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第2話 早乙女七星理事長
黒に近い茶色の、大きな木製の扉。
その前に立っている如月美衣紗は、ゆっくりと二度、深呼吸をする。
それから白いセーラー服に乱れはないか確認し、覚悟を決め、右手の甲で扉をノックした。思ったより音は響かなかった。それでもすぐに、柔らかい声が室内から応える。
「どうぞ。入ってください」
「失礼します」
如月は扉を静かに開けてから一礼し、理事長室に入った。そこは茶色い木製の家具で統一された、広い部屋だった。隅には革張りの茶色いソファセットも置かれている。壁一面の本棚に並ぶ書類ファイルだけが、この部屋で唯一カラフルな存在だった。
「急に呼び出してごめんなさいね」
「は、はい」
大きなL字型のデスクに座っていた早乙女七星理事長は、にっこりと笑った。眼鏡を外して、クリーム色のスーツの胸ポケットにしまう。
「そんなに緊張しなくていいのよ」
「はい」
放課後に理事長室へ行くよう担任教師から言われたのは、昼休みの時だった。食事が済んだ後で良かったと、如月は思った。もしもその前だったら、ご飯は一口も喉を通らなかったに違いない。
早乙女理事長は立ち上がり、デスクを回って近づいて来た。少し肉付きの良い身体を、白いワイシャツとクリーム色のスーツに包んでいる。濃い茶色の床を、同じくクリーム色のパンプスが踏んでいた。優しい瞳。腰まである長い黒髪。背はやや低い。
早乙女理事長は、聖陵女子学園の生徒たちの憧れだった。優しく、賢く、美しく、毅然としていて、まだ若い。
前理事長の事故死に伴ってその地位を急に引き継いだものの、早乙女七星は最初から完璧な指導者だった。まず学園内の施設はすぐに修繕、もしくは新築されて、それと同時に見る間に美化された学園内には、より明るい女生徒たちの声が響くようになった。学問だけでなく部活の成績も上がり始めて、それに合わせて人気もうなぎ登りになった。今では伝統だけでなく、人気も東北一の女子学園である。
「まずは座って。ちょっと長い話になるわよ。覚悟してね」
ふふふと笑いながら、ソファへ如月を促す。
如月は言われるままに、茶色いソファに腰掛けた。思ったよりも固いことに驚いた。高級なソファはみんな、身体が沈むくらい柔らかいものだと思っていたからだ。
「紅茶でいいかしら。砂糖はいる? ミルクは?」
「大丈夫です!」
大丈夫です、って変な返事だなあと如月はすぐに思った。それは口癖で、何でもそう答えてしまいがちなのだった。
昨日も心配してくれたドラッグストアの店員に大丈夫ですと答えてしまったし、助けてくれた銀髪で水色の瞳を持つ女性にも、大丈夫ですと言ってしまいそうだった。
ディーハーティーク。
如月は、その名前を思い出してしまった。
覚えておけ。
それがお前の、敵の名前だ。
早乙女理事長は、トレイに乗せたティーセットふたつを、低めのテーブルの上に置いた。このことをクラスメイトたちに話したら、羨ましがられるのを越えて、妬まれさえするのではないだろうか。
そしてデスクから青いファイルを取り、如月の目の前に姿勢良く座る。
「さて。どこから話したらいいのかしら。うーん」
しばらく間があったが、早乙女理事長は、少し硬めな声で言った。
「如月さんは、このまま当学園の大学部に進学したいのよね?」
「はい!」
「そしてファムンフォア聖王国の大学に、留学したいと考えている」
「……はい」
如月は驚いた。どんな話になるかと思っていたが、進学の話とは。どうも学園新聞に、ある男性教師が学園のパソコンでアダルト動画を見ていたと記事にしたことを注意するのではないらしい。
「私、恥ずかしながら、ひと月前にファムンフォア聖王国がどこにあるのか初めて知ったわ。ドイツとオーストラリアの間に、あんな小さな国があったのね」
「大きさは約150平方キロメートル。小豆島と同じくらいになります」
「それで、この」
と、早乙女理事長は青いファイルを開いた。
「進路希望書によると、進学と同時にアルバイトを始めて費用をため、二十歳になったら留学したい、と」
「はい」
「留学試験は英語で受けるの? 如月さんは、その、あんまり成績は良くないようね」
如月は恥ずかしくなった。
「なので、あの、ファムンフォア語、正確にはファーミューン語で受験しようと思っています。私は、その、あの」
「お父様がファムンフォア人だから、ある程度は学んでいたのよね。5歳までご一緒だったのでしょう」
「……はい」
「ファムンフォアに帰国後、行方不明だと、お姉様から伺っているわ。如月さんが、お父様の消息を今も気にしているってこともね」
如月は何も答えられなかった。自分の留学志望がそんな理由では、理事長に呆れられたに違いない。
すると、早乙女理事長はイタズラっぽく笑って、ファイルから数枚の書類を出してテーブルに並べた。細かいアルファベットがびっしりと行列している。
「これは何だと思う?」
「はあ。英語で書いてあるので、ちょっと読めません。あはは」
「当大学部と、ファムンフォア聖王立大学との、新しく始める交換留学に関する書類よ」
「ふああああ!?」
交換留学!
正規留学より、それは学費がだいぶ抑えられるはずだ。期間はその分、短くなってしまうけれど、半年もあれば父親を探せるだろう。いや半年も探すことができれば、きちんともう諦められるに違いない。
「もっと語学力を身につけてね」
早乙女理事長は、その書類を束ねながら言った。
「大学部に進学したら、交換留学生の第1号に推薦してあげたいと思っているのよ」
「あああああ!」
それで如月は、子供のように泣き出してしまった。
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