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二人でクリスマスを。
「カナエさん、お待ちしてました」
流暢な日本語を話すイギリス人華僑のケルビン・スンはそう言って上杉カナエを個室に招いた。
そこは日本の料亭とまったく同じつくりの座敷だった。
カナエは履物を脱ぐと座敷の中に入る。確か室内では禁煙だったのはずなのに、最初に鼻についたのは煙草に匂いで、眉をひそめた。見るとケルビンの側にある灰皿に煙草の吸殻が2-3本捨ててあった。ヘビースモーカーの彼がカナエを待つ間吸っていたようだった。
ケルビン・スンは香港の若手実業家で、香港が中国に返還される前にイギリス国籍を取得した華人だった。ジュディ・チュアの会社は日本から廃棄されるような部品を安くで入手して、香港経由で中国に加工して売っていた。ケルビンはその加工したものを大量に買ってくれる一番のお客だった。
今日は来週の製品の納品についてのミーティングのためだったのだが、ケルビンの希望でここに食事を取りながら話すことになっていた。
カナエがケルビンと最初に会ったのは香港に来たばかりの半年前だった。
日本側とのやり取りや書類の作成などを仕事の中心にしていて、お客の大半が中国人のため、中国語も広東語も話せないカナエは書類処理、接客はもっぱらジュディが担当していた。
しかし、このケルビンは日本に留学したこともあり、日本語が流暢なのでジュディはケルビンだけはカナエに任せていた。
彼の視線がカナエに注がれる。いつものように猫のような瞳だった。彼女は眼鏡のレンズ越しに見えるその瞳が苦手だった。それはタカオが心を封印されていたときと同じ輝きだった。
カナエはケルビンに気づかれないようにため息をつくと、彼の向かいの席に座った。久々に座る畳の感触は足に心地よかった。
「カナエさん、香港にきて日本食満足に食べれてないでしょう。そう思って今日は私がよく来るお店に来てもらいましたよ」
ケルビンは魅力的な笑みを浮かべる。彼の顔の作りは悪くなかった。多分ハンサムの部類に入るだろう。細いフレームの黒縁眼鏡がよく似合っていた。
「スンさん、申し訳ありませんが私達はあなたにお仕事をいただいている立場です。こんな風に夕食に招待されても困ります」
カナエがケルビンの向かい側で表情を硬くしたままそう言うと彼は微笑を浮かべた。
「カナエさん、これは私からのあなたへの気持ちです。私はあなたが好きなのです」
彼は両肘をテーブルにつき、顔の前で手を合わせながら視線をカナエに向けていた。眼鏡の奥の瞳が肉食獣のように煌く。
「すみません。そういうことでしたら私は帰ります」
そう席を立とうとすると、ケルビンが立ち上がり彼女の両腕を掴んだ。
「私は香港でそれなりの富と力を持っています。あなたが私のものになってくれれば、一生贅沢に暮らせますよ」
彼はカナエを引き寄せるとそう耳元で囁いた。
「!」
次の瞬間、彼女は手を振り払い、体を押しのけ、そのわき腹に蹴りを入れた。彼は声を出せずにその場にうずくまる。
「悪いが私はそういう女じゃない」
カナエは座敷にうずくまるケルビンにそう言い放つと襖を開け部屋を出た。
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