踏み潰されて死んでゆけ

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 ちゃんとしていない子は嫌いだよ。  いつだったか、浩二があたしにそう言った。どんな話の流れだったのかは覚えていない。ただ、その言葉だけは、強い衝撃と共にあたしの中に残った。  それからずっと、あたしはあたしなりに『ちゃんと』してきたんだ。  浩二にあたしを好きでいてほしかったから。いつまでも、浩二の彼女でいたかったから。  だから——なんで終わりが訪れてしまったのか、あたしにはよくわからない。 「なんで?」  あたしが聞き返すと、隣を歩く浩二は少し申し訳なさそうに眉尻を下げ、鼻の頭を指で擦った。 「勉強に集中したいんだ。受験のためにも」 「受験……」 「おれ、あんまり器用じゃないからさ、勉強も部活も沙綾のことも全部っていうのは無理だと思う。でも、大学行くなら、勉強は絶対やらなきゃいけないだろ? それで……」  だから、あたしと、別れたい、と。  あたしはぼんやりと浩二の顔を見つめて、それから視線を逸らした。暗い空の下、ぽっかりと明るく光るのは駅だ。浩二はいつも、デートの終わりにはこうして駅まであたしを送ってくれる。そして、改札の前で別れる。今日もそれは同じだろう。  でもいつもと違うのは、それが本当の意味でのお別れだということだ。どうやらあと100メートルちょっと歩くと、あたしは浩二の彼女ではなくなるらしい。 「そうだよね。受験、大事だもんね」 「急にごめん。沙綾」 「ううん、大丈夫だよ、気にしないで。わかってるから。だって、ほら、浩二の学校ってあたしが通ってるとこよりずっと頭良いし、大学だっていいとこ目指してるんだもん。仕方ないよ」  早い人は高校に入った直後から受験勉強を始めることもあるらしい。だから、高2の春になった今、浩二の言っていることは全くおかしくないのだ。  高1の秋に、あたしの告白で付き合い始めてから、およそ半年。もうじゅうぶんだと言われれば、そうだ。 「あたしもそろそろ勉強しなきゃ……」  付け足すように呟くと、ずっと緊張している様子だった浩二の顔が少しだけ緩んだ。 「あのさ、沙綾、これなんだけど」 「なに?」 「さっき買ったんだ」  浩二がポケットからなにかを取り出した。小さな袋に入ったそれを受け取る。 「髪留め。新しいのがほしいって言ってたから」 「えっ……、あたし、そういうつもりじゃ」 「わかってるよ、でも、おれがあげたかったんだ。これは捨ててもいいし、どうしてもいいから。沙綾が決めていいよ」  浩二がそんなことを言うものだから、あたしは慌てて袋を鞄にしまった。 「捨てないよ! か、髪留め、ほしかったんだもん。大切にする」 「そっか、ありがとう」  へにゃりと浩二が笑う。あたしもそれに笑い返そうとして、少し、口もとが引きつった。  ありがとうって、なんだろう。浩二はどういうつもりなんだろう。別れ話をしているのに、どうしてプレゼントなんか。  湧き上がってくる怒りは、しかし数秒も経つと少し違う感情に変換された。きっと浩二は、ずっとこの話をするつもりで、今日のデートを過ごしていたんだ。なにも知らなかったのはあたしだけ……。 「……あたしのほうこそ、ありがとう」  自分の手を強く握りしめながら、あたしは唸るように言った。 「これのことだけじゃなくて。今まで、ずっと」 「うん。おれも、ありがと」  それ以上は、もう言葉が出てこなかった。言いたいことや聞きたいことはたくさんあるはずなのに。  受験のためって本当なのかな。本当は、もっと別の理由なんじゃないの。  ねえ浩二くん、あなたはわかっているんですか。  あたしはきみのことが好きで好きで堪らないんです。本当は髪のセットも化粧も面倒くさいけど、あなたのためにやっているんです。勉強は嫌いだけど、釣り合わないと言われるのが怖いから、あれだけ努力したんです。団体行動は苦手だけど、友達のいない彼女なんて恥ずかしいだろうから、頑張って人付き合いをしてきたんです。  浩二のために、あたしはそれまでの自分を全部かなぐり捨てた。ちゃんとしていない子は嫌いだって言うから、ちゃんとしようと、思って。  それをわかっていますか。  今のあたしが、あなたのために生きていることを、わかっていますか。 「今日、人が多いね」  浩二が独り言のように呟いた。街に溢れる雑音の中、彼の声はしっかりとあたしの耳に届く。 「そうだねぇ」  あたしは、浩二と同じくらい小さな声で同意を返した。  駅前の広場には人がたくさんいて、波のように駅の構内へ吸い込まれたり、出てきたりしている。  ゆっくり歩きながら、その光景をひとごとのように眺めるあたしたち。奇妙なほどに穏やかなその空間を壊す勇気があたしにはなかった。  本当は別れたくないし、もっと追及したい。でもしつこくして、浩二に嫌がられるのも、怖い。 「ここまででいいよ」  いつもは改札まで送ってもらうのだけど、この混みようを見ていると、それはさすがに申し訳ない気がした。浩二は少し迷うような素振りを見せたが、素直に頷いてくれる。 「わかった。気をつけてね」 「浩二も」 「うん」  浩二が立ち止まる。あたしはまだ歩かなければならない。  これで最後なんだ。  そう思うと、喉に詰まった言葉が溢れ出しそうになる。踏み出しかけた右足を戻して、あたしは浩二を見上げた。 「ねえ、浩二」 「ん?」 「あたし、ちゃんとしてたかな」  言葉の意味がわからない様子で、浩二が瞬きをした。  もしかして浩二は、あの発言を覚えていないのだろうか。 「あの、じゃあ、あたしのこと……」  あたしは深呼吸をしてから聞いた。 「あたしのこと、嫌いじゃなかった?」  手のひらが、汗でじっとりと湿っている。  浩二はあたしを真っ直ぐに見下ろし、首を横に振った。 「まさか。嫌いだなんて、絶対にないよ」 「……そっか」  じゃあ、ばいばい。早口で言って、あたしはその場を駆け出した。人。人。人。人の波に飛び込んで、あたしもその一部になる。  本当に聞きたかったことは、結局聞けなかった。  ——じゃあ、あたしのこと、好きだった?
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