1 和奏

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1 和奏

 ペンション『セレナーデ』の裏庭で、スカーレットオークの炎のような紅い葉を眺めている優樹の耳にオペラ、カルメンの『ハバネロ』が聴こえてきた。優樹の父、直樹が弾いているだろうピアノの音はこの紅い葉のように情熱的だ。  優樹はふっと陶芸教室のアトリエのほうへ目をやると母の緋紗も手を止めて直樹の演奏を聴き入っている。(いつまでもラブラブだよなあ)ショートボブの顔にかかった髪の毛の隙間から緋紗の染まった頬をみて優樹は両親を羨ましく感じていた。やがて演奏も終わり、しばらくアトリエの周りを散策しているとペンションの裏口から直樹が眼鏡を直しながら出てきた。 「ああ、優樹。母さん終わった?」 「うん。終わったよ」 「お手伝い、ご苦労様」  直樹はポンと自分より少し低い位置の優樹の肩をたたいて微笑みながらアトリエに向かって行った。  優樹はペンションに入ってピアノのある食堂の方へ歩くと、またピアノの音が聴こえてくる。(和奏ねーちゃんが弾きはじめたのか)  滑らかな風に乗ってシューベルトの『アヴェマリア』が優樹のすべすべした頬を撫でる(俺が初めて聴いた音楽は、ねーちゃんのこの曲だ)優樹はなんとなくそう記憶していた。このことを緋紗に話すと、確かに妊娠したときに和奏が優樹のために、この曲を弾いてくれたと驚いていた。  そおっとピアノのそばに近寄り邪魔をしないように和奏の演奏を聴く。優美で少し物憂げな様子で目を閉じて鍵盤をたたいている和奏を眺めた。  演奏が終わるのを待ってしばらくじっとする。優しく鍵盤から手を離したのを見届けてパラパラと拍手をした。 「わ。びっくりした。いたの」 「うん。お母さんの手伝い。今、片付いた」 「そ」  和奏は太くてコシと艶のある黒い髪をかき上げて、そっぽを向いている。少しよそよそしい態度だが優樹は無遠慮に近づく。 「どうかした?」 「別に……」 「変なねーちゃん。じゃ帰るよ。またね」 「またね」  いつもと少しだけ様子の違う和奏をしり目に優樹は厨房を覗いた。 「和夫おじさん。帰るね」 「おお。ご苦労さん。またな」  和奏の父親であるこのペンション『セレナーデ』のオーナー和夫が低いが明るい良く通る声で応えた。優樹もにこっと微笑んでペンションを後にした。
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