手のひらをおでこに

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娘が熱を出した。私は看病するために会社を早退して娘を保育園まで迎えに行きタクシーを使ってマンションまで帰ってきた。掛かりつけの小児科は休診だったため、一晩自宅で様子見することにした。家には頓服薬(とんぷくやく)もあるし、夫には帰りがけに娘の好きなレモンのシャーベットアイスを買ってくるように頼んでいた。 娘はタクシーに乗ってしばらくすると抱っこしていた私の腕の中で眠ってしまった。今の季節は夏だったけど、湯たんぽを抱えているような気分だった。大きさ百七センチメートル。重さ十七キログラム。ウチに来てから五年が経過している。 マンションに到着すると私はタクシーの運転手さんに運賃を支払った。その時タクシーの運転手さんの手に私の手が触れた。運転手さんは驚いた顔をした後に申し訳なさそうな顔をして「冷房強すぎましたか?」といった。私は「いいえ、私慢性的な冷え性なんです」といってタクシーを降りた。 家の中に入るとすぐに寝室に向かった。うちは川沿いにあるマンションの5階の角部屋。間取りは3LDK。家族三人にしては広いかもしれないがこれから家族は増えるかもしれない。 8畳ほどのフローリングの上にカーペットが敷いてあって、その上に布団を敷いて家族三人、川の字で寝ていた。私は娘の服を脱がして体を拭き、娘お気に入りのキャラクターのプリントされたパジャマに着替えさせた。着替えている時も娘は目を覚まさなかった。 私は娘にライムグリーンのタオルケットを掛けると寝室のドアをゆっく開けてキッチンに向かった。 冷蔵庫の扉を開けると一番上の棚の右奥に置いてある子供用冷感シートを背伸びしながら取った。 冷感シートは七夕で使う短冊くらいの大きさだ。冷たい部分はフィルムで覆われていて、ゼリーのようなぷりんとした感触がした。 額に密着するひんやりとした部分は夏の空を溶かしたような青色で、その中にビーズのように小さい濃紺の粒がスミレの種のように弾けて散らばっていた。私が小さかった頃は冷感シートなんてなかったので厚いゴムでできた氷枕か保冷剤入りの氷枕を使って熱の苦しみを和らげたものだ。 私も昔はよく熱を出したなぁと思い出した。 私の看病をしてくれたのは九十九パーセント母だった。父は仕事がストレス解消のような人で働いていないと落ち着かない人だった。そんなワーカホリックな父の伴侶になった母は太陽が東の空から昇って西の空に落ちるのと同じくらい自然な流れで専業主婦になった。 しかし母にとって炊事洗濯掃除は辛いものだったと思う。母は慢性的な冷え性だった。だから水を使う家事をした後は夏場でも氷のように冷たくなった。家事の後は冬に手を温めるのと同じ要領で両手を顔の前に広げて息を吐きかけていた。私も家事の後は同じように息を吐きかけている。 しかし、母は冷え性を治そうとはしなかった。それは私が原因だった。 私が小学校一年生の時だった。 ある時私は熱を出した。前日から体調が悪く、朝起きた時には体の中に土嚢でも入っているんじゃないかと思うくらい全身が重かった。自分でもわかるほど体が熱く起き上がるものやっとだった。様子を見に来た母に熱があることを伝えると母は体温計を探しにリビングに戻った。しばらくすると体温計が見つからなかったといって戻ってきた。私にしてみれば熱が三十六度だろうが四十度だろうがどうでもよかったが、看病する母にしてみれば今どうゆう状況なのか知りたかったのだろう、横になる私のそばに来て自分の右手を私の額に乗せた。 私は母の手が私の額に触れたその時のことを今でも覚えている。 「おかあさんの手、ひんやりしてて気持ちいい」 私はたしかにそう言った。すると母は目を丸くしてから微笑んだ。夜に浮かぶ三日月みたいにお淑やかで優しい笑顔だった。それから私が眠りに落ちるまでの間、右手があったまったら左手、左手があったまったら右手と私の額に交互に手のひらを当ててくれた。それからというもの私は熱を出すたびに母のひんやりした手を乗せてほしいとせがんだ。氷枕や水に浸した冷たいタオルは嫌だとだだをこねた。母はその度にあの笑顔を見せていた。 私は娘が眠る寝室に戻った。娘は目を覚ましていてた。顔全体が火照っていてまるでりんごのように赤くなっていた。私は体温計を探しに行った。しかし、いつもの場所にあるはずの体温計はなかった。私は部屋に戻ってあの時の母のように娘の額に自分の手を恐る恐る置いてみた。すると娘は「ママの手、ひんやりしてて気持ちいい」と儚げな笑顔で言った。でも、私にとっては真夏の太陽に負けないくらいの輝きだった。私は今どんな顔をしているのだろう。
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