[終末、夜明け前]

1/1

8人が本棚に入れています
本棚に追加
/9ページ

[終末、夜明け前]

 四次元時空と称する宇宙の領域では、一度進んだ時計の針は元には戻せない。ただ時は淡々と動き続けるだけ。  その流れはミンコフスキー時空にある、銀河系の中心からはおよそ二万五千光年離れた、言わば場末に位置する太陽系のハビタブル・ゾーン(生命可住許容領域)に属する青い惑星。さらにその中にある開拓精神をモットーとする者たちの、境界線で区切られた国という共同体の域内。その土地に馳せる強い時の流れは脅威のベクトルに従って、その速度が増しているかのような錯覚すら感じられる。  その脅威なる強い時の流れの加速とは何か?  それはアメリカ合衆国における原子爆弾開発、マンハッタン計画。  人類殲滅、にもつながる驚愕の大量殺戮兵器の誕生は、確実に近づいていた。  ニューメキシコ州のロスアラモスに研究所を設立。そこに科学者たちが集い、原爆の理論と製造技術を検討する。ロスアラモスには新進気鋭の一流科学者が揃った。平均年齢は二十六歳【付注:余聞ではあるがアインシュタインは原爆開発には参加していない。あくまでルーズベルト大統領に対する原爆開発の提言をしただけである。だが、マンハッタン計画に関与した科学者は、アーサー・コンプトン、アーネスト・オーランド・ローレンスら後のノーベル物理学賞を受賞者、やはり後にノーベル化学賞を受賞するハロルド・クレイトン・ユーリー、二十世紀中、工学から政治学に経済学いたるまで影響を与えた万能の数学者であるジョン・フォン・ノイマンなどなど、当時の科学界の最高の頭脳が結集している】。  原子爆弾開発を通して後の物理学発展をも担う、若き科学者たちの梁山泊とも言うべき研究所がロスアラモスであった。だが、そのロスアラモス。プルトニウムの人体被害の研究のために、不治の病の患者を捕まえて、プルトニウムをクエン酸塩にしたものを患者に注射する、という言語道断の人体実験を行ったという報告もあるので、健全明朗かといえばそうとは言えない。もっとも原爆開発というのが目的であるのだから、その寄与は科学の発展というお題目以上に、ナチスのホロコーストに変わる「大量虐殺」につながるのは必然。不穏当な内情になるのは肯定されるのであろう。  一方、原爆の材料となるウランとプルトニウムの生成作業。 ウランの精製工場はテネシー州のオークリッジに建設。また、プルトニウムの生産工場はワシントン州のコロンビア河沿いにハンフォードという技術工場として設けた。ウランやプルトニウムの特性を鑑みて、製造場所をそれぞれ区別した。  ロスアラモス、オークリッジ、ハンフォード。主にこの三つの拠点が一丸となって、科学部門のリーダーであるオッペンハイマーの指揮下、マンハッタン計画は急速に進行していく。  一九四二年の十二月のフェルミらによる原子炉実験による成功以来、翌年にはすでに原爆開発から手を引いたイギリスから、ブリティッシュ・ミッションと呼ばれる「原爆開発部隊」が援助に駆けつけ、マンハッタン計画は連合軍ぐるみの開発に乗り出す。さらに原爆運搬計画も開始。原子爆弾の存在がリアルとしてとらえられてくる。  一九四四年の夏までには原子爆弾の仕様も決定し、ウランを原料とする原子爆弾をガンバレル型という砲身形のスケールに採用。一方、プルトニウムを原料とする原子爆弾は、爆縮炉型というガンバレル型とは違った投下爆弾になった。プルトニウムで砲身の形状の爆弾にすると、プルトニウムが一塊になる前に一部分が勝手に爆発し、その大部分が飛散してしまうという恐れがある。そこで編み出されたのが「爆縮」という爆発構造。プルトニウムの破片を中心の空洞部に球状に配列し、その周囲に火薬を敷き詰める。火薬に点火するとその爆発力が球の中心に向かって、プルトニウムを押し潰して瞬間的に高密度化し、核分裂連鎖反応を引き起こす。それは一千万分の一秒の連鎖反応。 核反応によって生み出されるエネルギー。  その作用は一グラムの物質が二万六千メガワットのエネルギーに転じる。核反応は化学反応のエネルギー転化の比ではない。自然界の上で規格外、常識外のエネルギーが核反応によって放出される。  化学反応は分子同士の相互の連関性が変化した時に放出するエネルギーを利用している。つまり、反応前のエネルギーと反応後のエネルギーを引いたエネルギーが使用したエネルギーとなる。燃焼などの化学反応はそのエネルギー差から生じる。  だが、核反応は分子レベルの話ではなく、原子核レベルまでその反応作用が及ぶ。化学反応における分子の変化によるエネルギーの放出と構造は同じだが、核反応はさらにミクロな領域である核子の分裂や融合が起因となる。原子爆弾は核分裂よって爆発を起こすが、それは言ってみれば、陽子と中性子を構成している原子核の崩壊によってもたらせたもの。そして、その反応前と反応後のエネルギー差は化学反応のそれとは桁違いの物質転換を可能にさせる。  核反応はある意味、物体の消滅、である。  化学的解釈をすれば質量保存則により、質量が消失するという事は理に反するのだが、物理学的に言えばエネルギー保存則に従うので、化学の世界におけるそれは問題ではない。事実、質量がエネルギーに転化するので保存則は保たれている。また、消失や消滅という、そのような形容の方が核エネルギーの暴力性および破壊性を端的に表せるのではないか。  その強大かつ衝撃力を有したのが原子爆弾。  一九四五年の七月。  ガンバレル型の原子爆弾が一つと、爆縮炉型の原子爆弾が二つ完成する。 「全ては予定通りだ」  ロスアラモス国立研究所の初代所長、ロバート・オッペンハイマーは仄くらい痩せこけた頬を歪ませて冷たく呟く。 大戦時中では原子爆弾開発は間に合わないだろう、と大方の科学者が予想した結果を裏切る所産。それをオッペンハイマー率いるマンハッタン計画の参加科学者たちは成した。原爆開発の研究の目的や内容如何を問わなければ、それは科学史上の偉業と呼んでも差し支えない。  だが、その成果を称賛する者は少ない。 全てが極秘裏に進められた原爆開発計画ゆえに、海外ではもちろんアメリカ国内でもその事実を知る科学者は多くない。いや、ほぼいない。そういっても過言ではない。特Aクラスの国家機密でスタートしたマンハッタン計画は、政府の重要高官でも知る人間は限られている。事実、トルーマンも一九四五年の四月十二日に、当時の大統領のルーズベルトの急死によって新大統領になるまで、マンハッタン計画の概要については知らなかった。すでに副大統領というポストについていながら、である。ルーズベルト政権下で発令したマンハッタン計画は、ごく少数の政府、軍事関係者のみが関わっている機密事項であり、徹底的に水面下で行われていた。  その事実に対してトルーマンは胸中穏やかではなかった。ルーズベルトの懐刀として信任を得ていたはず、と思っていた自分に、マンハッタン計画の素描を公表せず、ルーズベルトが秘密裏に進めていた事は。  だが、一方で心を躍らせてもいた。自分はルーズベルトの死によって自動的に、偶発的に大統領の座を射止めたわけではない。ルーズベルトの遺産を成就するために選ばれたプレジデントなのだと。原子爆弾こそが先代ルーズベルトからの、大統領委任の証。  小児麻痺という障害を持ち、そんな塗炭の苦労を乗り越えて、アメリカ政治史上唯一、四選を果たした大統領でもあるフランクリン・ルーズベルト。先の大統領、ルーズベルトの威厳はトルーマンにとっては強すぎた。眩しすぎた。だからこそ決定的な承認をトルーマンは欲していた【付注:しかし、歴代米国大統領として一般的には高い評価を得ているフランクリン・デラノ・ルーズベルトではあるが、アメリカ政府が一九九五年に発表した『ヴェノナ』文書にて、ルーズベルトが共産主義のシンパ、言ってしまえばコミンテルンのスパイではないか、という疑いをもたらされ、その大統領としての成果を見直す動きがある(また、世界恐慌時にルーズベルト指導した、ニューディール政策も歴史学者の今日的観点での研究では批判的な意見も多い)。ヴェノナは一九四〇年から一九四四年にかけて、アメリカにいるソ連のスパイと本国ソ連政府との暗号傍受をアメリカ国家安全保障局(NSA)が行い、その解読を一九四三年から一九八〇年までイギリス情報部と連携して計画した記録である。その資料の中で、ルーズベルトがKGB(ソ連の諜報機関)暗号電文内で「キャプテン」というコードネームで呼ばれていた事が判明。実際にルーズベルトが工作活動に関わっていたかは不明だが、元来、容共的だったルーズベルトからすれば、何らかの形でソ連と私的な交流があったとしても不自然ではない。実際にルーズベルト政権下ではアルジャー・ヒス財務長官補佐官を始め、幾人もの高官がソ連のスパイだったと判明している。また、機密保持の問題もあり、ヴェノナ(ヴェノナ計画ともいう)の公表は、ソ連崩壊、冷戦終了以降になってしまったが、そのヴェノナ文書から読み取るに、アメリカはイギリスからの戦争支援の幾度の要請はあれど、一方でソ連に日本との戦争を仕向けられた感が否めない。ドイツの侵攻を防ぐために、本来、資本主義のアメリカとは相容れない社会主義国家のソ連を連合軍側に呼んだ米国政府。だが、実際にはソ連もまたアメリカを日本へのソ連侵攻の牽制として利用し、まさしく狐と狸の馬鹿し合いのような構図を作り上げていた。つまり、アメリカにとって第二次世界大戦は決して負けられない戦いであって、今まで掲げてきたアメリカの国際的な警官を担うというような正義の理念を覆してでも、それは最悪ソ連と一時的に結託してでもなり振り構わず得なければならない勝利であった。ヴェノナに載っている事実は言わばアメリカの歴史の汚点と言っても大げさではない。そのような内容の秘匿性から本国アメリカでもヴェノナの存在が大きく取り上げられる機会は少なくなり、その考証や研究自体も身内の恥を晒すべく……の翻意の観点からか、あまり熱心な歴史学者や社会学者も多くない。ある種、ヴェノナの存在自体がタブー視されている状況が米国の風潮としてある】。  それが原子爆弾の意志であり、遺志を受け継ぐという事に凝固した。原子爆弾の開発プロジェクトを完遂する事こそが、ルーズベルトに比肩する資格を得るのだと。  あとは堕(お)とすのみ。  トルーマンの脳裏によぎる、残された最後の課題。  それは原爆の降下。  一九三九年のアインシュタインとシラードの手紙による、ドイツが原爆開発に乗り出しているかも知れないので、アメリカも早急に手を打たなければいけない、という内容から端を発したマンハッタン計画。本来ならばその核の力はドイツに向けられ、ドイツを蹂躙すべき兵器になるはずだった。ナチスに落とすべき原子爆弾であった。  だが、ここで問題が生じる。  ドイツはアメリカが原子爆弾を完成させる前に既に降伏していたからだ【付注:一説によるとトルーマンはWASPと呼ばれる、アングロ・サクソン系白人の優位主義をとっているため、白人であるドイツ人ではなく、黄色人種である日本に向けて原爆を放った、とも言われているが、事実問題として原爆完成の前にドイツが降伏してしまったので、その真意は定かでない】。  ドイツは一九四三年の七月のスターリングラードでの大敗以降、八面六臂の奮闘振りだった躍進は、急激に失速していく。一九四四年の一月、九百日間にも及んだレニングラードでの攻防戦でソ連軍に敗北。この敗戦で東部戦線の主導権を失う。さらに同年六月の連合軍によるオーバーロード作戦(ノルマンディー上陸作戦)により、ドイツ占領下のパリは解放され、翌年の三月にはドイツの心臓部と呼ばれるルール工業地帯が占拠され、ナチス・ドイツ、及びアドルフ・ヒトラーは完全な劣勢に立たされる。また逃亡中だったかつての盟友ムッソリーニが、翌月にスイス国境でパルチザン(ファシズム体制の反対派)に捕らえられ、射殺された上、イタリアはミラノの広場で逆さ吊りにさらされる、という凄惨な出来事も重なった。  進攻、侵攻を止めない連合軍はさらにベルリンへと向かう。  もはやヒトラーも自分の運命を悟る。  自死すべき、と。  ヒトラーは自分の死体を晒し者にされるのを拒み、自決した後に自らの死体を焼くよう部下に命じる。  一九四五年の四月三十日。  希代の独裁者、総統(フューラー)アドルフ・ヒトラーは自らによって命を落とした。  前日、ヒトラーは長年の愛人であったエヴァ・ブラウンと結婚し、僅か一日だけヒトラー夫人となったエヴァも、彼と運命をともにする。  そして、翌月の七日にドイツは連合軍に対して無条件降伏した。  顧みてみると第二次世界大戦は統一国家としてドイツ帝国が一八七一年に成立して以来、恐らく最大にして最悪、そして、最後の賭けの戦争だった。  反芻して強調する事になってしまうが、古来より欧州自体が分裂国家の様相を呈し、実質上、概念としての国家がなく、その国民の結びつきは宗教一致であり、民族団結の意識が強かった。つまり、一つの国はただの生活する領土にすぎず、宗教と血の絆の民族を重んじ、ナショナリズムとは程遠い人間の集まりであった。その辺りは開国前の鎖国時代、日本人の藩意識からの仲間意識の繋がりと、国家としての日本の認識の希薄さと似ている。島国であるイギリスを除く地続きの欧州各国では絶えず近隣国との戦争に明け暮れ(イギリスも十分に戦争には参加しているが)、何処の国が何処まで国境線を有しているかなど重要視せず、国盗り合戦というよりも教派と民族自決にかけた争いが、彼(か)の地では垣間見られる。ドイツ統一までの道のりを探ると、フランク王国や神聖ローマ帝国、プロイセン王国などなど、その名の変遷とともに版図も判然とせず、様々な小国家の分裂が目立つばかりだった(神聖ローマ帝国時代は三百以上の国で形成されていた)。言わばドイツという言葉は国名ではなく、一つの概念国家として存在していた。それはドイツだけではなく、イタリアを始めとした国々も分裂国家の状態を長らく体制としていたので、欧州という地政学的観点からは、決してドイツが特別な訳ではないが。  だが、ドイツ帝国からワイマール共和政を挟んで成立したナチス・ドイツ。ナチス・ドイツにはその経緯までの長い歴史から、ドイツこそが欧州の覇者にならなければならない使命を持ち、また、資格があるとの自負があった。だからこそ第一次世界大戦の敗北は受け入れ難く、その戦後の国際的制裁も国内の実質被害も甚だしかったが、さらには国の威信、言ってしまえばプライドを大いに蹂躙された、とドイツ国民は感じたのである。ヨーロッパの支配に最も適した国、神に選ばれしドイツ国家が何故に不遇の趨勢にとらわれなければいけない、と。だからこそナチス・ドイツが捲土重来、遂に立ち上がった。東方生存圏(レーベンスラウム)の確保、ひいては欧州征服という野望のために。 しかし、そのナチス・ドイツによるアーリア人のヨーロッパ制覇、第三帝国樹立の構想……ヒトラーが掲げ、夢見た野望は、潰えた。即ち、最後の賭けに負けたのだった。  今一度振り返ってみるが、ドイツの二十世紀は、傷だらけのセンチュリーであった。第一次世界大戦の敗戦以降、ドイツ国内は疲弊し荒廃しきっていた。国際的にも排除され、列国からは虐げられてきた。ルサンチマン。そんな怨嗟に近い国民の想いが鬱積し、その受け皿となったのがナチスであった。  第一次世界大戦以後のヴェルサイユ条約下における、ドイツの内憂は政治や経済の不安定な状態だけではない。ドイツの軍事力の抑止も課題となっていた。欧州各国はドイツの戦意高揚を押し潰す為にも、徹底的なドイツへの軍縮や兵器の開発規制を強いる。ドイツ陸軍や海軍の大幅な兵力削減。空軍に至っては兵員すら禁止。兵器でも巨大戦艦や空母や艦載機などの製造は許されていなかった。そこでナチス・ドイツが見出したのが、主にロケットやジェット機関、潜水艦の開発であった。それらの兵器は量産の規制はあるものの、開発自体は許可されていたため、ナチスはその制限内で密かに高度な新兵器を作る事に成功していた。当時の最大戦力の考えとしては、先の対戦を省みるに大鑑巨砲主義が主流であったから、列強各国も戦艦や空母などの兵器開発に軸を置いていていたため、ロケットなどの弾道兵器にはあまり力を入れていなかった。そのようにあまり戦力になるような兵器と考えてない事由により、幾つかの兵器製造はナチスにもあてがわれた。だが、ナチスはそれをむしろ逆手にとり、限られた兵器製造の中で、他国とは異質かつ洗練された弾道ミサイルや潜水艦などを開発していった。ミサイルで言えばVシリーズのロケット開発であり、潜水艦ならばUボート、戦闘機ならばメッサーシュミット等と、他の国々が傾注する大鑑巨砲兵器とは画した独自の路線、否、強制的にも創意工夫を凝らした兵器を開発せざるをえなかった【付注:だが、ヒトラー自身は大鑑巨砲主義の傾向があった】。その結果、少数精鋭の高度な兵器が次々と開発され、逆に大味な兵器には傾注せずに、量より質で第二次世界大戦を決するようになった。  現代に通ずる長距離弾道ミサイルやジェット機やヘリコプター等の祖型は、このナチス・ドイツの兵器から始まったといっても壮語にはならない。それほどの高性能かつ意匠を結集した兵器を資源力も乏しい状況下で、ナチス・ドイツでは世界制覇の野望のために開発した。ナチス・ドイツの強大な軍事力は数の理論ではなく、質の重視に理由があり、その諸々のマテリアルの使い方が長けていたと判断しても過言ではないだろう。  また、ヒトラー率いるナチスは、国民感情の掌握に卓越していた。国民の不満や期待を十分に承知していた。だからこそヒトラーはその情緒的な作用を国策に利用し、ナチスともどもと野望に重ねたのだ。だが、ナチスそのものは独裁政党になったものの、それはクーデターや革命などによるものではない。投票操作の多寡やナチスによってもたらした、ヒトラーへの全権委任法を乱用した経緯はあるものの、あくまで面目としては民主的な選挙の結果の所以に依る。ゆえに名目上は国民の総意として政党政治は成り立っていた。それに実際、ナチスが行った政策は労働者党の名前に違わず、一般労働者や国民を手厚く援助した。労働者には大幅な減税を行い、大企業には逆に増税。源泉徴収や扶養控除などのシステムや、各種保険金制度の導入は、世界に先駆けてナチスが行ったことである。それに産業面でも、高速自動車道の原型となるアウトバーンの開発を行い、それに伴いながら大衆車のフォルクスワーゲンを安価に国民に提供。さらにはアスベスト被害にもいち早く注目し、ガン予防の対策も率先して行い、ひいては自然食の推進まで図っている。また、一九三六年でのベルリン・オリンピックは後の近代オリンピックのモデルとなり、この大会にて聖火リレーというイベントが誕生した。  ナチス政権下のドイツは諸々の問題はあったものの、一つのユートピアを形成させる勢いがあった。この奇跡の大躍進に国民は狂喜し、また、国民も一朶(いちだ)となった。だが、そんな一致団結する国家と国民という理想的な図式に一つの齟齬があった。ドイツ再興はナチスにしろ、ドイツ国民にしろ、同一の目標である。さらには誇り高きドイツ人という意識も同調している。しかし、ナチスはさらに、優秀なるアーリア人、ゲルマン民族による欧州制圧、という野望があまりにも強く根底にあった。長く艱難辛苦に追い詰められていた状況の反動は根深い。ナチスは世界に冠たる強国ドイツを目指していた。恐らくその志向の違い、いや、その欲望(リビドー)の温度差がナチスとドイツ国民とにあった。さしあたって先ずドイツ復興を主に願った国民と、復興と同時並行してドイツに覇権奪取の早急を求めたヒトラー率いるナチス。その両者の違いが。  そのような大儀を掲げる事は、枢軸国の同盟国である日本も同様であった。八紘一宇の名のもとに、アジアを日本の傘下としてまとめ上げる、大東亜共栄圏という思想。ナチスと違わずその支配理念は変わらない。  顧みるに今次の大戦で枢軸国は、あまりにも無邪気に全体主義を唱えすぎた。あまりにも分かり易く世界征服を掲げすぎた。ラディカルな軍事力の発展が、小国の野心を肥大化させ、多くの敵を作ったと同時に、「悪」の象徴を決定付けさせた。アメリカや連合国はそれを見抜き、それぞれ利用した。独裁主義に対する自由主義国家の対立という図式にして。自由主義陣営の正当性を、世界に向けて高めるためのプロパガンダとして。  一方でソ連ら共産主義陣営も一つ間違えば枢軸国と同じ括りになっていた。だが、ソ連の立ち振る舞いは巧かった。枢軸国も連合国も、結局は大国ソ連を牽制するはず。ソ連は自らのポジションを承知していた。だからこそ日和見主義的に、冷静に戦況を判断していき、大戦を潜り抜けた。さらに戦後の国際情勢も見越して。  スターリン独裁のソ連の共産主義も、自由主義陣営からすれば、全体主義につながる危険な政治体制には変わらない。だが、その自由主義、資本主義の筆頭に位置するアメリカですらも、パクス・アメリカーナ(アメリカ一極体制による世界平和、秩序の形成)という概念を標榜しているので、全体主義的な危うさを包含している。しかし、ソ連およびアメリカともども、それら超大国は表立って戦時、その姿勢を見せなかった。露骨ではなかった。試合巧者というべきか。  此方(こなた)、調子に乗っていた枢軸国は既に盲目状態。そして、それに気づかず、単純に敵を作り過ぎた。だが、周囲が見えない枢軸国は、その後も疾走し、迷走し、やがて敗走した。結果論ではあるが、枢軸国が挑んだ戦いは無謀すぎた。  それでは今次の戦争は無駄で愚かな行為だった、という歴史的事実として断じてすむものなのか。多くの犠牲者に意味はなかったのだろうか。  例えばもし、軍事拡張路線を進んでいた日本が世界から批判的にとらえられていた時、アメリカその他各国からの圧力をそのまま受け入れていたならば、その後の日本はどうだったか。戦争は回避できたかも知れない。だが、それこそ完全な植民地として日本は統括されていた可能性もあった。歴史にifを唱える行為はナンセンスではある。しかし、無謀な抵抗があったからこそ、敗戦後も日本はギリギリのラインで国家を保つ事ができたのではないか。  十六世紀頃から欧米によるアジア、特に東南アジアの植民地支配が激化し始めた。ポルトガルにおけるマラッカ王国(現在のマレーシア)の侵攻、スペインによるフィリピンの征服。何よりも十八世紀中頃のイギリスのインドの植民地化は大きかった。イギリスがインドをイギリス東インド会社の支配下に置いたからだ。  東インド会社とはアジア貿易地域との貿易独占権を与えられた特許会社で、その創設は一六〇〇年と古い。イギリス東インド会社はそのリゾームの一環だが、そのイギリス東インド会社がインドを支配した事によって、貿易の利益、徴税権、行政権までもイギリスは握るようになったのである。さらにイギリスの侵攻は続き、ビルマ(現在のミャンマー)やパキスタンやバングラデシュなどの国々も植民地化していった。それらの植民地で得た富を原動力にイギリスでは幾度かの産業革命が進み、十九世紀はパクス・ブリタニカ(英国による世界支配)と呼ばれるようになった。  片やそれを横目に黙って見ている欧州列強国ではない。植民地支配による国益の莫大な効用を知り、オランダやフランスは東南アジアへの侵攻を深めていく。まさしく当時の先進国による途上国に対しての領土争奪戦である。列強国は強制栽培制度などを駆使して、植民地の人々を奴隷化させほぼ使い捨てのごとく労役させた。そして、戦後、植民地を荒らすだけ荒らして、放ったらかしのまま宗主国である欧州列強国は、体裁的には植民地支配は時代遅れで民主的ではなく、高圧的なただの侵略に過ぎない、という世論の箕に隠れて中東やアジアの国々から撤退していった。だが、その後、長年に渡り欧州に植民地支配された、数々の独立した発展途上国での内紛や内戦はもはや知るべき事情。 圧倒的な戦力差で欧州列強国に負けて強引に支配された植民地国家という痛恨の仇は、まさに弱肉強食に従い敵国の祖国蹂躙を目前として、その後の戦後処理も放任され、ただただ支配された側の国民は事の成り行きを黙って見て、耐えるしかなかった。  一方で敗戦必至の太平洋戦争後半でも、良く言えば勇猛果敢、悪く言えばヤケクソな抗いを見せた日本。  終戦間もなくして、欧米列強の植民地支配という事態に世界規模の世論の否定的な反応や、植民地支配自体に思ったほどの生産性が望めないという事情もあったかも知れないが、アメリカの単独占領の仕方でも、アメリカ自体が慎重に慎重を重ね、日本国民の神経を逆撫でしないように行った。天皇を広告塔に掲げる手段を施すほどに。それは戦時の日本の神風特攻を筆頭とした半ば自暴自棄的な抗戦行為が、アメリカに脅威を与えた事が遠因にあるのではないか。この国は侮れなく、高圧的な支配をしてしまえば頑なな反抗が起きる、と予期して。  一方、また戦時にその必死の抵抗があったからこそ、おそらく大東亜共栄圏思想の副次的な産物であるとしても、アジア諸国を勢いづけさせ、プラハの春やアラブの春さながらに、微力とはいえヨーロッパ諸国による植民地支配からの解放につながったのではないか。逆にそれぞれの国々が独立した事によって、困難な状態や時期や状況があったにしても、民族解放の一助にはなったのではないか。  戦争を正当化しているわけではない。ただ、そのような歴史的一面も鑑みてみる、というのも必要に思える。  犠牲になったのは日本国民だけではない。大戦で散った全ての人間に、その死には意味があった。意義があった。だからこそ後の二十世紀は、少なくとも世界規模の戦争は免れた。戦争という無意味な殺戮によって失われた命こそが、平和という有意義な思想を人々に培わせた。彼ら、彼女らの死こそが、今日を成り立たせている、と言っても壮語にはならないはず。  それが悲しき収穫であるとしても。  とまれドイツは原爆完成を待たずして、大戦の表舞台から退場した。だが、資本主義陣営や共産主義陣営の列国が入り乱れる国際情勢の渦中、ドイツ連邦共和国は戦後に分断され、傷だらけのドイツの世紀がその後も続く。  戦後の残痕(ざんこん)は、深い。  はたして一九三九年から連綿と続いた第二次世界大戦は終わりを告げようとしていた。  だが、まだ幕は下りきっていない。  まだ時代は最後の業火を欲している。  壮絶なる紅蓮の炎を。  黒く光る、「鋼鉄」が行き先を渇望している。  堕する場所を求めている。  落ちるべき点。  炎、巻き上げる領域を。  独伊の枢軸国はもはや舞台から去った。  そこに着地点はない。  だが、ただ一つ闇色の光を放てる場所があった。  焦土させるべき大地を見つけた。  それは遥か極東の小さな島国。  もはや傷だらけの傾国状態の国家。  連合国の最後の標的。  大日本帝国と呼ばれる、最後に残った交戦国を。
/9ページ

最初のコメントを投稿しよう!

8人が本棚に入れています
本棚に追加