家族の肖像

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 昨夜から降り出した雨は、日中には一度上がったものの、夕方を過ぎてから再び振り出し、雷を伴って雨足が強まってきた。今年の梅雨は雨が優勢のようで、しばらく太陽を拝んでいない。  雨に打たれるのは鬱陶しいが、そろそろ出発しよう。   一ヶ月前の夜もこんな雨だった。この街に流れ着いて約一年、その日暮らしを続けていた俺だが、ねぐらにしていた雑居ビルが解体されるとかで居場所が無くなった上、二、三日ろくな物を食っていなかった。  その日、降り続く雨を少しでも避けようと公園で雨宿りをしていた俺は、疲労と空腹でついに動けなくなってしまった。  ごった煮のような多国籍タウンで、よそ者やワケありにも干渉しない、清濁併せ呑むこの街は、己の才覚一つで渡って行ける反面、弱者に情けをかけるお人好しは少ない。 生活基盤が崩れた今、ついこの間までは居心地が良いと思っていた街に、俺自身が飲み込まれようとしていた。  それでも、物心ついてから自分の力で自分のためだけに生きてきた俺は、強がりだと分かっていても、そんな生き様に満足していた。 意識が薄れ、三途の川が見えた頃。 「大丈夫?」  しゃがみ込んで心配そうに覗き込む、見覚えのある女。俺も何度か世話になった事のある、近くのスーパーで働いていたはずだ。名前は確か暁美。俺のことを汚い物のように扱う他の店員と違って、この街では絶滅危惧種並に珍しい、お節介でお人好し。暇をもてあます年寄りに捕まって話し相手にされているのを何度も見たし、俺自身、賞味期限切れの食品を、内緒で何度か貰ったことがある。  いつもなら、これが大丈夫に見えるのかと返すところだが、今の俺には軽口をきく体力も、気力も残っていなかった。 「仕方ないなあ」  俺は暁美に抱きかかえられ、アパートに連れてこられた。暁美は用心深く周りを見回し、誰にも見られていないのを確認してからドアを開ける。日本のアパートの大半は契約者以外住めないから、近所の目を気にしてのことだろう。  狭い部屋に入ると、小さな女の子が物珍しそうに俺を見ている。小学校の二、三年生くらいか。クリッとした瞳には、抑えきれない好奇心。 「繭子、お客さんのことは内緒よ」  暁美は女の子に向かって人差し指を口に当てると、片目をつむった。  雨で薄汚れ、冷え切った俺を風呂に入れドライヤーを使った後、暁美は再び出掛ける支度をした。 「ママ、またお仕事行っちゃうの?」 「お客さんの分のご飯を買ってくるだけよ。すぐ戻るから、帰ったらみんなで晩ご飯よ」  寂しそうな表情の繭子に言うと、暁美は出て行った。  残された繭子は、寂しさより好奇心が勝ったようで、俺に話しかけてくる。 「あなた病気なの?お名前は?」  俺は日本語を聞き取れるが、喋る事は出来ない。繭子に俺の喋る言葉を理解出来ないのは分かっていたが、無視するのも大人げないし、体が温まり多少気分が良くなっていたので、正直に答えてやった。 単に腹が減って疲れているだけ、名前はシアン。自慢はサファイアのような青い瞳。自分で言うのも何だが、狡猾で喧嘩が強いせいか、あだ名は青い悪魔。最も、今はお前とか、おいとか呼ばれることが殆どだった。  俺が初めて口をきいたからか、繭子は嬉しそうにうんうんと頷いてにっこり笑ったが、俺が話した内容は理解していないだろたう。  それでも満足した様子の繭子は、部屋の隅に置かれたカラーボックスから、水色の箱を取り出した。蓋には【お絵かきセット】とマジックで書いてある。元はクッキーか何かの缶か。蓋を開けると、短く使い込まれた鉛筆や不揃いの色鉛筆にクレヨン、消しゴム。画用紙の代わりに、クリップで留められた裏が白いチラシが入っている。   繭子はチラシと鉛筆を取り出すと、俺を見ながら絵を描き始めた。似顔絵でも描いているのだろう。ふと気がついて見回すと、繭子が描いたと思われる絵が、十枚くらい飾られていた。芝生の上でご飯を食べている暁美と繭子、俺がまだ会っていない男。歳は暁美と同じくらいに見える。その中でも、男が暁美に花を送っている絵に目がいった。見たことのある背景は、街はずれの河川敷か。送っている花は、自生している草花を摘んだもののようだ。満面の笑みを浮かべる暁美と、嬉しそうに見守る繭子の表情がいい。絵にはそれぞれ、下手くそな平仮名でタイトルが付けられていた。 拙いところもあるが、バランスが良く、紙いっぱいに描かれている。見たものというより、繭子が感じた気持ちを描いているようだ。  同じ男が描かれている絵が多いのに、部屋には気配が無い理由は、すぐに分かった。 仏壇と呼ぶにはあまりにも質素な箱に、位牌と優しく微笑む写真。繭子の絵のそれだ。 鼻の奥がつんとして、俺は目をそらした。仏壇には気づかない振りをして、繭子をちらっと見たが、気にはしていないようなので少しほっとする。  繭子がまだ下書きをしている最中、暁美が帰ってきた。 「おかえりなさい。いま、お客さんを描いているの」 繭子が下書きを暁美に見せる。 「ただいま。繭子は本当に絵が好きね」 絵を手に取ると、暁美は感嘆の声を上げた。 「上手!目が良いわね。仕上がりが楽しみだわ」 俺もちらっと見たが、眼光鋭く窓を見つめる様が、迫力満点で描かれていた。俺は自分でも容姿に自信を持っている。男前に描かれていることに満足した。  俺の分を急遽用意したからか、夕食は普段より遅くなってしまったようだ。あまり時間は取れなかったが、誰かと一緒に食事をする時間を、久しぶりに味わった。  慌ただしく片付けを済ませると、繭子を風呂に入れる時間らしい。あっという間に九時を回り、一休みする間も無く繭子を寝かしつける。俺がいるせいか、中々寝ようとしない。 「ママ、繭が寝たらお客さんは帰っちゃうの?」 来客が嬉しいのか、帰ってほしくは無いようだった。 「明日か明後日までは居てくれるみたいよ。それ以上帰らないと、お家の人も心配しちゃうからね」 言い聞かせるように、暁美は言った。 「お客さんも疲れているから、早く寝ようね」 「うん。おやすみなさい」 暁美と俺に言って、繭子は布団にもぐり込んだ。  繭子の視界に入ると気になるだろうから、俺は部屋の隅で寝かせてもらうことにした。  俺のような流れ者と違い、昼間働いている家庭の朝は早い。卵が焼ける旨そうな匂いで目が覚める。一瞬、自分がどこにいるか分からず身構えたが、繭子の笑顔で緊張感がほぐれた。 「おはよう」 にっこり笑う繭子に返事をして体を伸ばす。 きちんとした食事と睡眠のおかげで、体がだいぶ楽になったのを実感した。 「目が覚めた?朝御飯にしましょう」 小さなテーブルの上には、卵焼きとタコのウィンナー、ミニトマト。 「いただきます」 暁美と繭子は、手を合わせてから箸を取った。用意して貰った自分の分を、俺も有り難く頂戴する。  後片付けと歯磨き、身支度を整えると、暁美は仕事、繭子は学校だ。ピンク色のランドセルが、覆い被さるくらい大きく見えた。 「静かに休んでいてね」 「いい子にしていないとダメだよ」 暁美と繭子が手を振って出かけて行った。  二人が出かけてしまうと、俺は何もやることが無い。二時間ほど寝て起きると、トイレのついでに部屋を見回した。こじんまりとしたキッチンと六畳一間に押し入れ。壁のカレンダーには、赤丸の印と平仮名で『おたんじょうび』の文字が記入されている。暁美か繭子の誕生日だろう。家具や電気製品は必要最低限で、慎ましい暮らしぶりがうかがえた。  後々面倒になりかねないのに、弱った俺を放っておけなかったお人好しの暁美と、純心な繭子。 いつまでも俺がいたら、迷惑になる。二人の生活を壊さないためにも、体調が戻りしだい、早めに出ていくべきだろう。 いや、嘘だ。出て行くのは、自分自身のため。本当は、これ以上優しくされると、俺が戻れなくなるからだ。なんの見返りも求めずに優しくしてくれる親子の事が、俺は大好きになっていた。ずっと一緒にいたい、そんな夢は見ない方が傷つかずに済む。  二日後。繭子が描いてくれた俺の絵が完成し、壁に飾られた。部屋の隅から窓の外を見ている構図だ。出来栄えに俺は満足した。  三日間暖かい家庭で過ごせた上、小さな天才画家に肖像画まで描いて貰えた。これ以上甘える訳にはいかないし、きちんとした食事と休養で、体力も戻りつつある。そろそろサヨナラを言う時だ。 暁美には、昨日からそろそろ出て行くことを匂わせておいた。  いつもより少しだけ豪華な夕食を食べ終えると、暁美は手早く後片付けを済ませ、繭子を風呂に入れる。ドライヤーで乾かす繭子の髪からは、陽だまりのようないい匂いがした。  繭子を寝かしつけると、俺は暁美とアパートを出た。助けて貰った公園までは、歩いて五分もかからない。 「ごめんね。中途半端に助けて、また追い出すようなことしちゃって」  暁美は泣きながら俺を抱きしめた。 何故謝るのだろう。暁美と繭子は何も悪い事をしていないし、それどころか無条件に優しくしてくれた。三日前に助けて貰えなかったら、俺はあのまま死んでいたかもしれない。そして貰った夢のような三日間。 それに、出て行くのは自分の意思だ。 俺は今まで、自分の容姿とずる賢さを武器に生き延びてきた。これからも同じように生きればいいだけのこと。  一人で寝ている繭子が心配だし、別れは素っ気ないくらいの方が良い。 鼻をじゅるじゅるさせて泣いている暁美の腕を、俺はすり抜けた。 暁美や繭子への未練を断ち切るため、振り返らなかった。  翌日からは、いつも通りの日常だ。 日々の食事と住み処を得るため、頭も体もフル回転させなければならない。何しろ、住所不定・無職と言っていい身だ。  それでも、暁美と繭子のことは気になっていた。繭子には黙って出て行ったから、あの後暁美は責められたはずだ。  俺は、時間を見つけては二人の様子を見に行った。遠くから、見つからないように。  学校から帰った繭子は、相変わらず絵を描いている。  暁美の仕事は忙しいようで、アパートに帰る時間が遅くなることが多くなっていた。 一人で寂しそうに留守番をしている繭子を見ていると、無力感に襲われる。何もしてやれない自分が嫌になった。  梅雨末期のその日の午後、昨夜からの雨が上がったのを見計らい、俺は繭子の様子を見にアパートに向かった。そろそろ学校から帰っている頃だ。 繭子に見つからないよう、アパートの塀の間からそっと様子をうかがうと、危なっかしく椅子に乗った繭子が、新しい絵を壁に貼り付けている所だった。  俺の顔のアップ。自慢の青い瞳が、窓の向こうから俺に問いかけていた。未練がましいぞ。いつまでストーカーのような真似をしている?  いたたまれなくなった俺は、足早にアパートを後にした。  街中をフラフラしていたが特に行く当ては無く、無意識に公園に向かって歩く。何もすることは無く、暁美に助けられた東屋で時間を潰す。  この街を出る。これまでも何度か考え、中々決心がつかずにいたことだが、今がその時かもしれない。最後にもう一度暁美と繭子の顔を見たら街を出る、そう決めて再びアパートに向かった。そろそろ七時、暁美も帰ってくるはずだ。  少し前から再び振り出した雨は、雷を伴い激しさを増している。あちこちで落雷の轟音が鳴り響いていた。雨に濡れるのは鬱陶しいが、今を逃したら決心が鈍るのは目に見えている。  びしょ濡れになりながらアパートに着いたが、暁美の部屋は電気が消えていた。隣の部屋には明かりが灯っているから、停電では無いし、人の気配も無かった。  嫌な予感が頭をよぎる。小学校二年や三年の女の子が、一人で出かける時間では無い。 少し迷ったが、暁美の働いているスーパーに行くことにした。暁美がもう帰っていれば、二人で出かけていると判断して良いだろう。だが、まだ暁美が働いていたら、自分の意思かどうかは別として、繭子は一人で出かけていることになる。そんなことは今まで無かったから、胸騒ぎがして仕方ない。  スーパーに着いた俺は、暁美の姿を探して回った。 入り口からは姿が見えないため、裏口に行こうとした時、カートを片付ける暁美を見つけた。 「繭子がいないんだ!さっき見に行ったら、部屋が真っ暗で繭子がいないんだよ」 俺は人目を気にせず暁美に駆け寄り、服に手をかけた。 「どうしたの、何故ここに?」 俺がいきなり顔を見せたからか、驚いている。だか、ゆっくり説明している暇は無い。 「だから、繭子がいなくなったんだよ!一度学校から帰ってきたけど、一人で出かけたみたいなんだ」 言葉が通じないのがまだるっこしい。それでも暁美は、俺の様子がおかしいことは理解したようだ。 「早く探した方がいい。この天気だし、小さい女の子が帰らないなんて、困ったことが起きてるはずだ!」  言葉が通じないなら、実力行使だ。俺は暁美の服を必死に引っ張った。 訳も分からず戸惑っていた暁美だが、俺の様子があまりにもおかしいせいか、一度店内に戻ると着替えを済ませてきた。小さなレジ袋を下げている。 無理を言って早引けさせてもらったようだ。 俺はすぐさまアパートへ走る。 「ちょっとっ!」 慌てて暁美が後を追ってきた。 アパートまでは、走ると約五分。全力疾走で息が上がる。 アパートの部屋に電気が点いていないのを見て、暁美が慌ててドアを開けた。 「繭子!繭!いないの?」  暁美の後ろから部屋を覗いたが、荒らされた様子は無い。書き置きなども無いようだ。 暁美は携帯電話をあちこちにかけている。 「もしもし、同じクラスの山村です。ウチの繭子がお邪魔していませんか?」 「分かりました。どうもすみませんでした」 何カ所かに電話をかけたが、繭子は見つからないようだ。パニックになりかけている暁美は、わずかの間考え、再度電話をかけた。 「もしもし、娘がいなくなったんです。小学校の三年生、九歳です。いえ、今までこんなことは‥‥。はい、友達の家とかは全部確認しました」 警察にかけたようだ。 「ああ、どうしよう。何でこんな日に‥‥」 暁美はしゃがみ込んで泣き出してしまった。 すぐに近所の交番から警察官が二人やってきて、暁美に事情を聞き始めた。 まだ夜の七時前という時間のせいか、それとも近頃の子供は夜遅くまで出歩くのが普通だと思っているのか、警察官は危機感を持っていないようだ。一応、などと言いながらのんびり無線で照会をかけている。 こんな奴らに任せておいたら、手遅れになりかねない。  必死に考えた。ドアに鍵はかかっていたし、部屋は荒らされてもいない。おそらくは繭子自身の意思で出かけたのだ。書き置きが無いのは、すぐに帰るつもりだったからだろう。それほど遠くには行っていないはずだ。  俺はもう一度部屋を覗いた。 考えろ、お前は狡猾な青い悪魔だろう! 自分を叱咤する。 少なくとも俺が知る限り、繭子一人で出かけるのは初めての行動、何か訳があるはずだ。 ふと、暁美の持っていたレジ袋に目がいった。中味は赤いリボン柄が印刷された四角い箱、ケーキか。 壁のカレンダーを見る。『おたんじょうび』の文字が書かれた日付は今日。暁美がケーキだけ買って、プレゼントを用意していないということは、繭子の誕生日では無いはずだ。 母子二人、母親の誕生日を祝うという名目で、繭子にケーキを食べさせるつもりかもしれない。  誕生日でひらめく。壁に飾られた、『おたんじょうびプレゼント』のタイトルが付けられた絵。夫と思われる男から花を貰い、満面の笑みを浮かべる暁美と、それを見守る繭子。幸せそうな家族の肖像。  繭子は同じ花をプレゼントするため、摘みに行ったのではないか?描かれているような、満面の笑みの暁美が見たくて。  繭子は河川敷にいる。考えるより先に、俺は走り出していた。警察官と何か話していた暁美が後を追って来るのが、視界の隅に入った。雷雲は離れつつあるが、強い雨は止む気配が無い。びしょ濡れになりながらの全力疾走。踏切を渡り、商店街を抜け、バイパスを突っ切った。肺は断末魔のような悲鳴をあげ、体中が酸素を求め反乱を始める。視界が白くなり、脚がもつれてつんのめりそうになった。 止まるな!だらしないぞ、それでもお前は青い悪魔か。走れ!  視界が薄れたせいで、歩道を走ってきた傘差し運転の自転車に気づくのが遅れ、避けきれず僅かに接触して転倒した。 足や顔をしたたかに打ち付け、意識が遠くなりかける。ダメだ、繭子が待っているぞ。  ふらふらの俺は、三度目の挑戦でようやく立ち上がることができた。深呼吸を一度。血だらけの体を引きずるように、再び走り出す。ボロボロになりながら河川敷に着くと、絵に描かれていた場所を探した。黄色い花が自生している所だ。  あった。野球のグラウンドの隣に、黄色い花を咲かせたルドベキアが、信じられないくらい群生している。  繭子は?花を摘んでいる時に雨が降ってきたなのら、雨宿り出来る場所を探したはずだ。グラウンドに、屋根のある場所は限られている。  誰もいない雨のグラウンド、三塁側のベンチに繭子はいた。 膝を抱えて泣いている。右手には、黄色いルドベキアの花を握っていた。  ほっとした途端、俺はその場に倒れ込んで動けなくなってしまった。今になって打ち付けた足が熱を持って痛み出す。 「繭子!」  追いついた暁美が、繭子を見つけて抱きしめた。 「どうしてこんな所に?死ぬほど心配したのよ!」  繭子の無事を確認した暁美が、泣きながら聞いた。 「お誕生日だから、ママにお花をあげたかったの」 黄色いルドベキアの花を暁美に渡した繭子は続けた。 「最近ママはあまりお家にいないし、いつもつまらなそうだったから、繭のことが嫌いになったのかなって。パパがお花をあげた時、ママはすごく嬉しそうだったでしょ。だからね、繭も同じお花をあげれば、ママが喜んでくれると思ったの」 暁美は再びぎゅっと抱きしめた。 「寂しい思いをさせてごめんね。繭子のことを嫌いになるわけないよ。お引っ越しをするから、お金を貯めようと思って、お仕事を増やしていたの」  薄れていく意識の中で、俺は幸せに満ち溢れていた。生まれて初めて、他人のために何かをやり遂げたのだ。 母親と死に別れて以来、俺はずっと一人ぼっちだった。生き延びるためには、他者を思いやる余裕は無く、ある時は狡猾に、ある時は力ずくで、他人から奪いこそすれ与えた事は無い。  おそらく俺は、これからも同じように生きるだろう。それでも十分幸せだ。俺は無理矢理立ち上がると、重い足を踏み出した。大好きな母子に、サヨナラをするため。  直後、後ろから抱き抱えられた。 「ありがとう、繭子を助けてくれて」 体は泥だらけ、あちこちから出血してびしょ濡れの俺に、暁美が頬ずりをした。 「猫さんが探してくれたの?」  繭子は驚いた。 「そうよ。繭子がいないって教えてくれたの。ここを探し当てたのもこの子」 そうだ。何しろ俺は、青い悪魔だからな。 「凄いお利口さん」  繭子に撫でられると、無意識に喉が鳴った。 「この子がいなくなって繭子が寂しそうにしてたから、今度は堂々と動物と一緒に住める部屋を探していたのよ」 「じゃあ、猫さん飼っていいの?」  繭子が俺を抱き上げた。 繭子達と暮らせるのか?そう思った直後、俺は気を失った。 「動いちゃダメよ」  お姉さんぶった繭子に言われ、俺は窓際で横になった。骨にヒビが入った右の前脚にはギプスがはめられ、擦りむいた肉球や顔にはテープで止められたガーゼ。治療のためそこら中の毛を剃られて色男が台無しだし、何よりエリザベスカラーが鬱陶しい。  夏休みに入り、繭子は絵ばかり描いていた。  壁にはたくさんの絵が、タイトルと共に飾られている。 『パパ』『ママ』『わたし』そして『おとうと』  三人と一匹の、家族の肖像。        
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