真昼の月

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よく降るなぁ、清平義一の思わず零れた言葉は雨音にかき消された。 停滞する梅雨前線せいでこの一週間バケツをひっくり返したような雨が降り続けている。 木造建築の古い校舎の中でも最も日の当たらない位置に存在する美術部の部室は連日の湿気でさらに痛み、黴臭く、それが絵の具の匂いと混じってお世辞にも居心地が良いとは言えない臭気が漂ってふとした瞬間に気分が悪くなる。 そのせいもあってか、他の部員は最近あまり姿を見せていない、見せたとしても三十分足らずでみんなこの匂いにうんざりして帰ってしまって最近は一人で部室にいる時間が多かった。 うんざりしているのは清平も例外ではないが、一人の美術室より安らげる場所を他に知らないからどうしてもここに居続けてしまう。 けれども流石に臭気に耐え切れず空気を入れ換えようと窓を開けるとじめっとした風とアスファルトに雨が溶ける匂いが清平を包んだ。 雨が嫌いなわけでは決してないが、こうどうにもこうにもの状況だとどうしても気が滅入ってしまう。 いつもは部活動生で活気だった放課後も最近はこう雨音だけが響くある意味で静かな空間だ。 なんだか自分一人だけ無人島に取り残されたような気さえする。 はぁ…とため息をついてもう今日は帰ろうと窓を閉めようとしたとき、視界の隅に見知った顔が見えた。 ふと顔を向けると、彼は渡り廊下の屋根の下で何故かスマートフォンで風景を撮ってるようだった。 なんでまたそんなところで?しかもこんな悪天候の時に何を?と怪訝に思う。久住良晴(くすみよしはる)  この天候に最もそぐわない晴天の名前を持つ彼は最近、清平が部長として率いる美術部に入ってきた清平の一つ下、二年生の生徒だった。 身長170cmある清平よりも15cmは高そうな長身に如何にも女子にモテそうな見た目だけならサッカー部や、陸上部のような爽やかな風貌の彼は突然、美術部の部室の扉を押し開けてづかづかと入ってきた。 呆気にとられてる部員たちを尻目に、同じく呆気に取られていた清平に「入部希望です」と爽やかな見た目を裏切りぶっきら棒に入部届を突きつけてそして出て行った。 入部届は顧問の先生に渡して、と言葉を紡ぐ時間はなかった。 良晴のくせに嵐みたいな男だ。 まだなお不自然に風景を撮り続ける男を見下ろして「じゃあ写真部に入ればよかったのに」と言いたくなる衝動を飲み込んで部室を出た。 階段を降りて目下に見落としていた渡り廊下に出るとそこに久住はもういなかった。なんであいつは美術部に入ったんだろう…と純粋な疑問がもくもくと湧いた。 入ってから一か月になるが、しょっちゅう顔を出す割には、絵を書くこともせずつまらなそうにスマホをいじっている。 色気づいた女子部員が描絵を赤くした顔で誘っていたが「気分じゃない」その一言で玉砕し、他にも挑んだ部員もみんな同様心折られ、そのうち声をかけるものはいなくなった。 周りからの無言のプレッシャーと一応部長の面目もあり、清平も声をかけた日もあったが目も合わせずに「大丈夫です」とすげなく言われるだけだった。大丈夫ですってなんだろう。 おたくなんのためにうちに入ったんですか?喉元まで出かかった言葉は目前にした色男の迫力に胃袋まですっこんだ。 情けないとあざ笑うなら笑うがいい。俺はこういうの苦手なんだ。 (おいおいしっかりしろよ部長)と部員たちの冷たい視線を浴びた気がしてその日は用事を思い出したフリで早くに帰宅した。 もともと部活動が盛んで学生の半分以上は部活動に勤しんでるような学校なので、周りに合わせるように興味はなくても適当な部活に入るという空気を読む生徒が多くどの部も幽霊部員を多数抱えていた。 その中でも美術部は幽霊部員だとしても地味だし、オタクっぽいと敬遠される悲しい現実を抱え、在籍部員数は学校内でも最下位で十数人にも満たない。その中で真面目に絵が好きで通ってる部員はさらに半数にも満たない。 部長の清平と副部長で今は大病で入院中の吉澤と下級生の数名くらいだった。でも清平にはそれがよかった。 人と深く付き合うことを嫌う清平にはこの状況が心地よかったのに…。 ふと脳裏に二年生の女子部員が三日前なんとなく教えてくれた噂話が過った。「久住くんがはじめて部活に入ったって色んな女子が色めき立ってて、久住くんに近づきたくて美術部に入ろうって話が女子たちの間で出てるらしいですよ」先輩も見た目だけなら綺麗で実は人気だし…私はもともといたからラッキーと悪戯っこのような笑みを浮かべていてその時は見た目だけなら綺麗って…と苦笑いで済んだけれど、よく考えればそれは清平には笑えるような話ではなかった。 なんだか嫌な予感がした。平凡で穏やかな日常が崩れるようなそんな気が。大袈裟だ、考えすぎだと笑えたらいいのに…このままだとうじうじした天気に引きずられてもっと泥沼になる気がして清平は家路を急いだ。
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