命名であると邪推するのは、穿った見方であろうか。  プルトニウム239とは超ウラン元素の一つで、天然には極微量しか存在しない。プルトニウム239はウラン238の中性子照射によって生ずるウラン239が、二段階のベータ崩壊(「弱い核力」の相互作用によって引き起こされる放射性壊変現象)を経てさらに生じる人工元素である。つまり、それはウラン235と同様、核分裂物質(核燃料)として利用できる元素である事を意味する。  だが、ウラン235が天然ウランの僅か〇.七パーセントほどしか採れないように、人工元素であるプルトニウム239も他の放射性元素と混合された状態で生成され、決して純度の高いものとはいえず、また、両元素とも量的に少ない。  そこで考え出されたのが、ウラン濃縮という同位体分離技術。要はウランに含まれるウラン238とウラン235を分離させて、核燃料となるウラン235だけを集めて、文字通り濃縮。分離されたもう片方のウラン238は、プルトニウム239生成の原料とする、という方法論。その分離法は大別すると、電磁法、超遠心分離法、気体拡散法、熱拡散法などがあり、一九四一年頃からウラン濃縮装置の開発を、アメリカ政府は進めてきた。原子爆弾に必要不可欠な、核燃料を得るために。  その核燃料のもう一方であるプルトニウムを生産し、かつ核分裂連鎖反応を成功させるために開発されたのが、シカゴ・パイル一号という原子炉。原子炉とは制御棒などを使って、安定的な核分裂連鎖反応を目指した、言わばエネルギーを産み出す装置。だが、今回の開発プロジェクトに関しては、そのような理屈は副次的なものに過ぎない。全てはマンハッタン計画の成功のために、つまり、原子爆弾を完成させるために進行しているのだから。  マンハッタン計画の進捗としては、すでにカリフォルニアのバークレーで、オッペンハイマーが原子爆弾の設計のために、著名な理論物理学者たちを召集。そして、オッペンハイマーは一九四二年の十一月に決定した、ニューメキシコ州のロスアラモスに設立される原子爆弾研究所の所長に、レズリー・グローブス司令官から三十九歳の若さで任命される。  原子爆弾開発は弛む事無く突き進む。  原子爆弾の開発および製造・設計。核分裂連鎖反応を確実に起こすためには、原子炉のメカニズムを必要とする。だが、核のパワーを制御する必要はない。解き放つのみ。全てを強烈なエネルギーによって滅し尽くせばよい。  だが、フェルミが目標としたのは、そのような核エネルギーの利用だったのか。原子力の平和利用ではなかったか。彼の胸中ははたして分からない。しかし、フェルミは知ってはいた。自らが成す実験こそは、原子爆弾製造へのエポック・メーキングとなることを。  そして、一九四二年の十二月は二日。午後五時五十三分。  シカゴの研究所でフェルミは、核分裂の連鎖反応実験を見事に成功させる。 だが、その偉業はすなわち、原子炉から原子爆弾への継承(レガシー)。核のエネルギーがフェルミの手から、マンハッタン計画を指揮する、ロバート・オッペンハイマーへと渡る事を意味する。 「ふふ、科学というものは末恐ろしいものだな」  フェルミの心底を察したかは定かではないが、グローブスはしたり顔で口を開いた。  「…………」  だが、その言葉に対してフェルミは、ただ静かに腕を組み、手を重ね合わせているだけで、リアクションをとる事はなかった。  兎にも角にも核分裂の連鎖反応を奏功させ完成した原子炉。それは原子爆弾投下への序曲。さらには後々の世界各国の原爆開発競争の先鞭も担っていた。 戦後、アメリカ以外に核兵器保有国はソ連、イギリス、フランス、中国の所謂、安全保障理事会の常任理事国が加わり、核拡散防止条約を筆頭に中距離核戦力全廃条約や折々の戦略兵器削減条約などを結び、原子力の平和利用とともに体裁としては核軍縮の計画を進めてきた。だが、その内実はかなりの矛盾があり、核拡散防止条約を批准した米・英・仏・ソ連・中国の五大国以外の他国の核保有を認めず、つまり、核兵器の生産を許可しない、という案件を盛り込みつつも、既に核保有している五大国は核兵器のその後の増産自体は認められる、という本末転倒的な部分がある。そのような条件下の条約に反対する国々は少なくなく、インドやパキスタンや北朝鮮は核拡散防止条約には批准せず、現状では核保有国となっている。またその他の、特に中東方面の国々も核保有国の疑惑の候補に挙がっている。   核兵器による戦争の抑止、という言葉もある。もはや古びられた偽善と欺瞞のクリシェとして現在では聞こえるかも知れないが、一笑に付すのみでは留意すべき部分がある。日本に落とされた二つの原子爆弾によって、核兵器のあまりの破壊力、甚大な放射線の被害は全世界に知れ渡った。もはや核兵器は戦争で使えるモノではない、と。つまり、通常兵器の使用であれば、どれだけ兵器の性能が向上しても、戦争としてはいつまでも成立出来るものだと各国の政府や軍は考えていた。だが、核兵器の出現によってそのあまりにも規格外の威力を目の前にして、戦争の成立はおろか核兵器の使用によって人類滅亡の危機を人類は覚えたのである。核兵器による報復戦争など起きたら、大袈裟な話でなく地球自体が崩壊する、と。そのような現実を知り、第二次世界大戦以降は全世界規模の総力戦は見受けられない。  しかし、そのような核兵器の恐ろしさを知りながらも、核による戦争の抑止力を大儀にいまだ核兵器を生産し続けるのはどうなのであろうか。冷戦が始まって以降、地球を幾度となく葬れる程の数の核兵器を保有して、各々の列強は何の国威を目指しているのだろうか。確かに米ソにおける静かなる戦い、それは冷戦(コールド・ウォー)と呼ばれるだけあって前面的な直接対決はなかった。だが、ベトナム戦争や幾度かの中東戦争などの米ソの代理戦争は勃発していた。  核兵器保有数の競争と並行して……。  エンリコ・フェルミはその後、一九五四年に胃ガンのために、五十三歳という若さで病死。そのような冷戦下における、核開発競争の行方を知る事はなかった。  マンハッタン計画が進行する一方、戦況も刻々と変化し始める。  一九四一年の三月にアメリカは、一九三五年に制定した他国に軍需物資の輸出を禁止した中立法を改正し、無利子で武器を他国に貸与可能とする「武器貸与法」を新たに制定。この政策によって友軍のイギリスはもとより、社会主義とはいえ連合軍には中立的な立場であるソ連にも軍需物資が送り込まれた。米国は世界大戦にはルーズベルト大統領の政策公約上、大統領の本意とは別に参戦の構えは出来なかった。だが、ルーズベルト大統領は日本における猪突猛進の中国侵略を目の当たりにして、非戦の意を翻し日本との戦争を望んでいた。だが、厭戦気分のアメリカ国民を納得させる参戦理由がまだ見つからなく、それは日本軍による真珠湾奇襲まで待たなければなかった。しかし、法のレトリックをうまく使ったというか、単純に曖昧な外交手段をもって国民の目を逸らせた武器貸与法は、連合国を軍事的にサポート。間接的な戦争参加と呼んでもおかしくないこの行動は、つまり、アメリカ政府がとうとう本気になり始めたという事を意味する。  この援護によってソ連の戦力は増強し【付注:ソ連側は、アメリカによる武器貸与の援助で軍事力がアップしたという訳ではなく、戦力強化につながったのは自国の生産力と科学力の賜物であって米国協力体制のものではない、と否定的な解釈で国際世論には対応している】、一九四一年の九月からドイツと繰り広げている、レニングラードの包囲戦でも徐々に優位を見せ始める。そして、一九四三年の二月。やはり同じくドイツ第六軍と対峙したスターリングラードの戦いでソ連は勝利。ドイツはこの戦いの敗北において、レニングラードの苦戦も含め、ターニング・ポイントを迫られる事となる。  一方で日本も、一九四二年の上半期までの、いわゆる「第一段作戦」の勢いは陰り、一九四二年の六月に繰り広げられた、アメリカとのミッドウェー海戦において、大敗を喫する。これを機に日本軍は劣勢にまわる。連合国と日本、攻守交代である。ミッドウェー海戦は日本側が勝利した、と一部の新聞やラジオからは大本営からの圧力で掲載されたが、もはやそのような捏造情報による戦意高揚も効果が見られなくなる。  同年の八月。日本軍がニューブリテン島ラバウルの援護と、アメリカ・オーストラリア連絡線の遮断を目的としていた、ガダルカナル島に連合軍が進攻。ガダルカナルでは連合軍との戦いだけではなく、補給物資の乏しさから、飢餓との戦いも強いられた。別名、餓島(がとう)。結局、酸鼻(さんび)を極めたガダルカナル島の戦いは、一九四三年の二月に日本軍は撤退し終了。その後も連合艦隊司令長官の山本五十六(やまもといそろく)がソロモン上空で散華。アッツ島では日本守備隊が全滅。日本は敗走を続けていく。 そして、枢軸同盟国のイタリア。そもそも戦力の準備不足から勇み足で大戦に参加したイタリアは、アフリカ戦線で激戦を繰り広げるも、一九四三年の五月に壊滅。さらに国内でも反ムッソリーニ運動が過熱し、同年の七月に統帥(ドゥーチェ)ムッソリーニは失脚。イル・ヴェンテンニオと呼ばれる二十一年間に渡るファシスト体制がここに幕を下ろす。その後イタリアは、連合国のシチリア島進攻と、反ファシズムの動きを勢いに、ドイツへ反旗を翻し逆に枢軸国に宣戦布告をする。  イタリアの敗戦。  枢軸国側としては大打撃ではある。だが、顧りみれば、ヨーロッパの主な戦線のほとんどは、ほぼドイツの戦果であった。イタリアは各地で連戦連敗し、ドイツに度々応援を求める体たらく。ドイツとしてはイタリアの身勝手な動きはかえって足かせになっていたので、イタリアの撤退自体はそれほど重要視していなかったかも知れない。  だが、時はすでに遅かった。  ドイツおよび日本にしろ、一つ一つの戦闘の勝利こそがライフ・ライン。つまり、勝ったり負けたり、では駄目で、常に自転車操業のごとく勝ち続ける事が至上命題であった。その破竹の勝利をもって短期決戦へと導くのが戦略であった。しかし、枢軸国の思惑空しく戦争は長期化。遂に敗戦も顕になり始め、地力の違いが出てくる。圧倒的な物量の差が見え始める。  その逆境の打破こそが原子爆弾の開発であった。 原子爆弾の開発は何もアメリカだけの専売特許ではない。一九三八年に発見した核分裂の事実は、各国の科学者も既知の事である。それこそ核分裂の発見の現場はドイツである。ドイツこそが原子爆弾開発の最先端を走っていてもおかしくはない。  だが、その内情はだいぶ異なっていた。  ヒトラーの新兵器や高性能兵器への関心は高かった。世界初の弾道ロケット・ミサイルであるV2号(旧称・A4ミサイル)の開発や、連合軍を苦戦に強いた重駆逐戦車のティガーとパンターなどの実戦配備。兵器に対する慧眼(けいがん)はヒトラーにあったとされる。だが、一方で戦闘機を重要視せず、爆撃機ばかりに肩を入れたり、自動小銃よりも突撃銃を推したり、などの一家言も持ち合わせていた。そのようなこだわりを持った一面からか、原子爆弾開発にはあまり興味を示さなかったようだ。  実際例として、ドイツも原子炉建設に乗り出し、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクを占領して、ウラン鉱脈を独占し輸出を禁止したにも関わらず、である。原爆開発に及び腰だった一応の理由としては、連合軍の執拗なドイツへの軍需工場への爆撃や、ユダヤ人迫害によって、多くの優秀なユダヤ人科学者が海外へ流出した事が起因している。  また、量子力学の分野で多大な貢献をした、ドイツ人物理学者のヴェルナー・ハイゼンベルクが一九四二年の時点で、原爆開発にはあと二年は必要である、と説いた事も、短期決戦を望んでいるナチスとしては相容れられなかった事実かも知れない。ただし核分裂発見後、もっと早急に原爆開発を始めて十分な研究費を捻出できていれば、逆に今頃の一九四二年までに完成できたかも知れない、とも進言している。どちらにせよ後の祭り。開発の機会は既に過ぎ去ってしまった。ハイゼンベルクの表情からはそのような失意が窺えた。奇妙にも落胆というよりは清々しい気色で。  それはあえてそのような助言をハイゼンベルクはして、ナチスに原子爆弾製造を諦めさせた、という見方も見られるからだ。核エネルギーは軍事目的ではなく、人類のエネルギー問題を解消するために使うべきであるから、原子炉設計に力を注ぐべきだ、というフェルミと似たような考えを持っていた、と言われる所以から【付注:一方で率先して原爆開発に関わる姿勢を見せていた、という説もある】。  どちらにしてもハイゼンベルクは母国であるドイツに誇りを持っていたのではないか。多くのドイツの科学者が他国へ去っていくなか、ハイゼンベルクは祖国に残り続けた。戦後も海外の大学や研究所から引く手あまたの誘いを受けるがドイツを離れることなく、自国のマックス・プランク物理学研究所の所長となり、故国で生涯を全うした。ナチ党員でないハイゼンベルクは、ナチスではなくドイツという国家に敬意をはらっていたのであろう。  一方、極東の島国である、大東亜共栄圏を目指す日本。  現行では名目上、作らず、持たず、持ち込まず【付注:だが、この内情のうち、持ち込まず、の原則は日本の領土に限り核兵器を持ち込ませないが、日本の領海においてなら核兵器を積んだ貨物船の寄港や通航を認めるとしているので、徹底されているとは言い難く、実際に持ち込まれている事実が確認されている】、の非核三原則を掲げている日本ではあるが、戦時のその頃は核開発にも乗り出していた。  一九四〇年頃から理化学研究所(日本における自然科学の総合研究所)で、コペンハーゲンのニールス・ボーアの研究所でも過ごした経験のある仁科(にしな)芳雄(よしお)博士らによって、陸軍主体の「二号研究」という原爆開発プロジェクトが立案され、一方、海軍でも「F研究」という同様の計画が進められていた。だが、天然ウラン資源の確保の問題や、また技術面でも濃縮分離法が困難で、なかなか成果が出なかった。また、一九四五年の五月のアメリカ軍による東京大空襲によって、理化学研究所と分離筒(ウランを分離する機械)を失い、陸軍における原爆開発計画の二号研究は終幕する。  それとは別に海軍のF研究では、一九四二年、海軍技術研究所に所属していた伊藤庸二(いとうようじ)海軍少将が、やはり仁科博士を招き博士を委員長において、核物理研究委員会を発足させた。当初の計画では、理論上は原爆の製造は可能。また、米国は今次の戦争中には、原爆の製造は出来ないであろう。ただ、日本に原爆のエネルギー資源となるウランを発掘するウラン鉱山がほとんどない事が原爆製造の問題点となっている。そのような報告がなされていた。やや希望的観測な分析ではあるが、当時はまだ十分原爆開発成功の余地が窺える。だが、一九四五年七月にF研究が出した原爆開発研究最終報告は、原理的には原爆製造は可能であるが、現状況の戦況や国情を鑑みると製造は困難である、という結論に達し原爆開発プロジェクトは打ち切られた。しかし、F研究の成果の実情は原爆の設計図の作成程度で止まっていて、ほとんど開発初段階しか研究は進められていなかったのが現実。  どちらにせよ陸軍と海軍の原爆開発計画で一番の軛(くびき)となったのは、日本に天然ウランが埋蔵されていなかったこと。原爆の元となるウランという元素資源がなければ、たとえ原子爆弾の機関や外殻が完成しても意味はない。開発の前からそれは承知していたはずなので、実を言うと何らかの射幸性と賭博性を含めて、既に軍部や科学者は原爆開発の研究を行っていたのかも知れない。  また、一九四〇年にモード委員会を設置し、いち早く原子力の兵器利用を打ち出したイギリスも、戦時の困難を理由に一九四二年には、原爆開発から手を引いている。以降はアメリカへ向けて、イギリスにおける原爆開発の研究結果などを送るような対米支援によって、マンハッタン計画に間接的に協力するようになる。  また、ここで重要な事案はもう一つある。原爆開発はアメリカ主導ではあるが、イギリスの支援からも窺えるように、決してアメリカ単独の動きによるものではないということ。そして、さらにカナダという国が実は深く関与しているということ。  一九四三年八月一九日に結ばれた「ケベック協定」というものがある。その協定はアメリカ並びにイギリスとカナダが協力体制を築いて原爆開発する、という内容だった。だが、イギリスは先の原爆製造のノウハウがあるので、その情報を提供できる立場にあるという事で理解できるが、何故そこにカナダが絡んで来るのが。それはカナダという国がウラン鉱石の大きな輸出国であり、原爆製造の上で欠かせない減速材の重水でもかなりのシェアを占めていて、さらに技術移転によってカナダは原爆の加工技術を持っている。そのような国をアメリカやイギリスが取り組まない訳がない。協定の文面上はアメリカとイギリスとの二か国間条約に捉えられるが、しっかりとカナダの政府高官であるクラレンス・ディケーター・ハウの名前が加わっている。つまり、米英がこの協定でカナダとタッグを組む事によって、カナダが他国へウラン等を輸出させず独占できるというメリットを得ると同時に、原爆開発にかかる資材も十分に補給出来るという胸算用にもなる。結果、実質的に原爆は米英加の三ヶ国の共同開発の代物といっても過言ではない。ただ最終的に原爆開発を託されたのはアメリカ合衆国。米国の原爆開発および原爆投下の筋は他国以上にブレる事はない。  片やソ連では一九四三年から原爆開発に注目し始める。ソ連も米英と同じく連合国側であるので、米英間での原爆開発の情報共有がソ連と通じてあって然るべきもの。そもそもアメリカがソ連に対日参戦を求めてきた経緯もある。その理由はアメリカ軍が日本本土に攻め込むようになった場合、中国に残留している日本軍を抑止しなければならないからである。日本本土に応援として中国残留日本軍がやってきたらアメリカ軍は甚大な被害と損失を受ける。そのためにもソ連はアメリカにとって中国での日本残留軍の攻撃の防波堤になってほしかった。  元来、連合国はドイツやイタリアや日本などの枢軸国とは比較にならないほどのポテンシャルの軍事生産能力がある。よってアメリカにとってソ連は連合軍に必要な戦力というより、アメリカ軍の被害を少なくする有用な駒としてしか見ていない。そして、ソ連は連合国側とはいえ、共産主義・社会主義を掲げる国家ゆえに、資本主義国家を標榜する米英からすれば、もはや大戦末期となった時勢ではソ連は戦後の脅威となるのは明白として牽制するようになる。米英は社会主義と資本主義の攻防という構図を終戦後のヴィジョンに見据えていた。既にそのような国際情勢になるのを想定しているのに、戦後支配の強力な軍事武力となる原爆製造方法の情報などはソ連に流せるものではない。  だが、ソ連もただ手をこまねいた訳ではなく、米英が原爆開発の情報交換を共謀している情報は掴んでいたので、ソ連は何とかその間から諜報機関を駆使して、手探り状態で情報を導き出していた。だが、知り得た情報はせいぜい、アメリカでマンハッタン計画と呼ばれる原爆開発のプロジェクトが行われているらしい、程度のもので、原爆の製造の方法論まで知りうる事は断片的にしか出来なかった。  さらにソヴィエト社会主義共和国連邦の連邦共産党書記長であるヨシフ・スターリンが、そもそも核兵器開発にあまり関心を持っていなかったというのも、ソ連において原爆開発に依ろうとする必要性や懸命度が足りなかったのかも知れない【付注:ただ全くもってソ連が核開発に無関心だったという訳ではなく、一九四三年にはクルチャトフ研究所という、原子力開発の研究機関が設立されていた。ただしその存在は一九五五年まで極秘にされてきた経緯がある】。  けだし、各国において原子爆弾への捉え方に温度差があるのは当然といえば当然である。核エネルギーはまだ人類にとって未知のエネルギー。一部の科学者も想像は出来たかも知れないが、その威力を目の当たりにした者はいない。ただぼんやりと、核分裂というものは、凄い反応作用を及ぼすのだな、と推し量り戸惑いながら研究を進めている程度。ただ、おおよその科学者はいずれ原子爆弾なるものも開発されるかも知れないが、それは今次の戦時中では無理で、戦後しばらくしてからだろう、と予想していた点では一致していた。いや、楽観していた。  実際に往来の技術力や研究進捗から見れば、そう推測するのが各国の研究機関の科学者が考えるのは妥当であった。  例えば日本の戦時における内閣総理大臣直轄の研究所である総力戦研究所。  戦前、日本が主に総力戦体制及び対米戦に向けてシミュレーションするために設立された研究施設。その研究員のメンバーは陸海軍からの登用はもちろん、民間から官庁まで優秀な頭脳を揃えた選りすぐり。そんな彼らに任された研究とは、これから起こりうるであろうアメリカとの戦争において、日本はどのような経緯をたどるか? の想定であった。日本が真珠湾を奇襲するのは一九四一年の十二月。総力戦研究所の開設は一九四〇年で、実際に日米戦の模擬演習が行われたのは一九四一年の四月からなので、まさしく太平洋戦争寸前のプロジェクトだった。  そして、模擬内閣を編成しての幾多の議論、また、総力戦机上演習の結果に導き出された答えは「日本必敗」であった。  その概要は、一九四一年の十二月中頃に米国に奇襲作戦を行い、それが成功しても、緒戦は連勝を狙えるが、連合軍の圧倒的な物量(戦力)には敵わなく長期戦になり、結局、ソ連参戦(日ソ中立条約を結んだ上でも破棄する事を想定して)も見込まれ日本に勝機はない、との判断だった。  しかし、日本として参戦前は元来、英米ら自由主義陣営は社会主義を標榜するソ連を敵視すると考えていた。先述通りそれはドイツも同様で、第二次大戦勃発の当初は連合軍の戦いの矛先はソ連へ向かうだろうと、見越していた部分があった。だが、実は連合国側は社会主義や共産主義を掲げるソ連よりも、軍事独裁国家化した日独伊の方に危機感を強く抱いていて、ドイツのその読みは呆気なくはずれ、時期尚早な感もありながら独ソ不可侵条約を破棄してソ連へ侵攻してしまった【付注:当時、まだイギリスと抗争中だったドイツが、さらに同時にソ連へ攻撃をしかけたのは、かなり無謀とも見られる行為なのだが、ドイツとしてはフランスを陥落させた時点で、イギリスも弱気になり芋づる式に降伏するだろうと睨んでいた。だが、そんなドイツの思惑は外れ、イギリスは果敢にも戦い勇んでくる。そこでドイツはイギリスに対して、まだ背後にソ連がいるから英軍は余裕を感じているのだろう、と判断して、その為にドイツはソ連を先に叩いて、そうすればイギリスは自ら降伏してくるだろうと考えた末の作戦だった、とも読み取れる部分がある】。  そして、それは日本にとっては寝耳に水的な情報、経緯であった。日本としては日独伊、そこにさらにソ連も加えた四国同盟的な組織作りをして、参戦を考えていたからだ。日本の参戦前の一九四一年六月二十二日に、ドイツが独ソ不可侵条約を反故してソ連へ侵攻。この時点で日本が夢想した戦争参加プランは大きく舵を変える事になったのだが、結局はアメリカの圧力や国際的孤立の自国の状況、また、ドイツの予想以上かつ向かう所敵なしの勢いの後押しもあり、日本は真珠湾へと一九四一年にサイコロを振る。それ即ち、最悪の日ソ中立条約の廃棄も想定して。  元々、中国は満蒙境界線での争奪戦にて睨み合い状態の日本とソ連。さらに一線を越えるような緊張下にさらされる国家間。しかし、盧溝橋事件を端緒として一九三七年に始まった日中戦争。つまり、日本の第二次世界大戦および太平洋戦争の望むも望むべくもない参戦は、中国との戦争中にさらに多くの敵を作る結果になった。言わば、戦争+戦争という戦争の和算。そのような演算式が成り立つのは日本政府、さらには大本営も無謀な戦として認識していた自明の理。もう一つ付け加えるならば、国際連盟の脱退の流れから、日独伊の三国の同盟締結も、世界を敵にまわすという事への誘い水になるとは、当時の内閣や軍部も承知していたはず。国際情勢的観点からすればドイツやイタリアと手を組むという事は、英米仏の列強国を筆頭に各国の自由主義陣営との対立を意味する、というのは稚児にも分かる話。この日独伊三国同盟を一九四〇年に結んだ時点で、もはやソ連参戦云々の交渉やアメリカとの請う事のない戦争の回避政策など、小細工程度の矮小化した案にすぎなくなってしまっていた。結句すべきは日本の根回し、というか行動は全てが裏目に出て、自由主義各国に対しての挑発行為にしか映らなかった。  日本の本意としては極端に簡略化かつ幼稚に言うと、中国を征服したいだけなので他国は口を出さないでくれ、という姿勢なのだが皮肉にも、というか当然にして一連の日本の国際的動向からそれは適わず、逆にアメリカを先頭に様々な国から総ツッコミをくらう運命に導かれていく。  そのように順次して考えていくと、大戦参加前の日本の自暴自棄感は否めないものの、それが暗に、日本必敗、という総力戦研究所の判断の原因に至ったのかも知れない。  とまれかくまれ、既に戦争開始前から、このように日本の敗戦の可能性の示唆は出されていた。  だが、大本営(特に陸軍の参謀本部)からすれば戦争はもはや避けられぬ必須条項。この研究結果はあくまで机上の話であって、実戦においては塞翁が馬、どのような事態になるかは時事転々とするので、この論法一つで必戦を覆す事は出来ないとして、時の東条(とうじょう)英機(ひでき)陸相は総力戦研究所の研究結果を一つの意見程度に纏めてしまう。  そして、結局、軍部は開戦への道標に従う。  しかし、事実として太平洋戦争はそのような経過を通って日本は負けた。戦前に総力戦研究所が出した答えはほぼ正しかったのだ。  だが、一つだけ敗戦の条項に出されていないサジェスチョンが存在した。  それは原子爆弾の使用の蓋然性である。  既に一九三八年にドイツでハーンとシュトラスマンが、核分裂の発見と実験の成功をしている事は各国の科学者にとっては周知の事実。さらにそれが軍事に転用できると即座に科学者たちが考えたのも早期の段階であった。実際に日本でも陸軍航空技術研究所の所長である安田(やすだ)武雄(たけお)は原子核分裂に早くも注目し、一九四〇年四月の時点で航空本部付きの鈴木(すずき)辰三郎(たつさぶろう)中佐にウランを使用した新兵器の爆弾の開発を命令している。それが一九四一年の春頃から始まった仁科博士たちによる軍の原爆開発に繋がっていった。  つまり、総力戦研究所の研究員たちも原子爆弾の情報は入っていたと考えてもいいはず。だが、それが兵器として使用されるのは想定外だったのであろう。それはやはり各国の科学者や研究員が指摘した通り、原子爆弾の開発はまだ数年ないし十数年は及ぶと考えてきたから。あまりにも未知数な原子爆弾というものを、いまだ不明瞭だった核分裂というものを、さすがの総力戦研究所の有能な研究員たちも対米模擬戦に織り込む余地がなかった、というより発想がなかった。  原子爆弾の存在自体がそれほど困難であり、その構造や有用性が不可解だった。今は手探り状態の段階、と科学者や研究者の皆々は思っていた。 だが、第一次世界大戦を超える総力戦の今大戦。もはや人類戦線史上の異状下、全てが規格外になりうる要素は揃っていた。  原子爆弾開発は戦時中には間に合わない。  多くの科学者が脳裏に浮かべたその事実は、アメリカ合衆国に集う、驚異及び狂気の秀抜な頭脳によって覆されようとしていた。  残酷にも、間もなく。
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