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「お帰り~」
家に帰ると部屋からタカオが顔を覗かせた。カナエはその顔を見るとほっとする。
「早かったね。今日は取引先と夕食って言っていたよね」
いつものとおり着替えをするために部屋に入ってきたカナエにタカオはそう聞いた。
彼女は何も答えず、コートとジャケットを脱ぐ。
先ほどあったことを話したくなかった。タカオに余計な心配をさせるのが嫌だったからだ。
「上杉……」
シャツのボタンに手をかけていたカナエを、タカオは後ろから抱きしめた。
「何かあった?大丈夫…」
そう言い掛けて、彼は眉をひそめる。タバコを吸うはずがないカナエから、タバコの匂いと男物のコロンの香りがした。
「客になんかされた?」
タカオは顔を険しくさせる。
「ちょっとセクハラされた。殴り飛ばしたけど」
カナエは後ろから回された手を包むように掴み、正直に答えた。
「当然だな。僕の上杉に手を出そうなんて」
タカオは不安を紛らわせる様にカナエの髪に顔をうずめる。
「髪までタバコくさい。上杉、一緒に風呂入ろうよ。僕もまだなんだよ」
「!」
その言葉にカナエはぎょっとして掴んでいたタカオの手を離した。
「冗談。自分で入る」
カナエはそう言うと着替えの服を取り、慌てて部屋を出て行く。
(裸を見られるのは嫌だ。ましては明るいところで)
タカオは部屋を出て行ったカナエを残念そうに見ながらも、ふと単なるセクハラではない嫌な予感を覚えていた。
「ねぇ。昨日どうだったの?」
翌日事務所に着くとジュディ・チュアがすでに出社していて、その顔から面白い話を期待しているのがわかった。昨日とった行動が会社にとっては大きな打撃になることをカナエは知っており、覚悟を決める。
深呼吸をすると口を開いた。
「実は昨日……」
そう言いかけると会社の電話が鳴った。ジュディは舌打ちすると受話器をとる。
「ウェイ?」
中国語(普通語)でそう始まり、ジュディが広東語を話し始めたのがわかった。カナエはいまだに中国語(普通語)も広東語も話せなかったが、その音の違いはわかるようになっていた。香港人の多くは英語と広東語の他、中国語も話せるようになっていたが、巷ではまだ広東語が主流のようだった。
「カナエ、ケルビンよ。昨日のことで電話よ」
ジュディが不可思議な顔をしながらカナエに電話に転送した。すぐに机の上の電話の呼び出し音が聞こえ始める。ジュディの視線を感じながらカナエは息を吐くとボタンを押して受話器をとった。
「スンさん、上杉カナエです」
「カナエさん!昨日はすみませんでした。お詫びに今度お昼をご馳走させてください。ジュディも同席しても構いません」
一人だけ誘うと警戒されると思ってかケルビンはそう付け加える。
(ジュディも一緒だし。会社にとっては一番の顧客だ。しょうがないか……)
「昨日のことは忘れます。私も申し訳ありませんでした。お昼はジュディと楽しみにしています」
「よかった。ありがとう。今度また連絡します」
電話口からほっと息を吐く音がして、通話が切れた。
「ねぇ、何かあったの?」
「いや、別に」
受話器を置きながら、ジュディに説明することもないだろうと思ってカナエはそう答えた。
彼女は昨日の件がこれで解決したものだと甘くみていた。プライドを傷つけられたはずのケルビンが詫びの電話をかけてきたことに何も疑問を持っていなかったのだ。
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