踏み潰されて死んでゆけ

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    *** 「あれ、沙綾じゃん」  下駄箱から靴を取り出して履き替えていると、背後から声をかけられた。振り返ると、クラスメイトの悠が不思議そうにあたしを眺めている。 「もう帰るの? 今日って吹奏楽部、休みなんだっけ」 「ううん、違うけど……」 「もしかしてサボり?」 「えっと、そんな感じかな」 「へえ」  悠は自分の下駄箱から靴を取り出すと、上履きを脱いだ。そして、思い出したように「あ」と声を漏らす。 「この後さ、あたし、廣田たちとカラオケ行くの。沙綾も行く?」 「……ごめん、用事あるから」 「あ、そうなの? わかった、じゃあまた今度ね」  明るい口調だったけれど、すっと細められた悠の瞳は剣呑な光を帯びていた。  また今度、なんてないんだろうな。そう直感する。悠に睨まれたら、学校でも過ごしにくくなりそうだ。でも今更撤回する気も起きなくて、立ち去っていく悠の背中をあたしは黙って見送った。  のろのろと昇降口から出て、校門を目指す。放課後が始まったばかりの学校は、色んな音で満ちていた。野球部の音。陸上部の音。テニス部の音。開け放たれた窓からは、チューニングをするクラリネットの音が微かに聞こえてくる。  本来ならあたしも、今頃はあそこにいるはずだった。用事なんて、本当はない。  でも、やる気が湧かないのだ。  面倒くさかった。  部活も。つまらないことで機嫌を悪くする同級生も。なにもかも。  浩二と別れてから二週間。あたしには、それまでのあたしを構成していた全てが、片手間に見るニュース番組の映像みたいにひとごとだと思える。  うちの高校は、駅に近くて通学しやすいのが売りだ。  校門から出て少し歩くと、すぐ大きな交差点に辿り着く。ここを渡るともう駅だ。  横断歩道の前には、赤信号だから、うんざりするほどたくさんの人が立ち止まっている。大きな駅だから、その分利用する人も多い。  人と人の隙間からは、素早く行き交う車が見える。すごいスピードだな、と、あたしはつまらない感想を抱いた。  ぼんやりとそれを眺めていて、ふとこう思う。  もしあそこへ飛び出していって車にぶつかったら、あたしの体なんか簡単にひしゃげて、死んでしまうんじゃないだろうか。  あたしは車道の様子を見つめたまま、頭に手をやって、髪をとめていたバレッタを外した。ふわりと広がった髪が、風に揺られて顔にかかる。  手のひらのバレッタは、あの日浩二がくれたものだ。薄い桃色をベースに、蝶を象った銀色の装飾が施されている。ああ、素敵なバレッタ。  もし。  もし、あたしがこれを握ったまま、死んだとしたら。  そうしたら、浩二はいったいどう思うんだろう——。  信号が赤から青に切り替わったのか、あたしの周囲にいた人たちが一斉に歩き始める。でもあたしの足は、地面に縫い付けられたみたいにその場から動かなかった。じっとバレッタを見つめる視界が、少し震える。  その時、 「邪魔だ」  低い声と、小さな舌打ちの音が聞こえた。同時に、どん、と右肩に衝撃が走る。  誰かがあたしにぶつかったのだ。  そう事態をのみ込むと同時に、あたしの手から、バレッタが転がり落ちた。 「あ」  慌てて拾おうと腰を屈める。伸ばした手が届く前に、あたしの目の前でバレッタは誰かの足に蹴っ飛ばされた。それを目で追おうとして、また誰かにぶつかり、体がよろめく。  再び顔を上げた時には、バレッタは人ごみにのまれて見えなくなっていた。 「うそでしょ……」  絶望に塗れたあたしの声なんか、誰一人聞いていない。  あたしは、川の流れを割く岩のように、その場に立ち尽くした。人の波があたしをさらっていこうと、肩にぶつかる。必死になって踏ん張ってそれを耐えるあたしは、周囲にとってはただの障害物でしかなかっただろう。でもあたしにとっては逆だ。ここにいる奴らが、全員邪魔だ。  あたしはカチカチと歯を鳴らしながら、早くこの波が引くことを懸命に祈った。  だって、このままじゃ、あのバレッタが見つからない。  あたしのことも浩二のことも、なにも知らない他人たちに、あたしの大事なものが奪われてしまう。  数秒経って、やっと青信号が点滅を始める。徐々に横断歩道から人が消えていく中で、あたしはやっと、車道に転がり出ていた銀色の光を見つけることができた。  駆け出して、バレッタを拾い上げる。するとすぐ傍でけたたましいクラクションを鳴らされて、あたしは慌てて歩道へと駆け込んだ。  何事もなかったかのように、車が動き出す。あたしはそれを見てから、自分の手に視線を移した。 「……汚い」  思わず、そう呟いた。  泥のついた靴で踏まれたのか、銀の装飾は黒く霞んでしまっている。数十秒前までは優雅に広げられていた蝶の羽も、無残に折れていた。留め具の部分は辛うじて無事なようだが、これじゃとても身につけられない。  浩二が最後にくれたものが……。  大切にするって言ったのに……。  背中がぶるぶる震えた。胸のあたりから、恐怖が噴き出してくる。だって、もし、これを浩二が知ったら——。 「知らないよ」  その声に、あたしははっと顔を上げた。周囲を見渡すと、横断歩道を渡ろうとする人たちが、またあたしの周りに集まってきている。  今のは、あたしに向けられた言葉じゃない。そんなことはわかっているのに、なにかがあたしの心に染みをつけた。そしてその染みは、どんどん広がっていく。  そうだ。浩二は知らない。きっとなにも知ることができない。たとえあたしが死んだとしても。  だってもう、恋人でもなんでもない。  呆気なく他人に踏みつけられて汚れたバレッタみたいに、二週間前、あたしたちはあっさりと終わってしまったのだから。  再び信号が青になる。周りの人たちが歩き出す。  あたしは、横を通り抜ける人々の顔が、みんな浩二のものであるかのように錯覚した。浩二はあたしのことを一瞥すらせず去っていってしまう。まるで興味なさそうな表情で。  これは本当に錯覚なの?  さっきまできらきら輝いて、生命よりも大切に思えていたはずのものが、急に、道端の石ころみたいに無価値に思えて、あたしの腕から力が抜けた。せっかく拾い上げたバレッタが、足もとに転がる。  怒りはなく、憎悪もなく、ただ虚しいと感じた。あたしは地面を見下ろして、少しの間の後、立ち止まったまま足を持ち上げる。そうするべきだと強く思ったのだ。  そういえば——、 「ちゃんとしていない子は嫌いだよ」  かつて浩二はあたしにこう言ったけれど、「好きだ」と言われたことは、一度もなかったなぁ。  そんなことを考えながら、あたしは足を振り下ろした。  靴のソールを通して、ぱきり、なにかが割れる感触が伝わった。
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